Friday, April 19, 2024
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挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~

#13: Akinori Ogata, Motorsports Business Management, Mooneyes Toyota Supra

暑い……

ミシガンに慣れた体には厳しい36℃の中、ダラスのテキサス・モーター・スピードウェイに到着。以前、当地の日本まつりやりんご会補習授業校に来てくれた、日本人唯一のNASCARナショナルシリーズドライバー尾形明紀選手が、NASCAR Xfinityシリーズにトヨタ・スープラで参戦するのだ。初のミシガン戦になった8月のレースに応援に行きたかったが、今回のダラスとなってしまった。ミシガン戦でも今回と同じスープラでの参戦だったが残念ながら予選落ち。Xfinityシリーズは厳しい……

#13: Akinori Ogata, Motorsports Business Management, Mooneyes Toyota Supra

ピットロードに到着するとまさに練習走行が始まるところ。予選が終わるまでは邪魔にならないように遠くから表情を伺うと、レースカーに乗り込む前にチーム員と打合せている様子。一瞬目が合ったので軽く会釈をするも表情はかなり険しい。数年ぶりに見る尾形さんはさらに研ぎ澄まされているように見えた。
さあ、熱い一日が始まるーー。

 

飛躍の年

ダラス戦は9月24日。2022年シーズンもすでに終盤である。振り返ると今年は尾形さんにとって特別な一年になった。
2003年に初めてNASCARの下位カテゴリーに参戦。そこから地道に挑戦を続けて2014年にナショナルシリーズの一角であるトラックシリーズデビューを果たした。
そこからは地元ノースカロライナの伝統あるヒッコリー・モーター・スピードウェイでリミテッド・レイトモデルクラスに参戦しつつ、トラックシリーズやその上のXfinityシリーズにスポット参戦を続けている。
地元の強豪や、ナショナルシリーズの猛者たちにもまれながら、少しづつ協力者や仲間を増やしてきた今年、ついに初優勝! NASCARの歴史の中で、これが初のアジア人の優勝。まさにNASCARの歴史に名を刻んだ。

その後も勢いは止まらず、最終的に5勝を挙げて年間ランキング2位でヒッコリーのリミテッド・レイトモデルクラスを締めくくった。
さらに初参戦となったノース・ウィルケスボロー・スピードウェイでの2日間では、初日が9位(参加30台)二日目が15位(参加31台)を記録、初めてのコースでも十分に戦えることを証明してみせた。

At Bristol Motor Speedway in Bristol, TN on September 17th, 2022. CIA Stock Photo

思えば尾形選手のNASCARドライバーとしての挑戦は苦難の連続だった。
そもそも日本でカーレーサーとして名を馳せていたわけではない。ほとんど裸一貫で渡米、少しづつ仲間を増やし、日系企業の協力を得ながら一戦一戦実績を積み上げてきた。
一方で厳しい洗礼も受ける。エンジンをメンテナンスに出したのに次のレースですぐに故障。トラックシリーズのスポット参戦では、自分で持ち込んだシートをチームから返してもらえなかった。しまいには、トレーラーごと工具や息子さんのレースカーまですべて盗まれたこともあった。
それでも二十年挑戦してきて、ヒッコリー戦では頼れるチームメンバーを得ることができ、成績も伴ってきた。そんな尾形さんを見ていてくれたのだろう、同じノースカロライナの建材会社がスポンサーを名乗り出てくれた。
これはつまり、地元ノースカロライナに、そしてアメリカに認めてもらえたことを意味した。

Xfinityシリーズでの戦い

XfinityシリーズはトップカテゴリーであるCupシリーズのすぐ直下に位置する。それこそスーパースターたち40名で争われるCupシリーズは、ヨーロッパで言えばまさにフォーミュラ1。Cupシリーズを目指す全米で一万人以上のレーサーがいるなかで、そのすぐ下で戦えるところまで来ているのだ。
しかし、潤沢な資金、スポンサーを持つわけではないので、Xfinityシリーズは年に数回のみの参戦。クルマにもコースにも慣れることができないジレンマがついてまわる。今回、決勝には最下位の38位からのスタートとなり、険しい表情のままクルマに乗り込む。

「スタート・ユア・エンジン!」

38台のV8エンジンが一気に目覚める。
消音器が無い排気管からの咆哮はまさにワイルド。一周1.5マイルのテキサス・モーター・スピードウェイは観客席もコロシアムのようにせり上がっており、全体に轟音が渦巻く。数周の予備走行を終え隊列が整うとグリーンフラッグが振られ、一気にアクセル全開!耳だけでなく全身で轟音を受け止める!

At Bristol Motor Speedway in Bristol, TN on September 17th, 2022. CIA Stock Photo

一周目、さっそく遅れ始める。エンジンが回っていない。いや、スピードを乗せられていない。やはりXfinityスープラで初のコース、厳しいか? しかし慌ててスピンするよりはまずじっくり……
24周目にコーション、黄旗が出てペースカーが入る。この時点ですでに一周遅れ。正直、このチームのクルマの戦闘力ではすぐに数周遅れになってしまうのだろうと思っていたので、24周で一周遅れは想定内。他車の脱落を待ちつつ周回を重ねて慣れていく、それがここ数戦の戦い方だ。

しかし、今日は違った。粘れているのだ。
次のコーションで周回遅れを挽回、さらに前車から離れないペースで周回を重ねる。慣れないクルマ、コースでも、ヒッコリー5勝、ランキング2位の腕前は伊達じゃないことを証明。Xfinityでも通用している!

200周で行われるレースも約半分まで差し掛かった頃、突然スピンを喫する。ピットに戻り左側だけタイヤを交換しコースに戻るが、足回りがおかしい。それによりまたスピン。…… サスペンション故障。ここでリタイヤとなった。

しばらく時間を置いてガレージに顔を出す。
「足回りが……」
流れを説明してくれる尾形さんの表情は悔しさが滲み出る。レース半分しか走れていない、と。しかし、話しているうちにレース前の険しい表情は消え、いつもの明るい笑顔に戻っていた。レースで結果を出すまでのプレッシャーの大きさを伺い知る。これがプロレーサーの姿なのだ。

今年を振り返りながら「初優勝をあげたこと」「ノースカロライナに仲間や協賛者を得ることができたこと」など、うれしそうに話す尾形さん。その表情、涙でよく見えなくなった。この人はとんでもないことをやり続けている……

最終目標はCupシリーズ。高校を出て内装業をやっていた若者が、なんの後ろ盾もなくアメリカに単身で乗り込み、ついにNASCAR最高峰に届くところまで来ている。
今までの挑戦を見てきてこれだけは言える。

尾形さんは、やる。どんなに苦しくても、厳しくても、やる。
今まで培った経験と方法論をもとに、やるべきことをすべて確実に実行する。
そして、必ずNASCAR Cupシリーズ、全米最高峰のレースに、挑む。

 

取材:JNC 写真提供:AKINORI PERFORMANCE LLC

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 3

Ogata 3

「カレーパンとシャケ弁当がいいな!」

今回のNASCARフェニックス戦に行くにあたって、「何か持っていくものあります?」に対する、日本人唯一の現役NASCARドライバー尾形明紀選手からの返信。

昨年から尾形選手はデトロイト日本まつりに駆けつけてくれていて、すっかりノバイの日本食がお気に入り。ノバイに来ると必ずカレーパンやクリームパン、ときには弁当も買って帰途につくのが習慣になっている。

そこで友人と二人、カレーパン、お茶、そしてシャケ弁当をかかえて、3000キロ先のフェニックスにフライト。

ちょうど一年前、ここフェニックスで尾形選手はNASCARのメジャーリーグである

Ogata 2Nationalシリーズの一角、NASCAR CAMPING WORLD TRUCK Series にデビューを果たした。今年前半は出場機会に恵まれなかったが後半から参戦。すでにニューハンプシャー、ラスベガスを完走。今日は昨年に続き二回目のフェニックス参戦である。

午前中の予選。轟音が響き渡り、一台ずつコースに。現在ランキングトップ、新進気鋭の若手、#4エリック・ジョーンズ。今回がデビュー戦となる若干17歳、#9ウィリアム・バイロン。四肢にハンディを持ちながらもダートでは一流の成績を収める#31リコ・アブリュー。そして2年連続王者、#88マット・クラフトン。

そこに見慣れたENEOSカラーの#63、尾形選手がピットアウト。まずは1周目、なかなかの速度で目の前のターン1をクリアしていく。いい感じだ。

Ogata 1ところが2周目、アクセルペダルにトラブル。これ以上走れず、決勝は最下位からのスタートとなった。

尾形選手は比較的明るい表情。友人の「全部抜いちゃいましょう!」に苦笑いしながら「がんばります!」

ランチを終えて再びガレージを訪ねると、トレーラーの上から尾形選手が手招き。

ハシゴを上ると、そこではレースウェイの全周を見渡すことができた。天気にも恵まれ実に爽快。尾形選手が笑みを浮かべながら指さした足元にはノバイから持ってきたシャケ弁当。レースウェイのど真ん中、青空の下で食べるシャケ弁当は最高!と笑ってみせた。時速230キロオーバーのバトルが始まる前ののどかなひととき・・・。

Exif_JPEG_PICTURE夕方の決勝。セレモニーまでの間、ドライバーはインタビューやファンの声援に応えたりと忙しい。隣に並ぶ#74ジョーダン・アンダーソン。尾形選手を撮影するテレビカメラの後ろから笑わせようとおどける。「調子はどう?」と尋ねると「アキノリには負けない!」

明るい!これがNASCAR。

Start Your Engines!

32台が轟音とともにコースイン、低速で隊列を整えていく。このスタート前の数周というのは何度観ても緊張する。尾形選手が出ていないレースは純粋にワクワクする高揚感だが今日は違う。デトロイト地区でサポートさせてもらうようになってから、NASCARをなんとも身近に感じるようになった。デトロイトでテレビで観ている方々も同じだと思う。期待と不安が交錯する何物にも代えがたい経験だ。

グリーンフラッグが振り下ろされスタート!32台が一斉にエンジン全開、大気がビリビリと震え、耳が受け取れる音量を超える!

いきなりターン1への飛び込みで4台を抜き去り28位。さらに戻ってきた2周目にはもう1台かわして27位。見事!

6周目、3台がクラッシュ。新人のバイロンが巻き込まれた。練習ではTop10に入るスピードを見せていたがさっそく洗礼を受ける。

さらに44周目にはアブリューもクラッシュ。2人とも厳しいトラックシリーズデビューとなった。

そうした数々のアクシデントをすべてかわしながら、バトルを繰り広げる尾形選手。ターン1で若干アウトにはらみ気味になるも、ターン3は誰よりも速く、ここで差を詰める。1周30秒そこそこ。息つく暇が無い手に汗握る展開。

レース中盤、20位まで順位を上げてきた。実は正直、今回のクルマではこのあたりが限界かと思っていた。しかしスタート前、尾形選手と話したとき、

「トップ20、行きますか?」

「冗談でしょ?15は狙う。」

その言葉通り、クルマの性能を超えて攻めるつもりなのだ。

残り50周を切ったターン3の飛び込み、3列、いや4列??ムリだ、スペースがない!

一番アウトに居た#63が壁にヒット、ダメージを負った。

観ていたメインスタンドから慌ててピットに向かう。ノバイでテレビを見ていた別の友人から電話が入り、「尾形さん、走ってないよ!」

そこでピットではなくガレージに戻るとクルマが。トレーラーの中では尾形選手とクルーが難しい表情で何か話している。すでにレースは終盤、ここで終わりか・・・。

我々には会いたくないだろうな、とメールだけ打って帰ろうとしたら尾形選手が顔を出してくれた。

「3ワイドになってるところで、後ろからぶつけられて。あそこはスピードが出てるから、一瞬でカベに弾き飛ばされる。」

「サスペンションが壊れた。直してもすぐにゴールだから。」

「残念!仕方ないね!」

笑顔を浮かべてはいるが・・・。

これが2015年シーズン最後のレース。2016年シーズンはぜひとも勝利、ノバイで日本食を楽しみながら祝杯を上げられれば、と願いながらミシガンへの帰途についた。

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 最終回:挑み続ける

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2014年11月。尾形の姿はアリゾナ州フェニックスにあった。NASCARのトップカテゴリーであるNational シリーズのひとつ、Camping World Truck Seriesに出場するためだ。NASCARから認められ昇格、このフェニックスでデビューとなったのだ。元F1ドライバーなど世界屈指のドライバーも戦っていたシリーズである。尾形はついにここまで来た。

アメリカでNASCARに挑戦し始めて11年。NASCARというものに出逢ってからは22年が過ぎたことになる。それまで様々な困難を乗り越え、ついにNationalシリーズまで来た。筆者はその過程について半年間取材を続けるなかで、“夢”を実現する、つまり夢を“現実のプラン”に変えて実行していくことの厳しさと、それに打ち克つために必要なことを学んできたように思う。

レースというものは非常に資金がかかるものであり、個人では限界がある。裕福な家庭に育ったドライバーも多いなかで、尾形はごく一般の家庭の出である。

そんな彼がNASCAR Nationalシリーズまで上がってきたという“偉業”は、意思と努力で夢を実現できるということを証明している。彼は言う。「可能性は誰にでもある」。

その可能性を現実に変えるにあたって尾形が何よりも大切にしてきたもの。それはまずなによりも“努力”し続けること。そして“つながり”“信頼”ではないだろうか。

「いろんな人が協力してくれたからここに居られる。そのことを忘れてはいけない。」

彼が言うその言葉は重みが違う。

プロレーサーとして協力や賛同を得るには相当な神経と体力を使う。さらに、そうして得た“つながり”“信頼”を維持するには、それに見合うだけの至誠を尽くし続けなければならない。それをここまで続けることで、彼は今日を迎えることができている。

総じてみれば、尾形は平地に安住せず、切り立った崖を登り続けているかのようにすら思える。そしてその生き様は、Nationalシリーズドライバーとなった今でも、そしてこれからもおそらく変わらない。むしろもっと厳しいものになるかもしれない。ただひとつ言えるのは、彼の強い意思はどんな困難にもひるむことはない、ということ。そしてそれに向かって突き進むことが彼をさらに強くする。それゆえに、普段 人に接するときには“優しさ”“気さくさ”しか表に出ず、日々の困難さを想像させない。そこに多くの人々が惹かれる。“挑む”人生そのものが、彼をここまで磨いてきたのだ。

「まだ道半ば。」

そう、これからも「NASCARドライバー尾形明紀」は歩み続けるのだ。

 

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第5回:スタート

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文:城 俊之   写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC

2010年夏に渡米した尾形の生活は、とにかく 苦難の連続。生活習慣、文化の違い、法律上の手続きなど不慣れなことばかり。加えて安定した収入も無く、その日々は過酷を極めた。

それでも、渡米してしばらく暮らしていた事務所生活から、友人でもあった事務所オーナーが、彼の自宅ベースメントに住む事を勧めてくれた。内装は無く、柱はむき出し。とても汚くておよそ人が住める場所ではなかったが、自ら掃除をすることからはじめ、住めるように少し改築を施し、ほんの少しではあるが人間らしい生活が始まったと思えるようになった。

そんな状況の中でも「TOTO」がスポンサーとして付き、レースカーや必要なものを用意し、年間の計画を立てることができたのは唯一の慰めになる出来事だった。依然、工具すら満足にそろっていない状況ではあったが、最低限2011年シーズンを戦う準備が整い、スタートすることができるのだ。これは本当に大きなことだった。

しかし間もなく、3月11日に東日本を襲った震災のニュースは、NCの尾形にもすぐに届く。そのとき家族は神奈川にいた。情報は限られ日本の状況がわからない。家族の無事は確認できたものの、度重なる余震と放射能問題のニュースなどを耳にするたびに不安が胸をよぎる。とにかく心配だった。家族を日本に置いておくことに居ても経ってもいられなくなった。

生活環境が落ち着いてから家族を呼び寄せるつもりだったが、アメリカに来る事に戸惑う家族を説得して急遽来てもらうことに。NC到着までわずか2週間、まさに身の回りの荷物だけを持っての渡米であり、家族にとっても厳しいアメリカ生活のスタートとなった。

こうして2011年は波乱のスタートとなったが、十分ではないが数戦のレース活動の目処が立ち、一戦一戦のレースを戦いながらアメリカでのレース活動がスタートできていることを尾形は感じ始める。日本で苦しみ、限界を感じて渡米。渡米後は様々な課題や不安と格闘。しかし「前に進めてきた」ことが少しずつではあるが、確かに形になりつつあった。

営業として数多くの企業を訪問する中で、尾形の活動に協賛してくれる企業も出始めていた。その中には数年前からエンジンオイルを支給してくれていた企業があった。このENEOSとの関係がやがて太く、強固になっていき、2012年はENEOSカラーのトヨタ・カムリでの参戦へと繋がっていくことになる。

NASCARからも尾形のローカルレース シリーズでの戦績が認められ、リージョナルシリーズのひとつである「NASCAR K&Nプロシリーズ」への参戦が決まり、NASCARドライバーにとって大きなステップを踏む事になった。

 

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第4回:つながり

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文:城 俊之 写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC

2010年8月、以前から借りていたノース・カロライナの事務所に到着。ここを拠点に新たな挑戦を始めようとしていた。

「日本人カーレーサーがNASCARの本場アメリカに活動拠点を移す」というと華やかなイメージがあるが、日本での資金調達に限界を感じてアメリカに来た尾形が用意できた資金の額は想像に難くない。アパートを借りるお金など持っていないので、窓も無い狭い事務所に寝泊りする生活がアメリカ進出のスタートとなったが、勿論これは覚悟の上であった。そんな尾形がまず始めるのは「尾形明紀という人間が、アメリカにNASCARのレースをしにきた、ということを“知って”もらうこと」。スポンサー探し以前に、尾形はとにかく”人”伝えに”人”と会っていった。

8月の渡米後、唯一決まっていた予定が、以前にも参加したアトランタ Japan Festに再び招待されていた事だった。しかし所持金は既に底を突き、資金はアトランタへのガソリン代の片道分しかなかった。「日本から持ってきた自分のNASCARグッズがいくつか売れれば帰ってこれるだろう」と楽観的とも取れる行動に出るが、その時 その時 考えられる事を動くだけで必死だった。

一見無謀とも思えるが、尾形はNASCARのレース界に入って来る時に“ある確信”を持っていた。自分のやってきた事に不安を持った事はなかったが、誰も頼る人がいないアメリカで所持金が無くなる時に、さすがに初めて自分の置かれている立場に不安を感じた。しかし彼は「こうやればこうなる」ということを信じていたし、それを実行し続けるだけなのである。

「ダメだったら、という考えは持ったことがない。」

自分の考える道を進むのみだった。

事実、3日間のアトランタJapan Festではいろんな人が温かく受け入れてくれた。1人が2人に、2人が4人に、と輪が広がり、終わる頃には「みんなで年末までにアキノリをレースに出場させよう!」そこまで盛り上がっていた。

NCに戻った尾形は、ペンキ塗りや清掃などのバイトでガソリン代をつくり、とにかくいろんな人に会いに行く。会って、尾形明紀という人間を知ってもらい、NASCARへの情熱を伝えていった。そうして得た理解者・友人たちの輪が広がり、資金が少しづつ集まり、ついに皆の思いは年末のレース出場へと繋がっていった。8月から年末にかけて、まさに「激動の4ヶ月」を過ごす事となった。

尾形には人を惹きつける魅力がある。筆者自身、レーサーというと鼻持ちならない人種が多いと思っていたが、彼は違う。プロとして妥協を許さない厳しさ、礼節を持ちながらもユーモアや親しみやすさを併せ持つ“気さくさ”があった。筆者が記事を書くにあたっても、彼が選んだ道の険しさを実感しているが、それに対して決してブレることが無い芯の強さに圧倒され続けている。方や電話でくだらない話をしたり、飲みにいったりするときの屈託ない明るさは、彼が日々歩んでいる道の険しさを全く感じさせない。

そうした彼と、それを慕うアトランタやNCの仲間の活動と思いは、年明けにアトランタの日系企業へと届く。翌年 2011年シーズン、尾形のレースカーとレーススーツには堂々と「TOTO」の名が掲げられた。

文:城 俊之 写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC

 

挑む〜番外編: 尾形選手ナショナルシリーズ デビュー戦 観戦レポート

<!--:en-->挑む〜番外編: 尾形選手ナショナルシリーズ デビュー戦 観戦レポート<!--:--><!--:ja-->挑む〜番外編: 尾形選手ナショナルシリーズ デビュー戦 観戦レポート<!--:--> 1

文 : 城 俊之   写真 : 城 俊之 / 池知 友希

初日、朝からフェニックス・インターナショナル・レースウェイに入ると、すでに今回共に戦うWin-Tron Racing のメンバーが整備を進めていた。尾形選手の新しいクルマ「ENEOSトヨタ・タンドラ」のサスペンションのセッティングを入念に繰り返している。

尾形選手はやや緊張の面持ち。普段とそう大きくは違わないように見えるが言葉数が少ない。

「コースを観に行こう」。第一コーナーを眺めるピットウォールに立ち、下位カテゴリーのレースの練習風景を見つめる。ピットロードを歩き、立ち止まってまた走行ラインに目をやる。確認すべきところは頭の中に描けているようだ。そのまま1周、歩いた様子。私は表彰台の写真を撮りたかったのでここで別れた。いつもの軽口で「尾形さん!明日の決勝が終わったら、ここで待ち合わせ!」。笑顔が見えた。

Rookie Meetingに同行。写真を撮りたいから、と中に入れてもらった。

そこには、当然ながらアメリカ人ばかり。我々会社員は、アメリカ人と言えば同僚。つまり「仲間」として接してくれる。しかしここは違う。「尾形さんはこんな中で、こんな連中を相手に10年も戦ってきたのか・・・」それと同時に、ルーキーと言ってもNASCAR特別プログラムで上がってきたBen Rhodesや、チャンピオン候補のMatt Craftonなど今までテレビで観てきた「ヒーロー」が今、尾形選手の前に立ちふさがっている。「こんな連中と闘わなければいけないのか!」

あらためて、「ナショナルシリーズに上がる」ということの凄さに、背筋が凍った。

練習走行が始まる。なにしろ初めてのクルマに初めてのコース。まったく想像がつかない。私の感覚では「まっすぐ走ることすら難しいのでは?」。しかしローカルシリーズ、リージョナルシリーズと、NASCARを10年乗りこなしてきた尾形選手は「今までのクルマより乗りやすいって聞いてるよ」。不安半分と言いながら楽しみ半分、というところだったのだろうか。

走り出してみれば、若干抑え気味にも見えたが、走りはスムーズ。見てるほうとしてはむしろ安心できるくらいだった。1回目としては悪くない。このあたり、キャリアの差だろう。

1回目はホームストレートで観て、2回目は第一コーナーで観てみた。ここも他車と遜色あるとは思えない。突っ込んでくるスピードに大きな差はない。

練習走行が終わると入念に打ち合わせ。夕方の下位シリーズのレースでは、チームメンバーといっしょにトレーラーの上にあがり、レースを観ながら走り方を話し合った。明日が楽しみだ。

翌日、AKINORI OGATA SUPPORTERS DETROITの仲間と合流、観戦。午後の予選では遅いクルマに引っかかりタイムを伸ばせなかったが走る毎に手ごたえ。

夕方からいよいよ決勝。セレモニーで「AKINORI OGATA!」と紹介され壇上から降りてくる尾形選手にあたたかい声援と拍手。アメリカに移り住み、10年かけてNASCARに「居場所」を作ってきた尾形選手。「受け入れられているんだな」と思うと同時に、これは新しい道が開かれた瞬間なんだ、と感じた。

コースにスタンバイしたものの停電でしばらく待機。おかげで尾形選手のご家族はじめメインスポンサーのENEOSの方々、コ・スポンサーのMITSUBAの方と話をしたり記念写真を撮ったり。しかしいよいよ乗り込むことになるとピンと空気が張り詰めた。

我々はピットウォールの外から、尾形選手が車に乗り込み準備するのを見守った。

「Drivers! Start Your Engines!」

轟音とともに、なんとも言えない感情が。「どうか無事で!」「走りきって!」そして「ついにここまで来た!」。

何も言葉にできなかった。ただ左手を大きく挙げてサムアップすると、なんと尾形選手もコクピットからサムアップを返してくれた。もう、何もいらなかった。

スタート!5700cc V8を積んだ34台が一斉に全開。その轟音とスピードの中に尾形選手はしっかりとついていった。

我々はWin-Tron Racingのピットに移動。指令席から戦況を見守る。

早々のクラッシュでオイルがまかれ、その除去剤でさらにクラッシュするクルマが続出。Timothy PetersやJeb Burtonといったトップドライバーが犠牲になっていくなかで、尾形選手は堅実な走りでそのクラッシュをかわしていく。一度、目の前のクラッシュを避けるのに大きく振られたがクリア。このあたり、若さが先行して無謀なアタックが繰り広げられるWhelen All AmericanシリーズやK&Nプロシリーズという下位カテゴリーを戦い抜いてきた尾形選手ならではであろう。このとき、スタート時の28位から10位上げて18位。「デビュー戦でTOP20フィニッシュしたらスゴイことだぞ!」

しかし45周目、帰ってこない。後ろのビジョンモニターを見るとゆっくりと最終コーナーをまわってくる#35 ENEOS タンドラ。そのままガレージに向かう入口でストップ。Win-Tronのメンバーが駆け寄る。

やがていったんガレージに入っていった。

私はガレージに行かなかった。クルーに「彼は戻れるのか?」「パーツを換えてる。戻ってくる。」その言葉と、モニターの「OFF」(OUTはリタイヤ。)を信じたかった。戻ってくるのを、ここで待つことに決めた。

クルーが残念そうに片付けを始めた。損傷が大きく、間に合わないと判断された。それでも私はガレージに戻るのを躊躇した。かける言葉がなかったからだ。

仲間と、「あいさつだけして帰ろう」とガレージに向かった。

トレーラーの中の一番奥の事務所に、奥様の姿が見えた。私に気づくと「入ってきても大丈夫。」と手招きしてくださった。

「尾形さん、お疲れ様でした。我々はホテルに戻ります。」

「みんな居るの?」

そういうと一緒に外に出てきてくれた。

「残念。悔しいね。すごい音がしてね。リヤギヤが壊れちゃった。」

「でも18位まで上げましたよね!すごかったです!」

「TOP10いけるかな?と思ったんだよね。 よくばり過ぎたかな?」

ようやく笑みがこぼれた。内容がよかっただけに、手ごたえを感じたはず。初めてのクルマ、初めてのコース。わずか2回の練習と予選の間に、十分に戦えるだけの技術を身に付けていったのだ。まさに驚異的。それだけに悔しかっただろうが、大きな自信につながったのではないだろうか。

私はそのあとどうやって別れたのか覚えていない。

尾形選手の10年の挑戦と、それを支えてきてくれた多くの人たちの思いが詰まったこの2日間。あまりにも多くの感情、自分では抱えきれなかった。抱えきれるはずがない。

尾形選手は多くの応援してくださる方々に支えられて、そして一緒に喜びも悲しみも分かち合いながらここまで来たのだ。今日のデビュー戦、祈ってくれた方々が世界中にたくさん居たことだろう。いつかそういった方々とこの気持ちを分かち合えたら、と思いレースウェイを後にした。

 

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第3回:苦悩

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ミジェットカー参戦3年目の2002年、初めてのスポンサーとなってくれた会社から「翌年も」とオファー。そこで「来年はアメリカに行ってNASCARに乗りたい」と切り出すと、承諾してもらえた。

さっそく渡米してチームを探すが、誰一人 良い顔をしてくれる人はいない。スポンサーも決まっており資金面では問題無いはず。だがNASCARのローカルシリーズは地元チーム、地元ファンが支え続けているレース。日本から来た無名のドライバーを受け入れてくれるチームは無かった。

3回目の渡米でようやく乗せてくれるチームに出会え、念願のNASCARデビューを果たす。しかし、試練はアメリカのみでなく、「資金を調達する厳しさ」という形で、日本に待ち受けていた。

日本でプロスポーツと言えば野球、サッカーが有名。カーレースとなるとF1以外は一般の知名度は低い。そこに「NASCAR」と言うとほとんどの人が首をかしげる。ましてローカルシリーズ。スポンサー探しは難航した。NASCARに出始めればスポンサーがつくと思っていたが、日本で営業でまわるところの反応は「ローカルシリー
ズ?」以前に「NASCAR?」「カーレース?」 ・・・ついに3年目には1戦も乗ることができなかった。上のシリーズにステップアップするどころか「出れない」。考えが甘かった。

仕事の傍ら、とにかく営業。人脈は広がり、多くの人々が応援してくれるようになっていき、皆が何とかしようとしてくれた。しかし、なんともならないこの現状に尾形は焦り、「日本でNASCARの営業をする」ことに限界を感じ始める。死に物狂いでここまで進んできた尾形だが、このころはさらに苛烈さを増していた。

「アメリカに行ってNASCARレースに出る」「そのための営業をする」そしてアメリカで走れない間も「レーサーでいるために」ミジェットに出る。NASCARを走り、ミジェットを走り、腕を磨く。そして2006年、念願のミジェット初優勝。オーバルレーサーとしての核心に迫っていった。

ミジェットでの「勝利」にこだわったのには理由があった。「NASCARのスポンサーをお願いするとき、「NASCARに出たい」と口で言うだけでは人には伝わらない。何をやるにしても『言っていること』『やっていること』がすべてつながっていないと、誰かを説得することはできない。『妥協』ということはありえない。」
日本を拠点にしてNASCAR活動をする限界の果てにきた尾形が、「生活の心配」「資金の問題」がありながらも取った決断が『アメリカに移り住みレース活動をする事』だった。

新しい幕開けには心配、問題事は常についてまわっていたが、レース活動には大きな転機となっていった。

文:城 俊之 写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC

 

挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第2回:プロセス

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勝利。ツインリンクもてぎで開催されるミジェットカーレースの表彰台に尾形の姿があった。NASCARとの出会いから12年が経っていた。

NASCARと出会って数年後、新婚旅行で行った初めてのアメリカにはNASCARのミニカーがたくさん売っていた。幼少の頃からミニカー好きだった尾形は、さっそく実家のインテリアショップに展示。「ずっとNASCARに触れていたい」。そう思うようになるのに時間はかからず、尾形は翌年、地元相模原でNASCARショップを始めることを決意した。

同時に、実際にNASCARのレースを観戦するために再度渡米。場所はDAYTONA INTERNATIONAL SPEEDWAY。その爆音とスピードは、尾形にとってただただ衝撃的だった。

完全にNASCARの虜になった尾形は、ショップの経営を通して貪欲にNASCARの世界に飛び込んでいく。その頃NASCARはミニカーやグッズの展開を「大きなビジネス」として進めており、ファンを中心に、ドライバー、チーム、スポンサー、メディアをまるで大きな輪のようにつないでいった。この時期にミニカーショップを経営していた尾形には「NASCARというビジネス」を理解するのに絶好のタイミングであった。

またミニカーの世界からNASCARの歴史を自然に学ぶ事ができた。NASCARは現在でも、67年間の歴史を尊びながら進化を続けている。往年のドライバー達が繰り広げてきた名レースは、現在のファン達にメディアによって常に伝えれ、それらの当時のレースカーはレプリカとして再現されたり、カラーリングを現在のレースカーに施すなどして、歴史を学びながら楽しめるようなしかけに満ちていた。

そう、もはやNASCARは「アメリカの文化」なのだ。

それを学んだ尾形は「NASCARこそ、プロとしていられる世界」であると確信した。

だから彼が「レーサーとしてプロを目指す」と決めたとき、NASCARを目標にしたのは自然なことだった。日本での活動でも、彼はメジャーなレースではなく、むしろ日本ではマイナーとされてきたダートオーバルを選んだ。NASCARを目指すなら「オーバルレース」で学ぶべき。彼は「アメリカン・モータースポーツ」からブレなかった。

日本のオーバルレースでは、自分がアメリカの舞台に立っている事を想定して徹底的に「プロ」を意識して活動をした。走りは勿論、インタビューもNASCARドライバーのように 協力してくれた方々に敬意を表する事など徹底した。

「周囲は『尾形が何をしたいのか』明確にわかってくれた」と彼は言う。やがて次のステップが見えてきた。

NASCARへの挑戦。

文:城 俊之   写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC

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挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第1回:プロローグ

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NASCAR—日本ではなじみの薄いこのモータースポーツは、北米のTV視聴率ではNFLアメリカンフットボールに次ぐ人気を誇る。日本で人気のメジャーリーグやバスケットボールをも凌駕するほどポピュラーな自動車レースである。規格を厳密に管理されたストックカーを使い、イコールコンディションで争われる。750馬力をしぼりだす5,700ccのエンジンを積んだ1.5トンの車43台が時速200マイルオーバーで駆け抜ける迫力は、観る者を圧倒、魅了する。

過去何度か、F1ドライバーがNASCARに挑戦したことがあった。彼らのように世界で一流と言われるドライバーも、走行ラインのすぐ脇にコンクリートの壁が手招きしているオーバルコースと、ヨーロッパのレースカーの倍の重さがある、まったく勝手のちがう車に手をやき、ほとんどが実績を残せないまま戻っていった。尾形明紀(おがた あきのり)—日本のレース界で名をあげていた訳ではないこのドライバー、何のつても後ろ盾も無い状況にも関わらず、文字通り身一つで2003年に渡米。草レースの小さなプライベートチームを片っ端から訪問、車に乗せてもらえるよう慣れない英語で交渉を始めるが、ここで最初の壁に当たる。スポンサーが決まっているにも関わらず、どのチームも受け入れてはくれない。資金や実績の問題ではなく、彼が“日本人”であることが原因だった。しかし彼はアメリカの中に“居場所”を作るところからスタートすることを覚悟した。一見物静かにすら見える彼をここまで突き動かしているものは・・・

まずはそんな彼の生い立ちから見てみたい。

1973年、神奈川県相模原市に生まれた尾形は、小さい頃叔父にレース観戦に連れていってもらったり、また家の隣がバイク屋だったということもあり、自然とバイクに親しみ始める。14歳になるとモトクロッサーを与えられ、川原で走ってみたらもうこれが面白くて仕方が無い。片道2時間、毎日のようにバイクを押して川原まで通った。やがてレースに出るようになり、とにかくがむしゃらに「速く」なることだけを考えていた。スピードメーターを持たない純粋なレース用のモトクロッサーで育った尾形には「時速200km/hの恐怖感」というような、いわゆる一般の人々が持つ「速度との比較による感覚」は無い。ただ純粋に「誰よりも速く!」だけを求めて活動を続けた。

そうして優勝を重ねてモトクロス国際B級ライセンスを取得、全日本選手権に出場するようになる。このころには「プロとしてやっていきたい」と強く思うようになっていた。そんな矢先、練習中の大ケガで入院。リハビリを兼ねて散歩に行ったおもちゃ屋で、見たことのない形をしたミニカーに釘付けになる。赤いバドワイザーカラーに大きなゼッケン11。これが尾形とNASCARの出会いであった。

文:城 俊之   写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC