ホーム 心臓病治療の最前線

心臓病治療の最前線

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち 勝小吉

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち 勝小吉

江戸時代後期の不良旗本の回顧録”夢酔独言”から

JNC_2024-04-webs 7

 

筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線 第172回:血圧のお話

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線
JNC_2024-03-webs 7

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち 友情人形・答礼人形と渋沢栄一

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

友情人形・答礼人形は、1927年、日本とアメリカの関係悪化を憂いたアメリカ人シドニー・ギューリック神父の発案で行われた、日米の子供達の間の人形交換イベントでした。これに、今年発行される新一万円札の顔となる渋沢栄一が深く関わっていたことをご存じない方も多いかもしれません。本年三月三日のデトロイト美術館で行われるひな祭りにちなんで、現在、デトロイト美術館で、答礼人形展が行われています。三月三日には、答礼人形ミス秋田にちなんだ紙芝居も上演されると聞いております。みなさま、三月三日には、デトロイト美術館での雛祭りにぜひお出かけください。

シドニー・ギューリック神父は、南太平洋のマーシャル諸島で生まれ、カリフォルニアのオークランド高校を卒業後、エール大学で神学博士号を受け、1888年アメリカ伝道評議会の指示で来日してから25年間に、神父としてキリスト教の伝導に携わりながら、日本語に堪能となり日本人に英語や、科学、神学などを教え、同志社大学や、京都大学で教鞭も取りました。しかし1913年にアメリカに帰ってみると、アメリカ国内での日系アメリカ移民に対する差別が強くなっているのを見てショックを受け、地元カリフォルニアで、出身国による差別撤廃運動を行いました。しかし、その努力も虚しく、1924年にアメリカ議会で移民法が可決され、これは、議会が“望ましくない”と判断した国からの移民を停止させることができるという、事実上の日本移民排斥法でした。そこでギューリック神父他の方法を使って、アメリカ国内の反日感情を改善することを試みました。これが、国際子供親善会議で、その最初の仕事が、日本に友情人形を送ることで、これは、アメリカ国民の間で大きな反響をおこし、アメリカの子供たちが、バザーやスカウト活動で募金を募ったりした結果、12,739体の青い目のアメリカ人形が集まり、これは船に乗せられて、その年の日本の雛祭りに間に合うように届けられました。これに感謝の意を表する意味で、日本全国の児童生徒から一人1銭の募金が募られ、これを資金として、同年内のクリスマスに間に合うようにアメリカに58体の市松人形が答礼人形として送られました。日本人形たちは、それぞれの出身県の名前にちなんだ名前が付けられ、ミニチュアのお茶やお裁縫の道具セットやタンス、扇などの小物と共にアメリカに到着し、アメリカ各地を巡回したのち、各州の美術館に収納されました。残念ながら、日本とアメリカの関係はその後さらに悪化し、ついには1941年、日米戦争が始まり、1945年日本の敗北で第2次大戦が終わりました。アメリカ国内ではこれまでに答礼日本人形58 体のうちの47体が発見されました。日本ではこれまでにアメリカ友情人形12,739体のうち340体が発見されているそうです。

1927年、アメリカのギューリック博士と呼応して友情人形イベントを日本で組織したのが、日本国際子供親善会長の渋沢栄一氏でした。

渋沢栄一は、1840年、埼玉県血洗島(ちあらいじま) の富農の家に生まれました。実家は藍製造販売や養蚕で富を成しており、少年渋沢は、家業の手伝いをすることで、商業の知識や才能を磨いたと言われています。父からは漢籍の手ほどきを受けました。また、従兄弟から論語や日本史の教育を受けました。剣術もその頃に近所で神道無念流を教わったと言われています。注目すべき事は、この渋沢栄一にしろ、その1歳年下の伊藤博文にしろ、明治維新の頃に大活躍した人たちの多くは、学校にもろくに通わなかったにも関わらず、世界史に残るような偉業を遂げていることです。現在の日本の学校教育は必ずしもこのようなレベルの人間たちを産み育てることに成功していません。ハンコに押されたように、型にハマった人間だけを作ろうとする日本の学校教育は、考え直すべき時期に来ていると思います。

話がそれました。渋沢栄一は、若い頃、尊王攘夷運動の影響を受けて群馬県高崎城を占拠して横浜の外国人租界を襲撃する計画を立てますが、友人に諭されて思いとどまりました。その後親族に類が及ばぬよう父から勘当された体裁をとって、従兄弟の喜作と共に京都に出かけますが、京都では、攘夷派の長州藩勢力が一掃された八月十八日事件の直後だったため、攘夷派の伝手を求めていた栄一は、途方に暮れます。1861年、知り合いを通じて京都で将来の第15代徳川将軍一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える幕臣となり、一橋領内からの農兵の募集などで実績を上げ、主君一橋慶喜の信頼を得ました。1867年将軍の名代としてパリ万国博覧会に参加した徳川昭武(あきたけ:一橋慶喜の弟) に随行しました。そこで通訳として同じく随行したアレクサンダー・シーボルト(オランダ商館付きの医師でシーボルト事件で江戸幕府により国外追放されたフィリップ・シーボルトの息子)より語学や諸外国事情を学び、それに強い感銘を受け、パリに留学する予定を立てましたが、1868年明治維新の大政変が起きたため、主君徳川慶喜より日本帰国を命じられました。

1868年日本帰国後、渋沢栄一は、主君である徳川慶喜や徳川家に忠誠を尽くし、明治維新後に謹慎した慶喜と共に、静岡にとどまりました。しかし、翌1869年、明治政府から招待を受け、新政府に出仕することになります。明治政府内では、大蔵大輔の井上馨(いのうえかおる)の懐刀としてメキメキと頭角を表しますが、1873年、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と論争となり、上司であった井上馨と共に、明治政府から退きます。

その後は民間にあって、渋沢は日本資本主義の父といわれる大活躍をしました。複式簿記の導入、株式会社の創設、紙幣発行権を持つ中央銀行の創立は彼の数ある業績の一部です。国立第一銀行(現在のみずほ銀行)、東京株式取引所、帝国ホテル、日本赤十字なども渋沢が創立に関与したといわれています。渋沢はこのほかにも多くの日本の銀行や株式会社を創立しました。渋沢は農民の出身でありながら、華族(のちに公爵)の称号を贈られ、また正2位の位を授けられました。渋沢は、東京ガス、東洋紡、京阪電鉄、太平洋セメント、王子製紙、サッポロビール、日本郵船、東京海上日動火災保険、京釜鉄道、京仁鉄道をはじめ、500を超える会社の創立者または発起人となっています。彼はまた高等教育にも熱心で、一橋大学、東京経済大学、拓殖大学、二松学舎大学、同志社大学、早稲田大学理工学部、東京女学館、日本女子大学の設立に尽力し、東京慈恵医院や理化学研究所の設立にも尽力しました。渋沢は道徳経済合一の思想を説きました。

子爵となった渋沢栄一は1908年にはバンダーリップを長とする60人のアメリカ実業団の日本視察団を招待し、盛大にもてなしました。翌1909年には、これに応えて、渋沢はアメリカに招待され、渋沢が率いる日本実業家米国視察団は3ヶ月に渡りアメリカ各地53の都市を訪問し、盛大な歓迎を受けまた。

さらに、渋沢が率いた1915年の日本実業家代表団米国使節団は、珍田捨巳(ちんだすてみ)駐米特命全権大使の指揮のもと盛大な招待感謝セレモニーをニューヨークアストリアホテルで開催し、これには、渋沢に対する敬意を表するため、当時のアメリカ大統領タフトと前大統領セオドア・ルーズベルトが同席しました。民間外交にも尽力し、日米友好を進め、日仏学館、日本国際児童親善会などの創立にも関与しました。日本国際児童親善会長として友情人形の交換事業に携わったのは、渋沢が87歳の時でした。1931年死亡。享年91歳。

日本資本主義の父と言われる渋沢栄一。道徳経済合一の思想の提唱と実践を行い、アジアの封建主義の小国でしかなかった日本を、近代民主主義産業国家に育て上げ、国際社会の誇り高い一員とするために努力を惜しまなかった渋沢栄一、国際児童親善会会長として、答礼人形・友情人形のイベントを成功させた渋沢栄一、その名前は、日本及びアメリカの親善の歴史永遠に刻まれています。

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線 第171回:新年に思う

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

 

恒例のりんご会補習授業校 2023年度 文化祭行われる

2024年がいよいよ明けることになりました。2023 年は皆様にとってどのような年だったでしょうか?

2020年春から約3年間にわたって猖獗(しょうけつ)を振るった新型コロナウイルスの世界的大流行は、メッセンジャーRNAの技術を使ったワクチンの開発などの結果、昨年秋頃からようやく収束に向かい、今では、散発的に見られるだけの状況になりました。とはいえ、我々医師の立場からすると、病院には、今でもコロナウイルス感染による入院は、完全にはなくなっておらず、一つの病棟につき、一室か2室は、コロナ感染症の隔離患者さんが常に入院しておられる状況が続いています。これらの患者さんの病室に入るときは、今でも、頭の先からつま先まで完全防護して入室することになります。幸い病態は、2020年ごろに比べれば、大部分の患者さんで、はるかに軽症になっています。とはいうものの、今年の冬になって、インフルエンザの流行期と重なり、今年は、呼吸器合胞性ウイルス(RSV: Respiratory Syncytial Virus) の流行もあるということで、この季節は、三つのウイルス性呼吸器感染症と戦わなければならない状態となっています。良いニュースは、これらのウイルス性感染症に対して、良いワクチンが開発されていることで、新型コロナウイルス及びインフルエンザウイルスは現在広く行われていますし、RSVに対するワクチンも最近開発され、実用化がはじまっています。これらのワクチンを接種することにより、感染の危険を抑え、また、もし感染したとしても、重症化を防ぐ効果が証明されています。ハイリスクの方々また、65歳以上のかたは、ぜひこれらのワクチンを受けることをお勧めします。

最近日本とアメリカでほとんど同時に封切りされたゴジラ-1.0を見てきました。私が生まれ育った懐かしい昭和の時代とその心象風景がよく描かれていると思いました。まだ見ていない人にはぜひおすすめです。

今日の産経新聞電子版に、福島沖を含む日本近海で漁を続けている中国漁船の記事が載っていました。それらの漁船で獲られた魚は、中国国内産の魚として中国内で販売されているそうです。日本産の魚とその製品には、福島原子力発電所からの処理水放出を口実として、国際法違反の禁輸を続けているにも関わらず、同じ日本近海の魚を中国漁船がとれば、国内産だとして中国内での販売を許可するという習近平中国共産党のダブルスタンダードには呆れる限りです。

岸田政権がんばれ!2021年首相就任以来、G7サミットの議長国として、日米同盟を強化し、世界の中の日本の存在感を示し、積極的なアジア太平洋外交を展開して、韓国、フィリピンやベトナムなど、中国周辺国との外交関係を強化し、ロシアに侵略されたウクライナを訪問支援してきた、岸田政権が、日本のマスコミなどに、ひどいバッシングを受けているのを見ることには心が痛みます。岸田政権の弱体化を望んでいるロシアや、中国、北朝鮮などが、大喜びしていることでしょう。

もしかしたら、彼らが、得意のハッキング技術を使って、日本の世論操作や政界工作などをしているかもしれないと考えたりします。日本の政権の弱体化によって利益を受けるのは、これらの国であり、不益を被るのは、日本国民であることに、日本国民の皆様が早く気づいて欲しいものです。

最近早川友久という人の書いた『総統と私』という本を読みました。日本を思い台湾を愛した李登輝総裁の日本人秘書の書いた記録で、「日本が理想的な日本人を作ろうとして出来上がったのが私、李登輝という人間だ」としばしば公言して憚らなかった李登輝中華民国元総統、台湾の民主化に努め、テレビで毎日、「暴れん坊将軍」を見、日本から毎月送られてくる文藝春秋を愛読した李登輝総裁が97歳で亡くなったのが2020年。「1949年に建国された中華人民共和国は、いまだかつて中華民国が支配する台湾本島、澎湖諸島、金門島、馬祖島を統治したことがない。」 確かに中国は台湾を自国の領土だと言っているが、 はっきり言ってそれは荒唐無稽である。つまり、 中華人民共和国は19 4 9 年の建国以来一度たり とも台湾を統治したことがない。もともと別個の存在だった台湾を「我が国のもの」と言っても説得力に乏しい。「日本人は中国人を理解できやしないよ。いつも騙されてばっかりだ。でも私(李登輝) は戦後、何十年も中国人の社会の中で生きてきた。だから彼らがどうすれば引っ込むか、どうすれば踏み込んでくるか、よくわかる。日本人は本当の中国人というものを知らなくちゃいけない。」 日本人として生まれ育ち、日本の教育を受け、日本精神を武器に、台湾民主化に大きな貢献をされた李登輝台湾元総統は、アジアの、そして日本の誇りです。

この原稿が皆様のお目に入る頃には、2024年1月13日に予定されている台湾の総統選挙の結果が判明している頃だと思います。民進党の蔡英文(さいえいぶん)現中華民国第7代総統の二期の任期満了に伴うもので、台湾の民主主義、日本の大事な友人の将来を決める選挙の結果から私は目を離すことができません。中国共産党が香港を併呑したのち、民主主義が奪われ、本土と同じ共産主義独裁政治に飲み込まれたのを私たちは目の当たりにしてきました。もし台湾が中国に併呑されれば、香港と同じ事が必ず起こります。また習近平は最近沖縄はもともと中国のものだったと言い始めており、台湾が併呑されれば次は沖縄が次の中国共産党の標的になるのは間違いがありません。中国共産党は、「一つの中国」の根拠として昔台湾が清王朝の領土の一部だったことを挙げていますが、もしこれが正当化されるならば、台湾は昔オランダの植民地であったことがあり、また、日本は、1895 年から1945年まで、50年間もの長い間にわたって、植民地台湾の民政向上と近代化に貢献してきた歴史があり、オランダや日本も、台湾の領有権を主張することができることになります。これは、ローマ帝国が、その昔、ヨーロッパ全土を領土としたことがあったことを理由にして、イタリアが、今ヨーロッパ全土の領有権を主張することと同じです。習近平中国共産党の力による台湾併呑を許してはなりません。台湾の将来は台湾の人々が自ら決めるものです。台湾の民主主義が長く続き、日本と台湾の友好関係が末長く続くことを願っています。

もう1冊最近読んで感銘を受けた本は、門田隆将のノンフィクション『尖閣1945』です。「命を救ったのは真水を湛えた日本の領土だった。この史実が中国の嘘にトドメを刺す」との副題のついたこの本は、涙なしに読み終えることができませんでした。尖閣島では、1885年ごろから開拓者古賀辰四郎という日本人が、そこに古賀村を作り、真水を引き、船着場や、鰹節工場、アホウドリの羽毛をとる施設を作り、そこで生活していたとの記録があります。1920年には、嵐で遭難して尖閣諸島に漂着した中華民国福建省の漁民31人を救って、無事祖国に送り届けたことに対して、中華民国駐長崎領事から”日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島内和洋島”住民に対して感謝状が送られています。つまりこの本を読めば、尖閣諸島は紛れもなく日本の領土の一部であり紛れもなく日本の領土の一部であり、中国共産党の主張している領有権には全く根拠がないことがわかります。この本の主要なストーリーは、第2次世界大戦の末期、米軍侵攻の迫った石垣島から、台湾に向けて疎開する2隻の民間船が、米軍の攻撃を受けて1隻は炎上、大破し、かろうじて修理されたもう1隻に救助され、それに乗った200名ほどの日本人が、尖閣諸島の魚釣島に辿り着き、そこで命を繋いだのち、難破船から材料を集めて作った手漕ぎ船で8名の決死隊を170キロ離れた石垣島へ送り、その活躍のおかげで、石垣島に連絡がつき、遭難後50日目に無事救助されたという物語でした。もちろん、無人島での長期の滞在で栄養失調やその他の原因で多くの人々が亡くなったようですが、全員幽霊のように痩せこけながらも、石垣島に多くの人々が生還できたというこの物語は、80年後の現在でもひどく胸を打ちます。極限の状況下でも人間性を失わず、希望を持ち、勇気を持ち、協力して生き延びた日本人達に高い誇りを持ちます。

さて、皆様、最近感銘を受けられた本はありますか?
2024年が皆様にとって良い年であることを願っています。

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人にまつわる外国人 1899− 1981 ロシア人 ナウム・エイチンゴン

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

ナウム・エイチンゴンという名前を言われても、ほとんどの日本人は、ご存知ないかと思います。しかし、張作霖爆殺事件の黒幕と言われれば、ご存知の方もあるかと思います。ナウムエイチンゴンは、1899年、リトアニア系ユダヤ人の家庭にベラルーシに生まれました。父は、製紙工場の事務員、祖父は弁護士でした。ロシア革命の直前に一家はベラルーシのモギレフに引っ越し、ナウムはそこで商業学校に入学します。当時モギレフはドイツの占領下にあり、ナウムは、同地のセメント工場の労働組合に参加し、左翼社会主義革命党に入党、1920年にはソビエト共産党に入党します。ナウムは1920年、ソ連秘密警察に加わりました。ロシア内戦中、ナウムは、ベラルーシ内で裕福な資本家の生命や資産を非合法的に破壊抹殺する活動に関わりました。1924年には、ナウムはソビエト軍事学校を卒業し、その後ソビエト秘密警察の指示下に国外非合法破壊謀略活動をはじめました。ナウムは生まれつき、語学の才能があり、多数の言語を自由に喋ることができたと言われています。ナウムは1926年から在上海ソ連副領事を兼務しながら北京をカバーし、1927年からは満洲北部のハルビンも指揮下に置きました。すなわち、当時のナウムは、スターリンの直接の指示のもと、支那および満州を一手に支配下に置いていた上級諜報員でした。

当時満州のみならず、北京の実質的な指導者となっていた奉天軍閥の首領張作霖は、1927年、過激化する共産思想の浸透と闘い、北伐中の蒋介石の国民革命軍と戦うことを宣言し、北京のソ連大使館を強制捜索し、ロシア人、中国人80人以上を検挙、武器および北京における共産党の工作活動計画、共産党員名簿、イギリス、フランス、日本に対する反抗的策動委員会の調印文書、宣伝ビラなど多数を押収、蒋介石国民革命軍の背後にいるソ連の暗躍を暴き、ソ連とスターリンに大きな打撃を与えました。スターリンはこれに激怒し、張作霖がいる限り、蒋介石による国民革命軍の北伐は成功しないと考えました。国民革命軍の獅子身中の虫として勢力を伸ばす作戦をとっていた中国共産党とソ連にとって、張作霖は大きな障害でした。こうしてスターリンは張作霖を抹殺し、その犯人を日本人に見せかける謀略をナウムに命じました。これは、もし成功すればスターリンの顔に泥を塗った張作霖と、東方の敵国日本の両方に重大な打撃を与える一石二鳥の妙案と考えられました。

1928年6月4日未明、京奉線で特別列車で北京から奉天に向かう張作霖の御用列車が、奉天郊外の満鉄との立体交差点において何者かによって爆破され、支那及び満州に君臨した軍閥の首領張作霖はこれにより死亡しました。この事件は、世界中の新聞などで大きく報道されました。日本は、この事件の犯人だとの汚名を着せられ、河本大作は、死ぬまで自分がこの事件の首謀者だと主張し続けました。彼が、麻薬中毒の支那人3人を雇って、満鉄の陸橋に爆薬を仕掛け、御用列車が交差点の下を通りかかったちょうどその時に爆薬に点火して張作霖を殺したというわけです。しかしこの説明には多くの無理があります。御用列車の時刻表はもちろん極秘で、何台も囮列車が走らされ、京奉線は、張作霖の支配下で、多くの守備隊員がおり、警戒厳重で、どの列車のどの車両に張作霖が乗っているかも厳重に秘匿されたこの列車を、その走行中に、満鉄との立体交差点というピンポイントで張作霖が乗った特定の車両が通過するちょうどその瞬間に真上の満鉄陸橋を爆破し、確実に張作霖を殺すという離れ技を行ったという説明には無理があります。このような犯行を実行するためには、諜報破壊活動に熟練した高度の訓練を受けた組織があると考えるのが自然です。これに関しては、最近ロシアで多くの資料が開示されており、ナウムを指導者とするロシアの秘密諜報機関が張作霖の乗った列車の天井に爆薬を仕掛けたのではないかという説が説得力を持って語られるようになって来ています。河本は弱みを握られたか何らかの動機で、真の実行犯を隠すためのイチジクの葉として使われ、自分が満鉄の陸橋に仕掛けた爆弾が張作霖を殺したと信じさせられていた可能性があります。張作霖の爆殺事件は、日本の名誉を大きく傷つけました。

昭和天皇は総理大臣田中義一に、直ちにこの事件を徹底究明するべきだと命じ、最初は承諾した田中が、のちに前言を翻すと、田中に総理大臣を辞めてはどうかと迫りました。そのため、田中義一内閣は倒れ、田中は2ヶ月後の9月に急死しました。元老西園寺公望は、この件で昭和天皇を厳しく批判したといわれています。これ以降、昭和天皇は、政府や軍部の決定に質問はしても意見は言わぬ、”沈黙する天皇”になりました。この事件が日本のその後に及ぼした破壊的効果は計り知れません。スターリンの、してやったりという笑顔が目に見えるようです。張作霖爆殺の4日後の6月8日、蒋介石の北伐軍がスターリンの思惑通り北京に入城し、また張作霖の息子で国民党の秘密党員であった張学良が、満洲全土で国民党に忠誠を示す易織(えきしき)を行って、奉天城に青天白日旗を掲げ、これにより、少なくとも形式上は、満州を含めた支那全土が蒋介石の率いる国民党(そしてその国民党内で獅子身中の虫として勢力を伸ばした中国共産党)により統一されたことになりました。

ナウムはその後もロシア秘密警察組織の数々の国内外の諜報破壊工作活動に携わり、核スパイ特殊部署を指揮し、破壊工作課副課長、国家保安省国外破壊工作業務局長、国家保安少将などを歴任し、多くの国家的勲章を受けました。一方、不思議なことに、河本は、事件後、停職にはなったものの、軍法会議にかけられることなく、1929年、予備役編入となるにとどまりました。その後は1932年南満州鉄道理事、1934年満州炭鉱の理事などを経て、1942年、華北にあった山西産業株式会社社長に就任、第2次大戦後も国民党に協力して、名称の変わった同社の最高顧問として華北に残りましたが、1949年の中共軍の華北制圧に伴い、その捕虜となり、中共の管理する太原戦犯管理所に戦犯として収容されました。不思議なことに、張作霖事件の主犯と名指しされていたはずの河本は一度も極東裁判に呼び出されることなく、1955年、収容所内で獄死しました。享年72歳。これは、河本の出廷により、本件について辻褄の合わない証言をしたりすることにより、真犯人ではないことが明らかになり、張作霖事件の真実が明るみに出ることを恐れたロシアや中国共産党が、河本の出廷を阻止した可能性が強いと考えられています。今日では、張作霖爆破事件は、ロシアの特務機関GRUのナウム・エイチンゴンが主犯であることがロシア側の資料で明らかになっています。河本がなぜ、自分が主犯であると言い続けたか、ハニートラップに囚われていたか、秘密の共産党員であったか、今のところ不明です。ロシアからの秘密資料が今後開示されるのを待ちたいと思っています。

参考文献:PHP新書加藤康夫著”謎解き張作霖爆殺事件”

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち〜樋口季一郎

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線
JNC_2023-11webs 6

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち〜小村寿太郎

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線
JNC_2023-10webs 7

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線 第170回 福島第一原子力発電所処理水の放出について

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

第170回 福島第一原子力発電所処理水の放出について

私たち循環器の医師にとっては、放射線とその安全性の問題は、毎日の関心事ですが、最近の福島原子力発電所の処理水に対する中華人民共和国(PROC) などの近隣諸国の言動は、全く常軌を逸しており、その動機として日本を貶めるための政治的悪意を持った扇動として以外に考えることができません。

循環器の医者は、日常的に放射性物質やその結果としての放射線を扱っています。例えば、胸部X線一つをとっても、放射線なしに映像を得ることはできません。CT検査や、放射線各医学検査を使った、心臓負荷シンチグラムなども、冠状動脈の狭窄や閉塞を、非侵襲的に検査するために日常的に使われています。また、循環器科の病気を侵襲的に診断したり治療したりするためのカテーテル検査は、放射線カメラなしには行うことができません。

循環器科以外の領域でも、例えば、甲状腺機能亢進症で、過剰な甲状腺ホルモンの生産を抑制するために放射性ヨード剤を使ったり、前立腺癌の治療のために、放射線治療を行ったりすることがあります。また、肺がんや脳腫瘍の治療のためにガンマナイフを使ったりします。急性胆嚢炎や、胆石などの診断には、放射性薬剤が使われることがあります。がん細胞を殺すために使われる放射線は、大変高い線量を使いますが、局所に限定して使われるため、全身への影響は、比較的少ないと言われています。しかし、こうした医療に使われる診断や治療のための放射線被曝は、一生の間に積算すればかなりの量になることがあり得ますので、私たち医療者は、患者さんの被曝量が最低限になるよう常に気を使っています。また、医療者自身も、毎日カテ室に入っていれば、その被曝量はかなりのものになりますので、積算被曝量が、年間5000ミリレムの上限を超えないようにしています。

さてこう言うと、医療従事者以外の人では、あまり放射線被曝は無関係と思われるかもしれません。しかし、実際には、地球上に住んでいる生き物全てが、年間平均で300 ミリレム程度の放射線被曝を受けています。300ミリレムと言うのは、海抜0メートルの高さで測った場合で、コロラド州のデンバーなどの高地に住んでいる人では年間平均400ミリレム程度の被曝となります。この放射線源としては、私たち自身の体内にある線源、宇宙から降って来る宇宙線、そして、自然に地中にあるラドンなどの放射性物質からの放射線を合わせたものと考えられています。宇宙線は、空気の分子に当たって減衰しますから、コロラド州などの高地に住んでいる人は、この恩恵が減るため、被曝量が増えるわけです。同じ理由で、高い高度で飛ぶ飛行機内では、宇宙線の被曝が増加するため、例えば、アメリカの東西海岸を横断する航空機に乗った客は一回の航空機旅行につき、12ミリレムの追加被曝を受けます。毎日飛行機に乗っている乗務員の人たちは、地上勤務の人たちに比べて、飛行機で飛ぶたびに追加の被曝を受けていることになります。また、宇宙飛行士は、大気圏外に出るため、宇宙線をまともに浴びます。それで、宇宙飛行士の被曝上限は、一般人に比べて非常に高く設定されており、一回のミッションにつき、25,000ミリレムとされています。

また、テレビからもごくわずかの放射線が発生しており、毎日四時間テレビを見続けていると、年間2ミリレム程度の被曝を受けると言われています。さらに、映画館などで見かける、「EXIT」「非常口」のサインには、放射性元素のトリチウムが使われており、トリチウムから出る放射線が、燐を光らせることにより、停電しても、非常口のサインが消えることはありません。トリチウムの半減期は約12年です。また、火災検知器にも、少量の放射性物質が使われており、煙が放射線検知器へ届く放射線量を減らしたことを感知して、非常ベルが鳴る仕組みとなっています。こうした「非常口」のサインなどに使われているトリチウムは、一般ゴミで捨てられると、放射性物質を撒き散らすことになりますので、法律で、厳しくその処理法が決められているようです。

さて、福島第一原発の処理水の中にあるトリチウムですが、PROCも加盟している国際原子力エネルギー委員会(IAEA)の委員長のラファエルグロッシー氏が本年 7月来日して、福島原発の処理水の中にあるトリチウムは同委員会の設定する安全基準に照らして全く問題がないと言明しました。PROCは1984年から、同委員会に加盟しており、IAEAの本年5月22日号機関誌によれば、PROCは国家としてこれまでに同委員会の93のプロジェクトに参加し、49のリサーチ計画に参加しています。 首都北京には、同委員会の高レベル放射性ゴミ処理に関するウラニウム地理学研究所など、7か所のIAEA 施設があります。このように、IAEA に深くコミットしている国が、その委員長の公式発言を全く無視しているのはどう言うわけでしょうか。科学的に根拠がない風説を、政治的な理由によってのみ撒き散らしていると考えざるを得ません。

PROCがこのような言動をしていることに対して、私が強い反発を覚えるのは、もう二つ理由があります。 一つは、PROCの原子力発電所からは、福島第一を超える大量のトリチウムが毎年垂れ流されていると報告されていることです。(産経新聞電子版8月8日号)同紙によれば、PROC浙江省の泰山原発は、一か所だけで2021年に218兆ベクレルのトリチウムを処理水として放出しており、これは、福島第一原発処理水の年間放出計画の約10倍にあたる大量のトリチウムに当たります。もしこれが事実であれば、自国で垂れ流している大量の放射性元素には目をつぶって、他国にいちゃもんをつけていると言うことになります。PROCは、秘密主義、独裁国家として有名で、PROCから公表される経済指標などのデータは全く信用できないことで有名ですが、おそらく過少に報告していると思われる、たった一つの原子力発電所の年間放出トリチウム量でさえ、福島第一の年間放出処理水を越えていると言うことは、もし正直に報告されれば、中国全体では、桁違いのトリチウムが放出されている可能性があります。

もう一つは、PROCは、新疆きょうウイグル地区で1964年から1996年までに、少なくとも45回の核爆発実験を行っており、そのうち22回は、地上核実験で、放射性物質の大量の死の灰を撒き散らすキノコ雲を伴うものでした。死の灰の中には、セシウム137(半減期30年)、ストロンチウム90(同28年)、ヨード131(同8日)、プルトニウム239 (同24,000年)、トリチウム(同12 年)、炭素14(同5,730年)など、各種の有害な放射性物質が含まれ、局地的に新疆ウイグル地区に、また偏西風に乗って日本を含む全世界に撒き散らされました。セシウムは、化学的にカリウムと行動が似ており、カリウムを含む食品などを摂取することにより体内に入ります。ストロンチウムとプルトニウムはカルシウムと似ており、骨に蓄積されます。ヨードは甲状腺に蓄積されます。ヨード131の半減期は短いですが、甲状腺に集積される能力が高く、甲状腺がんを引き起こします。これは、意図的に、生命に害のある核物質が大量に生成することを知りながら行われた、確信犯の犯罪行為で、新疆ウイグル自治区のロプノール(羅布泊、Lop Nur)でその全ての核実験が行われ、そこに住む住民であるウイグル民族は、実験のたびごとに大量の死の灰を浴びせられました。PROCでは、この件について、研究を行うことや、データを集めること、発言することは一切禁止されています。これに対して、イギリスなどの研究者が観光客を装って調査した結果がサイエンチフィックアメリカンの2009年7月1日号の記事、「Chinaの核実験は何千人も殺し、将来の子孫へも悪影響を与えたか? Did China’s nuclear tests kill thousands and doom future generations?」に書かれています。これによれば、「新疆ウイグル地区ロプノールで30数年間にわたって行われた核実験は同地に30数年間にわたって死の灰を降らせ、人々を殺し、がんや先天異常を起こした」と証言しており、これにより、少なくとも推定19万4千人が死亡し、120万人の人が、白血病、肺がん、および胎児被曝を起こすに足る放射線を浴びたと推定しています。実際、そこで秘密にカルテを閲覧して調べ、他のPROCの地区に比べて、核実験隣接地区では、30から35%ガンの発生率が高かったと報告しました。新疆ウイグル自治区の人口は約2000万人で、その大多数がウイグル民族です。悪性リンパ腫、肺がん、白血病、胎児奇形、退行性病変などが他の地域に比べて異常に高頻度で発生したとされています。上記の放射性物質の長い半減期を考えると、土壌に残った放射性物質が、野菜や家畜に集積され、それが人々に食べられ、放射能への被曝がこれから先も長く続いていくことが予想されます。PROCの、ウイグル民族への差別と虐待、民族抹殺政策は、現在進行形で行われています。そして大気中の核実験により、日本をはじめ全世界に有害な放射性核物質を撒き散らしたことに対しては、何の説明も謝罪も行われていないのです。このような国に日本を批判する資格があるでしょうか?

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち〜杉原千畝

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち〜杉原千畝
命の大切さ「ビザ」で証明した真の外交官

JNC_2023-08-webs 7

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち〜高田屋嘉兵衛

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

幕末から昭和の日本人たち
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)(1769−1827)
択捉(えとろふ)島開拓の父。箱館(はこだて、今日の函館)建設復興の父。

 高田屋嘉兵衛は、1769年、兵庫淡路国の百姓の長男として生まれました。嘉兵衛は、1790年、22歳の時、郷土を離れ、叔父を頼って兵庫津に出てきました。淡路で船に乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を表し、船の進路を指揮する表仕(航海長)、沖船頭(雇われ船頭)と昇格しました。嘉兵衛は2年ほど熊野灘でカツオ漁に従事し金を貯めたのち、兵庫に戻り再び沖船頭として働くようになりました。その翌1795年には、当時としては最大級となる230トンの辰悦丸を手に入れ、翌1796年、嘉兵衛は弟と力を合わせ、蝦夷地(えぞち、今日の北海道)まで商売の手を広げました。当時は蝦夷地は松前藩の領地で、そこには近江商人などが既得利権を確保しており、嘉兵衛は松前、江差(えさし)、箱館(はこだて、今日の函館)の三港の内、ほとんど開発が進んでおらず、競争相手も手薄であった箱館を拠点とすることとし、弟の金兵衛を箱館の支配人としました。兵庫津で酒、塩、木綿(もめん)などを仕入れて酒田(さかた、現在の新潟県)に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという三角貿易を行なうことで、利益を得ることができました。1799年、嘉兵衛が厚岸(あっけし)に滞在中、択捉(えとろふ)島開発の任に着いていた徳川幕府の役人、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)に依頼され、国後(くなしり)島と択捉島の間の航路を開拓しました。1800年、嘉兵衛は兵庫や大阪で大工を雇い入れるとともに、米、塩、鍋や釜などの物資を調達し、辰悦丸と4隻の船で択捉島に渡り、17ヶ所の漁場を開き、アイヌに近代的な漁の仕方を教えました。1801年、択捉島開拓の功により、嘉兵衛は幕府から蝦夷地定雇船頭の肩書を授けられ、名字帯刀を許されました。1806年には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷地経営で高田屋の財は上昇しました。

1806年、箱館に大火が発生し、箱館市街の半分が消失した際、高田屋は被災者の救援活動と復旧事業を率先して行ないました。嘉兵衛は私財を投じて箱館の基盤整備事業を行い、1807年には箱館港内を埋め立て造船所を建設、兵庫から腕利きの船大工を呼び寄せ多くの船を建造しました。嘉兵衛は、もともとは寂れた小さな漁村でしかなかった箱館を近代的な港町として建設し、さらに箱館大火ののちには、その廃墟から箱館を蘇らせた復興の父と考えられています。

こうして、嘉兵衛は、順調に蝦夷地での商売を広げ、箱館の復興にも力を入れましたが、こんな折、蝦夷地に大事件が発生しました。1806年、戦艦に乗ったロシア帝国のフォボストフ大尉の率いる兵隊達が、樺太(からふと)島南端の亜庭(あにわ)湾の日本人集落に武装上陸し、そこに、大きな建屋と4人の日本人及び70人のアイヌ労働者を見つけると、食事をふるまうなどして歓待してくれた非武装の日本人を卑劣にも騙して縛り上げ、集落を略奪、船に積めるだけ多くのきび、塩、魚網、鍋釜、その他を積み込んだあと、日本の店舗、建物、神社10棟及び船9隻に放火し、4人の日本人を捕虜とし、サントペテルブルグに連れ帰るという乱暴狼藉を働きました。その次の年1807年、フォボストフ大尉の率いるロシア軍は再び同じ軍艦でやってきて、今度は、日本領択捉(えとろふ)島老門(おいと)に上陸し、略奪のかぎりを尽くしました。その略奪を行ったロシア人たちの報告にはこう書かれています。<日本人は、千島列島の中でもこの村(択捉島老戸村)を中心にして漁業を行なっていた。この村は日本の最北であり、警備隊もあることからして、以前からロシア人を警戒していたようだ。択捉(えとろふ)島別飛(べっとぶ)村には300人の日本人がいた。そこには大きな木工所、鍛冶屋、金物組み立て場が何軒もあり、多くの職人がいた。村では北海道へ納入する船も作られていた。最も大きな納屋は酒を作るための設備が置かれていた。村にはかなり人が住み着いており、砂や石が敷かれた道路もできていた。庭園も二箇所に作られ、川には美しい橋が架けられて見事な景観を見せていた。>

日本側はこれに対して、箱館(はこだて)奉行の指揮のもと、弘前(ひろさき)藩、南部(なんぶ)藩、津軽(つがる)藩の連合軍で対応しますが、ロシア軍側の圧倒的火力の前に紗那(しゃな)を放棄し、敗退します。幕府の下役人として紗那会所で働いていた間宮林蔵(まみやりんぞう)はロシア軍の攻撃に直面し、徹底抗戦を主張しますが、聞きいられず、紗那会所(しゃなかいしょ)は全滅しました。敗戦の責任を痛感した箱館奉行戸田又五郎(とだまたごろう)は責任を取って自害しました。これはロシア軍と徳川幕府正規軍の歴史上最初の武力衝突でしたが、ロシア軍の完全勝利に終わりました。 その後、ロシア人たちは、再び南樺太の亜庭湾の日本人村に上陸し、略奪放火を済ませた後、今度は北海道に渡り、同様の掠奪放火を行っています。1806年及び1807年の文化露寇(ぶんかろこう)、ロシアによる日本国への武力侵攻でした。相手が弱いと見ると、カサにかかって武力で近隣諸国へ侵略するというロシアの行動は、ウクライナへの侵略行動でも同様に見受けられ、今も昔も変わっていないようです。徳川幕府は、このロシア軍に対する幕府正規軍の全面敗北に驚愕し、鎖国政策を改め、西欧諸国の軍備を導入することでロシアの侵略に対抗するという政策に大きく舵を切ることになります。

4年後の、1811年、ロシア軍人ゴローニンは軍艦デイアナ号で千島列島を測量調査を行い国後島の泊に入港した際、文化露寇以来ロシアに対する警戒を強めていた松前藩に捕らえられ、松前藩の囚人になりました。副艦長のリコルドはゴローニンの救出材料とするため、日本人の漂流民中川五郎治などを連れて国後島に着きましたが、日本側の回答は、ゴローニンは死んだというものでした。リコルドはこれを信じず、さらに交渉材料となる獲物を待ち構えていましたが、そこに高田屋嘉兵衛の船が通りかかり、リコルドはこれを拿捕し、高田屋嘉兵衛を人質にしてカムチャッカへ連れ去りました。嘉兵衛は人質となっている間にロシア語を学び、ゴローニン釈放のための日露交渉を仲介しました。これは容易ではありませんでしたが、高田屋嘉兵衛の粘り強い交渉で、1813年、高田屋嘉兵衛とゴローニンの人質交換が成立し、嘉兵衛は日本へ戻りました。ゴローニンはロシアに帰ってから、自分の日本での経験を描いた”日本幽囚記”という本を出版し、これはロシアやヨーロッパで広く読まれました。嘉兵衛は、ゴローニン事件を解決したことで1814年、幕府から5両の報奨金を下賜されました。

嘉兵衛は、1814年、養生のため淡路島へ戻りました。その後は、淡路島の地元の灌漑用水工事をおこなったり港の整備のために寄付を行うなど、郷土のために財を投じました。1824年隠居。1826年、徳島藩主は嘉兵衛の功績を賞し、300石取りの藩士並み待遇としました。1827年、藩主への拝謁を許されました。同年死亡。享年59歳。

兵庫県淡路島洲本市には、1995年、高田屋嘉兵衛を顕彰するウエルネスパーク五色、高田屋嘉兵衛公園が建設されました。北海道函館市函館山の麓、根室市金刀比羅神社内、新日高町などには高田屋嘉兵衛像が建てられています。

淡路島に生まれ、蝦夷地開発と貿易で財をなし、箱館港とその市街を建設しその大火からの復興に尽力し、ロシアの捕虜となりながらも、ロシア語を学び、ゴローニン事件の解決に尽力し、日本に無事生還するや、故郷の淡路島のために私財を投じることを惜しまなかった高田屋嘉兵衛。古き良き日本人の典型のような人物でした。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B%E8%82%96%E5%83%8F.jpg

P. I. Ricord, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末から昭和時代の日本人たち〜明治天皇

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

幕末から昭和の日本人たち:明治天皇

近代日本の礎を築いた名君、大元首、第122代明治天皇は、1852年、父第121代孝明天皇の第二皇子として生母中山慶子(なかやまよしこ)から生まれました。中山慶子は父権大納言中山忠能(ただやす)と母松浦愛子の次女。母方の祖父松浦清(まつうらきよし)は平戸藩主(現長崎県平戸市)。慶子は1851年、典侍御雇として宮中に出仕し、祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を懐妊し、1852年、出産しました。中山家はわずか200石で、産屋建設の費用が賄えず、その大半を借金をしたと言われています。祐宮はそのまま中山家で育てられ、その後、孝明天皇(こうめいてんのう)に他に男児が生まれなかったため、1860年、勅令により、祐宮は孝明天皇の女御の九条夙子(くじょうあさこ)の実子とされ、親王宣下を受け、名を睦仁(むつひと)とされました。

祐宮(さちのみや)は、1867年、父孝明天皇の突然の崩御に伴い満14歳で践祚(せんそ)し、第122代明治天皇として即位されました。1867年11月9日、征夷大将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を行うと、翌日これに勅許を与え、さらに翌月王政復古の大号令を発して摂政関白の位を廃止、新たに太政官を設置し天皇親政を行うことを宣言されました。これに続く鳥羽・伏見の戦い及び戊辰戦争を通じて、約680年続いた武家政権は終わりを告げ、近代国家日本が誕生しました。1868年3月、明治天皇は、”1。広く会議を起こし、万機公論に決すべし。2。上下心を一つにしして、盛んに経綸を行うべし。3。官武一途、庶民に至るまで、各々その志をとげ、人心をして倦(う)まさらしめんことを要す。4。旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基づくべし。5。知識を世界に求め大いに皇基(こうき)を振起すべし。我が国未曾有(みぞう)の変革を為さんとし、朕(ちん)、躬を持って衆に先んじ天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民保全の道を立たんとす。衆またこの旨趣に基づき協心努力せよ。”との5箇条の御誓文を発表、明治政府の基本方針を示されました。これと同時に、明治天皇ご自身の言葉で書かれた、億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)を発表されました。明治天皇は、1868年11月、江戸城に行幸され、江戸を東京と改名し、そこを首都とされました。

1869年、一条美子(はるこ)と結婚。同年、大村益次郎の献言に従い、戊辰戦争の死者の鎮魂のために、東京九段に東京招魂社(のちの靖国神社)を建立されました。

こうして近代国家の元首となった明治天皇は、1871年散髪脱刀令が出された折には、自ら率先して散髪して、国民の模範となるよう行動されています。髷は武士の魂であり、髷を切り落とすことは、罪人となったことを意味していたため、当初は強い抵抗がありましたが、天皇陛下自ら範を垂れられたことにより、髷を落とすことが一気に加速しました。”散切り頭を叩いてみれば文明開花の音がする”という有名な狂歌が作られたのはこの頃でした。

1878年、明治三傑と呼ばれた、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)が西南戦争、暗殺、及び不治の病で次々に倒れました。木戸孝允(桂小五郎)が、京都で不治の病に倒れた時には、明治天皇は、わざわざ自宅まで見舞いに行かれるなど、細かい気遣いをされています。

1878年陸軍近衛兵部隊が武装反乱(竹橋事件)を起こし、259名が参加、8名死亡しました。394名の軍人たちが逮捕され、55名が処刑されました。この事件は、皇居を守るべき近衛兵の反乱事件として、大きな衝撃を持って受け取られました。これを契機にして、1882年、山縣有朋は、陸海軍を天皇の軍隊と規定するとともに、”忠節、礼儀、武勇、信義、質素”という5つの基本徳目を記し、軍人の政治的不関与を命じた軍人勅諭を発しました。

1879年、アメリカの元大統領ユリシスグラントが日本を訪問し、明治天皇と面会しています。

1880年、大蔵卿の大大隈重信は、不換紙幣の整理のために、5000万円の外債発行を提案しますが、この提案は、日本の国土を担保にしていたため、もし返却できなければ、抵当として外国に国土を取られる危険をはらんでいたため、伊藤博文や岩倉具視はこれに猛反対します。明治天皇は、伊藤及び岩倉に賛成し、外債発行を許可しないとの勅諭を下されました。この頃から、明治天皇は初代内閣総理大臣伊藤博文を深く信頼し、臣下である伊藤博文との2人3脚で外交や政治に関与されるようになります。自由民権運動の高まりにより、憲法制定の声が高まると、明治天皇は、1885年から1887年にかけて侍従の藤浪言忠(ふじなみことただ)をオーストリアのウイーンに派遣し、憲法学者のシュタインに連日講義を受けさせた後、帰国してきた藤浪に毎日憲法についての講義をさせ、立憲君主制の中での天皇の職務を理解しました。こうして1889年、伊藤博文が中心になって作成した大日本帝国憲法が発布されるころには、明治天皇は立憲君主制をよく理解され、その推進者となられました。1890年、明治天皇ご臨席の下、山縣有朋内閣は、第一回帝国議会を無事成功させました。

1891年、国賓として日本訪問中のロシア皇太子ニコライ2世が滋賀県大津市で警備中の警官津田三蔵に襲われる事件が起きると、大国ロシアが、これを口実に、日本を攻めてくるかもしれないとの国難の危機となりました。明治天皇は直ちに名代を送り、ロシア皇太子の見舞いをさせる一方、翌日自ら新橋駅から鉄道で京都へ行幸し、ニコライ2世を宿泊場所京都常盤ホテルに見舞われました。その後ニコライ2世が今後の日本旅行をキャンセルし、直ちにウラジオストックへ向かうとの報に接すると、明治天皇主催の別れの晩餐会を提案されましたが、逆に、神戸港に停泊中のロシア艦艇への単身での晩餐会への招待という逆提案を受けました。天皇が拉致されてしまう可能性を心配する伊藤博文などの反対を押し切って明治天皇はこの招待を受けられ、単身ロシア戦艦に乗り込み、立派にその任を果たし、無事下船されました。これは、国難の危機に臨んでの明治天皇の胆力と責任感の強さを世界に示した事件でした。

また、1892年第2次伊藤内閣の下で、政府と議会の対立で予算成立が難航した際、明治天皇は、和協の詔勅(わきょうのしょうちょく)を出し、明治天皇自ら今後10年間皇室費の10%を削ってこれを国家予算に差し出し、これにより予算不足の埋め合わせとするという提案をして、和睦による予算成立を成功させました。これは明治天皇がいかに日々の政局に関心を持ち、生まれたばかりの立憲君主制を維持するために心を砕き、関与していたのかを示す良い例でした。

1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発し、これを平定するために、閔妃が清に出兵を要請し、天津条約に基づいて日本も出兵すると、日清戦争が起きました。明治天皇は当時の日本の線路の西の果て広島に大本営を置き(1894年6月5日から1896年4月1日まで)、日本の首都を広島に遷都されました。明治天皇は、兵たちと苦楽をともにするため、暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続け、陣頭で指揮をとられました。日本と朝鮮は、大日本大朝鮮盟約を締結し、朝鮮の兵隊たちと共に清と戦い、連戦連勝して日清戦争に勝利しました。牛荘を制圧した後、大本営を広島から遼寧へ移し、天皇陛下自ら前線で指揮をする案が検討されましたが、これは廃案になりました。1895年の牛禁峙の戦いでは、日本朝鮮連合軍は、全琫準の率いる東学党軍に対して決定的な勝利を収め、甲午農民戦争は収束に向かいました。朝鮮では、1897年、清からの独立を祝って、ソウルに独立門が建設されました。

しかし、三国干渉で、日本が遼東半島の返還を余儀なくされると、日本弱し、ロシア強しの妄想に駆られた朝鮮王高宗は、1896年、ソウルのロシア大使館に逃げ込んで、ロシア大使館の中から政治を行うという、前代未聞の行動に出ます(露館播遷:1896−1897)。また1896年、朝鮮の近代化を進めようとしていた総理大臣の金弘集を宮殿内で執務中に逮捕させ、群衆に撲殺させるという非道な行為を行います。1903年には、高宗は、鴨緑江左岸の港、龍巖浦租借条約を結び、ロシアに軍港建設の事実上の許可を与え、ロシアの朝鮮支配を進めようとしたため、これに危機感を抱いた日本とロシアの全面戦争が始まりました。日露戦争は、陸海で日本の一方的大勝利に終わりました。これは、おそらく日本を含めて、誰も予測しなかった大勝利でした。

明治天皇は日露戦争で手柄を挙げた乃木将軍を信頼し、山縣有朋による乃木の陸軍参謀総長への推挙を却下し、自分の孫(のちの昭和天皇)を教育させるために、1907年、乃木を、現役武官のまま、勅令で学習院院長に任命されました。

しかし、1909年、明治天皇の最も信頼した臣下であった伊藤博文が、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根により暗殺されるという悲しい大事件が起きました。同年、明治天皇の指示により、伊藤博文の国葬が行われました。伊藤博文は1841年生まれ。明治天皇より11歳年上でした。

明治天皇は、1912年、糖尿病による尿毒症でお亡くなりになられました。享年59歳。乃木大将は明治天皇の後を追って殉死しました。

680年続いた武家政権を終わらせ、近代日本を作り上げるという大事業を先頭に立って行い、また国の危機に臨んでは、自ら進んで道を開かれた偉大な名君、大元首の明治天皇。その御稜威は日本の国の歴史の上に永遠に輝いています。

写真:京都市伏見区にある明治天皇陵

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜江戸から昭和時代の日本人たち〜明石元二郎(あかしもとじろう)

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

明石元二郎(あかしもとじろう)

日露戦争の勝利の陰の大功労者、死して台湾の護国の鬼となる。

明石元二郎は、福岡藩士の息子として1864年生まれました。陸軍幼年学校を経て、1883年、陸軍士官学校を卒業、1889年、陸軍大学校を卒業しました。ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て1901年にフランス公使館付陸軍武官となりました。1902年にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任しました。1902年、ロシアペテルスブルグのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイ、シドニーライリーと知り合い、友人となりました。明石の依頼により、1903年より、ライリーは建築用木材貿易商に偽装して戦略的要衝であった遼東(りょうとう)半島の旅順(りょじゅん)に移住し、木材会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や旅順要塞の図面などをイギリス及び日本にもたらしました。1904年、日露戦争が開戦すると、駐ロシア日本公使館は中立国スエーデンに移り、明石はここを本拠に、ロシア国内での後方破壊活動やスパイ活動をおこないました。また、ポーランド、フィンランド、スエーデンなどの反ロシア地下抵抗組織などへの資金提供や情報提供などもおこないました。ロシア共産党ボルシェビキの首魁レーニンとの会談や、戦艦ポチョムキンの反乱の背後に明石がいたという説もあります。ドイツ皇帝ウイルヘルムが”明石元二郎一人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果をあげた。”と称したと言われています。こうした明石の活躍もあり、また陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)将軍に率いられた大日本帝国陸軍は203高地を占領し旅順港を攻略した後、クロパトキン将軍の率いるロシア陸軍を奉天(ほうてん、現在の瀋陽シェンヤン)北方まで駆逐し、また、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)将軍に率いられた大日本帝国海軍は、旅順軍港を基地にしていたロシア海軍を無力化した後、世界最強といわれたバルチック艦隊を日本海海戦において、東郷ターンと呼ばれる奇抜な戦法を用いて、完全に殲滅することができました。こうして日露戦争は、世界中の誰もが予想しなかった、日本軍の大勝利という結果に終わり、軍事大国ロシアに勝利した日本は、世界中の被抑圧民族に大きな希望を与えました。

しかし、日露戦争後は、こうした明石の活躍は日本国内や陸軍内部で評価されず、情報将校としての明石の経験は陸軍内で受け継がれず、情報戦を軽視したその後の日本帝国軍の悲惨な末路につながりました。1918年、明石は、情報とは全く無関係の台湾総督に任命されました。そこで明石は、心機一転、台湾経営に情熱を捧げました。台湾電力を設立し台湾における水力発電を推進し、また、急勾配が多く輸送上のネックとなっていた山中線と並行して新たに竹南駅から彰化駅を直線で結ぶ海岸線鉄道を敷設し、台湾の南北鉄道輸送を大幅に改善しました。また、明石は、台湾人にも均等に大学進学の機会を与えるよう法改正をし、華南銀行を設立するなど、台湾人のための善政を行ないました。また八田與一(はったよいち)が台湾南部の15万ヘクタールの嘉南(かなん)平野の水害を防ぎ、灌漑を行なって農業を盛んにするための烏山頭(うさんとう)ダムの建設及び嘉南大圳(かなんたいしゅう)水路網を計画したとき、これを承認し、当時の台湾の年間予算の3分の1を支出することを決めたのも明石でした。1919年、明石は台湾から本土への公務の途上で病死しました。享年56歳。”余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。未だ実行の方針を確立せずして中途に倒れるは千載の恨み事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず。”との遺言により、遺体はわざわざ福岡から台湾へ移され、台北市林森公園に埋葬されました。

日露戦争の陰の英雄であり、台湾の護国の鬼となった明石元二郎は、世界史の2度の全く異なった舞台で、大変重要な役割を果たした稀有の人物でした。

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜江戸から昭和時代の日本人たち〜岸信介

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

パッテンライ!!  台湾の水利事業に身を捧げた日本人。八田與一(はったよいち)

台湾南西部に位置した最大の平原、旱魃(かんばつ)に悩んでいた15万ヘクタールの嘉南(かなん)平野を緑の沃野(よくや)に変え、今も台湾の人々から高く尊敬されている日本人がいます。八田與一がその人です。八田はその功績により、台湾では広く名前が知られていますが、残念な事に日本ではその名前があまり知られていません。今日は、その八田與一の話をします。

八田の業績は、現在、台湾の中学生向け教科書<認識台湾 歴史編>に詳しく紹介されており、ほとんどすべての台湾の中学生が八田のことをよく知っていると言われてます。2004年、故李登輝台湾総統が来日した時、八田の故郷金沢市をわざわざ訪問しています。また八田の作った烏山頭(うさんとう)ダムでは、毎年、八田の命日である5月8日に慰霊祭が行われています。2008年には、八田の住んでいた宿舎跡が復元されて、5万平方メートルの八田與一記念公園が建設されました。2011年には、台南市の主要道路のひとつが八田路と名付けられました。

八田の没後80年にあたる昨年2022年の5月8日の慰霊祭では、頼清徳台湾副総統が八田の偉業をたたえた上で、”台日の友人関係を一層強化させ、国際社会の諸問題に対応していきたい。”と述べたと言われています。

八田の業績と嘉南の人たちとの触れ合いを取材したテレビドキュメンタリー番組<テレメンタリー96たった一つの銅像ーー衷心感謝八田與一先生ーー>が1996年、日本のテレビ朝日系列で放送され、また2008年には、八田を描いた長編アニメ映画、<パッテンライ!!南の島の水物語>が日本で制作されました。<パッテン>は、八田の中国読みで、ライは中国語で<やってきた!>の意味で、八田與一がやって来た!との嘉南平野の人々の興奮と感謝を表している言葉のようです。

八田與一は1886年、石川県花園町(現在の金沢市)に生まれ、1910年東京帝国大学工学部土木科を卒業、台湾総督府内務局土木科の技師として就職しました。そこで、台湾水道事業の父と呼ばれている浜野弥四郎(はまのやしろう)に出会い、その部下として仕事をする中で、多くのことを学びます。浜野は八田と同じ東京帝国大学工学部出身の先輩でした。八田は浜野の下で、嘉義(かぎ)市、台南市、高雄市などの上下水道整備に携わりました。1914年、28歳の八田は、当時着工中であった桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事を一任され、それを成功させて高い評価を受けました。1919年、浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立しました。

烏山頭ダム隣接の八田與一記念公園に建てられた八田與一の銅像
台湾本島地図。嘉南平野は台湾最大の平野

1918年、八田は嘉南平野の水利事業に取り組むこととなります。嘉南平野は台湾の南西部にある、台湾海峡に面した台湾最大面積を誇る平野ですが、台湾で最も降雨量の少ない地域で、特に冬には雨が降らないため、旱魃に悩まされる不毛不作の土地でした。八田は1920年、当時世界最大のダム、烏山頭(うさんとう)ダムを設計し、その建設許可を申請しました。当時の台湾総督は日露戦争の英雄明石元二郎(あかしもとじろう)で、当時の台湾の年間予算の3分の1を支出することになるこの大計画を承認しその予算獲得のため奔走しました。八田は、国家公務員の職を進んで捨て、新たに結成された官佃渓埤圳組合(のちの嘉南大圳(かなんたいしゅう)組合)の専属技師として1920年から10年間、ダムと水路の建設を陣頭指揮し、烏山頭ダムから嘉南平野の隅々まで水を送る水路を張り巡らせ、台湾で最大規模の農業灌漑施設である嘉南大圳(かなんたいしゅう)を1930年、完成させました。烏山頭ダムは満水面積1000ha、有効貯水量一億5000万立方メートルの当時世界最大のダムで、そこから嘉南平野に張り巡らされた水路の総距離16000㎞の壮大な農業灌漑施設でした。これは、それまで旱魃に悩まされていた台湾最大の平野、嘉南平野を肥沃な農作地帯に変えました。八田のとったセミハイドロフィリック工法はコンクリートをほとんど使用しない工法で、同時期に建設された他のダムと比べてもはるかに長持ちし、烏山頭ダムは現在もしっかり稼働しています。

ダムによって出来上がった烏山頭貯水池は、緑色の珊瑚のように見え、その美しさから珊瑚湖と呼ばれています。北東に聳える富士山より高い3,952メートルの台湾最高峰玉山とともに、台湾の最も美しい景勝地の一つです。

この嘉南大圳により、嘉南平野は台湾一の穀倉地帯となり、米の三毛作、砂糖きび、ピーナツ、とうもろこし、サツマイモなどが生産されるようになりました。これを受けて、嘉南平野は、嘉義市、台南市、高雄市など台湾南部の主要大都市を育み、この地域が、台湾の産業の中心を占めるようになりました。

1942年、灌漑調査のため広島宇品港からフィリピンに向かう船が五島列島付近でアメリカ軍の攻撃を受けて沈没、この船に乗っていた八田も死亡しました。享年56歳。

八田與一とその偉業は台湾の人々の心に深く刻まれています。

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜江戸から昭和時代の日本人たち〜岸信介

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

昭和の妖怪と呼ばれた男:
昭和時代を通して常に権力の中枢にあり、昭和の妖怪と言われた岸信介は、私の故郷の大先輩です。

山口で生まれ、東大法学部を歴史上最高の成績で卒業:
1896年山口県庁官吏の佐藤秀介と母茂世(もよ)の第5子(次男)として山口県吉敷(よしき)郡山口町八軒屋(現在の山口市、山口駅近くと記載されている資料もあり、天花(てんげ)八軒屋と記載されているものや上竪小路(かみたてこうじ)付近との記載もあり、山口市内ではあるものの正確にどこであったのかは筆者には不明。いずれにせよ筆者の生まれ育った町です。)で生まれました。信介が3歳になった時、父は公務員を辞め、郷里の山口県熊毛郡田布施(たぶせ)町に戻って、酒造業を始めました。信介は、岡山で尋常小学校及び中学校に通ったのち、山口中学(現在の県立山口高校、筆者の母校)に転校、卒業直前に岸家の養子となり、岸信介を名乗るようになりました。一高から東大法学部に進み、1920年クラスの首席かつ東大法学部の歴史上最高の成績で卒業しました。東大卒業後、岸は農商務省に入省、当時はこの選択は奇異の目で見られました。というのは、東大法学部をトップで卒業した岸が農商務省という当時のエリートコースから外れた省に入省したことは世間から見れば驚きだったからでした。岸は、経済に興味があったといわれています。1926年から1927年、岸は、アメリカ、ドイツ、及びソビエトに旅行し、ソビエトの計画経済、アメリカのフレデリックテイラーの唱えた科学的生産性向上理論、ドイツの工業貴族とその工業技術水準の高さに感銘を受けて帰国しました。このあたり、戦前の日本のエリートの海外旅行は多くの場合、ただ物見遊山の観光ではなく、海外から少しでも優れたものを学び、日本の国を少しでもよくしたいという目的であったことに感動します。岸は改革派官僚の旗手として国家主導経済政策を推進しました。ちょうどその頃、岸の才能を発揮する絶好の機会が訪れます。1931年、満洲帝国の成立でした。

岸信介、満洲に渡る:
満洲は、もともと清朝を建てた女真族の故郷でしたが、19世紀後半、清朝の勢力が衰えるのに乗じてロシアがその地に勢力を伸ばしました。そのロシアが1905年日露戦争に負けて満洲南部から手を引かざるを得なくなると、満洲全土は紅髭子と呼ばれた馬賊のはびこる無法地帯と化しました。南満洲鉄道の経営権を譲り受けていた日本は、清朝はすでに滅びていたため、この馬賊のはびこる無法地帯を自分でなんとかしなければならなくなりました。こうして関東軍参謀の石原莞爾らの計画により、1931年の満洲事変がおき、満洲帝国が成立しました。

民間投資型の計画経済モデル満洲重工業開発株式会社を設立させる:
岸は、1936年、満洲国国務院実業部総務司長に就任して渡満、1937年、満洲帝国産業部次長に任命されました。岸は満洲国の中に広く深い人脈を築き、計画経済、統制経済を大胆に取り入れ、重工業中心の満洲産業開発5ヵ年計画案を発表し、岸は、官僚であったにもかかわらず、国営企業中心の経済政策に反対し、民間投資型の計画経済モデル満洲重工業開発株式会社を生み出し、その中心に新興財閥日産の鮎川義助を選びました。岸が、ありふれた官僚でなかったことがよくわかります。これにより、この会社は、一社で当時の日本の国家予算25億円をはるかに上回る52億円の投資を呼び、その後の満洲の重工業発達の一大原動力となりました。現在中華人民共和国の東北地方と呼ばれているこの地方が重工業の中心地域として栄えているのはこの時の岸の働きがあったからといえます。この岸が作った経済発展モデルは、第2次大戦後の日本の高度経済成長、韓国朴正煕(パクチョンヒ)が行った1950年以降の経済開発、中華人民共和国の鄧小平(デンシャオピン)が行った1980年代の計画経済発展のモデルとなったと言われています。

近衛文麿に入閣し通産大臣となるが既存財閥の猛反対にあい辞職:
1939年、岸は、近衛文麿内閣の通産大臣となり、満洲国で成功した計画経済を日本国内にも適用しようとしましたが、既存財閥の猛反対に遭い、岸は共産主義者だと言われて、1940年辞職しました。しかし1941年東條英機内閣が成立すると、東條は岸を通産大臣に指名しました。東條は満洲国時代の岸の働きを知っており、岸を自分の右腕として使おうと考えたと言われています。

東條英機内閣を崩壊させる:
しかし、1944年、岸は東條英機の始めた対米戦争は勝算がないと考えるようになり、対米和平工作を探るようになりました。岸は、サイパン島陥落ののち東條が内閣再編成をするのを阻止し、東條内閣を崩壊させました。1945年岸は護国同志会を結成し、大政翼賛会に対抗しました。岸は32名の国会議員を護国同志会に参加させることに成功しました。1945年日本が連合軍に無条件降伏をすると、岸は巣鴨刑務所に拘置されました。しかし、元駐日アメリカ大使ジョセフグルーなどの努力により、岸は、戦後の日本をアメリカの利益に沿って復興させる最適の人物とされ、岸は1948年、起訴も裁判もされないまま釈放され、A級戦犯とはみなされませんでした。

日本再建連盟を組織し憲法九条の改定を目指す:
1952年、サンフランシスコ講和条約が成立し、元の大日本帝国の官僚たちの公職追放が解除になると、岸は護国同志会を基礎に、日本再建連盟を組織し、日本が再武装しなければ、隣国の侵略に備えることができないとして、日本国憲法第9条の改定を目指しました。しかし岸は1952年の総選挙に大敗し、それにより日本再建同盟も解散を余儀なくされました。岸は社会党に参加しようとしましたが、それを断られ、仕方なく自由党に参加しましたが、アメリカ一辺倒で憲法9条の改定にも乗り気でなかった吉田茂とは意見が合わず、吉田を党首から引きずり落とそうとしましたが、1954年、逆に吉田により、党から追放されてしまいました。

保守合同を成功させ、第56代日本国総理大臣となる:
この頃までには、岸は200名余りの国会議員勢力を持ち、岸はこれを率いて鳩山一郎の民主党に加盟しました。岸は党の総秘書として党の財政を完全に掌握しており、鳩山は岸の担ぐお神輿(みこし)の上のお飾りに過ぎなかったと言われています。1955年、民主党は総選挙に勝ち、吉田茂が総選挙での敗戦の責任を取って自民党総裁を辞任したため、岸は、これを保守合同のチャンスと見て自由党と民主党の合同を成功させました。鳩山一郎が新たに結成された自由民主党の総裁となりました。岸は新党の総書記として党の財政を握り、1956年の自由民主党の総裁選挙に岸は出馬し、投票で1位を獲得しましたが、、2、3位連合を成功させた反米主義者の石橋湛山(いしばしたんざん)が数の上で逆転して自由民主党の総裁となりました。しかし石橋湛山が65日後に脳卒中で退陣すると、岸は晴れて自由民主党総裁及び第56及び57代日本国内閣総理大臣となりました。遂に岸が内閣総理大臣としてその政治上の才能と才覚を存分に発揮する機会が訪れたのでした。

1960年日米安全保障条約の改定に成功した後、辞職する:
岸はこれに先立つ1955年、重光葵(しげみつまもる)外務大臣と同行して、鳩山政権の幹事長として訪米し、当時のアメリカ国務長官ダレスと会談し、重光は日米安保条約の対等化や日本のアメリカ防衛などについて提案しましたが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に強く反対したと言われ、岸は強い衝撃を受け、この時から、日米安保条約の改定が岸の重要課題となったと言われています。こうして、岸総理大臣の政策の主眼は、日米安全保障条約の改定、日本国憲法改定、とりわけ9条の改定、日本と近隣のアジア諸国との関係改善、及び、いまだに刑務所で服役中のBC級戦犯の恩赦と釈放でした。当時の日本は、マスコミも社会も、学生たちも、強く左翼色に染め上げられており、岸は極悪非道の悪党のように語られていました。学生たちのデモが国会議事堂を取り囲み、岸の退陣を声高に求め、マスコミもこれを大いに煽りました。しかし、岸は自分の信条を譲らず、日米安全保障をより相互性の強いものにした上で改定することに成功しました。岸は、1960年、日米安保条約の改定を果たすと辞職し、後継を池田勇人に譲りました。岸の主張は、今から考えてみると、非常に真っ当なものだったと思われ、当時の日本がいかに左翼色に染められていたのかが感じられます。

暴漢に襲われて大腿を六回にわたって刺される:
岸は1960年7月14日暴漢に襲われて、大腿を六回刺される重傷を負いました。岸は直ちに病院に運ばれ手当を受けました。幸い傷は大きな動脈を逸れており、生命の危険はありませんでした。岸はその後も日本の政財界に大きな影響を及ぼし続けました。1987年死去。享年90歳。のちの首相佐藤栄作は実の弟。のちの外務大臣安倍晋太郎は義息。元総理大臣故安倍晋三及び元防衛大臣岸信夫は孫。

今日の東アジアの産業発展の元を築いた男、岸信介:
優れた才能を持ち、その才覚で、不毛の地であった満洲を一大重工業地帯に変え、日本の戦後の高度成長を推進し、韓国の朴正煕や、中華人民共和国の鄧小平などが手本として見習った稀有の人物、岸信介、その生涯は波乱に満ちており、昭和の妖怪などと悪口を叩かれましたが、岸の経済手腕の確かさは歴史が証明済であり、政治家としての岸についても、当時の左翼に偏向していた日本のマスコミ、社会の色眼鏡を取り除いてみれば、岸の主張は真っ当であり、それを理解できなかった当時の日本人こそが、反省すべき時期になってきていると思われます。現在の世界の中で、東アジアが今の立ち位置にあるのも、この地域の経済産業を大発展させた剛腕官僚岸一人の才覚に負うところが大きいと言えるかもしれません。政治家岸が目指した日本の防衛態勢の強化、憲法九条の改定はいまだに実現していません。

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線:日本の歴史を振り返る〜江戸から昭和時代の日本人たち〜田川 松

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

台湾の英雄国姓爺を産み育てた田川松(1601−1646)

17世紀の初頭、日本では徳川家康が、江戸に徳川幕府を打ち立てた頃、大陸でも大きな変化が起ころうとしていました。この大激動の時代に台湾の英雄国姓爺(こくせんや)を産み、育てた日本人のことはあまり知られていません。彼女の名前は田川松(たがわ・まつ)。肥前国松浦郡(ひぜんのくにまつうらぐん)の平戸(ひらど)で、平戸藩士田川七左衛門の娘として1601年に生まれました。平戸に住んでいた3歳年下の福建省生まれの鄭芝龍(ていしりゅう)と結婚し、1624年、鄭成功(ていせいこう)を生みました。鄭成功の幼名は福松。今日のお話は、この鄭成功、のちに国姓爺と名乗り、オランダの植民者を打ち破り、台湾の守護神となった英雄とその母の物語です。

さて、14世紀に打ち立てられた漢人の政権である明(みん)が李自成(りじせい)の反乱で滅び、明朝最後の皇帝の崇禎帝(すうていてい)が1644年、北京紫禁城(しきんじょう)の裏山で首を吊って自殺すると、満州で建国して勢力を伸ばしていた女真族(じょしんぞく)の清(しん)が万里の長城を超えて北京に攻め込み、李自成軍を紫禁城から追い出して、北京を首都とする大清帝国を打ち立てました。これに対して、中国大陸南部に避難していた明朝の皇族と官僚は、南明を建てて清に抵抗しました。この大乱世に登場したのが国姓爺です。

まずは、父、鄭芝龍はどんな人だったのでしょうか?

鄭芝龍は、1604年、福建省生まれ。17-8歳の頃、不行により父に勘当されました。この不行については、様々な説があり、父の妾のスカートの下に手を入れているのが見つかったためだとも言われています。家を追い出された後、キリスト教の洗礼を受けたあと、鄭芝龍は商船に乗り、日本の平戸で徳川幕府との間の朱印船貿易の長であった李旦(りだん)の配下で頭角を現し、1624年、平戸で日本人田川松との間に息子福松、のちの鄭成功(ていせいこう)をもうけました。その後、鄭芝龍は李団の右腕として、メキメキと勢力を伸ばし、李団の死後、その跡を継いで南シナ海を統括する大海賊として、400隻の船と1万人の配下を持つまでとなり、彼の率いる十八芝(シバチ)海賊軍団は、福建省及び南シナ海全域とを制覇するようになりました。明は、鄭芝龍に攻撃をかけましたが、鄭芝龍は、明の軍団を破り、敗れた明は、懐柔策に転換し、鄭芝龍に明の海軍大将になるよう説得しました。こうして、1628年、鄭芝龍は明の海軍大将となりました。鄭芝龍は母国語の他に日本語、ポルトガル語およびオランダ語が話せたと言われています。しかし、鄭芝龍の運はここまででした。明が1644年、李自成の反乱で滅び、清朝が成立し福建省に侵攻してくると、1646年、鄭芝龍は明を裏切り、福建省に亡命政権を立てていた明の皇帝隆武(りゅうぶ)を清に売り、清に投降しました。その後鄭芝龍は清に取り立てられ、北京に住みましたが、息子の鄭成功が、清に反旗を翻し、鄭芝龍はその説得服従工作に失敗したため、清から官位を剥奪され、1661年、処刑されました。享年57歳。

次は母、田川松の話です。

1601年、肥前国平戸藩士の田川七左衛門(たがわしちざえもん)の娘として生まれました。当時平戸を根拠地として活躍していた3歳年下の明国福建省の海商鄭芝龍(てい・しりゅう)の妻となり、1624年田川福松(のちの鄭成功・ていせいこう、国姓爺・こくせんや)、続いて田川七左衛門(祖父と同名)の二人の息子を産みました。福松が7歳になった1631年、福松は父のいる福建州に渡りました。松は、しばらくして福松と鄭芝龍を追って、福建省に渡りました。この時幼い七左衛門は、田川家の後継として平戸に残されました。1646年、清による福建州侵攻の際、田川松は、清軍に邸内に攻め込まれて清国への服従を要求されましたが拒否し、自害しました。享年45歳。日本の平戸市の千里ヶ浜に、田川松が貝拾いをしている最中に産気付き、岩にもたれて鄭成功(ていせいこう)を出産したとして、その岩が児誕石として顕彰されている史跡があります。鄭成功の弟、田川七左衛門の子孫は今も平戸市に在住していると言われています。

さて、国姓爺の話です。

1624年、肥前国平戸(現在の長崎県)に明の海賊鄭芝龍と日本人の母、田川松の間に生まれました。幼名福松。7歳まで平戸で母のもとで過ごし、1631年、明朝支配下の福建省に父を訪ねて移り住みました。1646年清が福建省に侵攻してきた際、父鄭芝龍は清に降伏投降しましたが、鄭成功は、父に従わず、残った将軍たちを率い、南明の隆武(りゅうぶ)皇帝をいただいて、福建省で明朝復興のための戦いを開始しました。鄭成功は、隆武帝に国姓爺(こくせんや、皇帝から国家の姓を授けられたもの)の姓を賜り、また成功という名も授かりました。鄭成功は国姓爺の名前を好んで使いました。鄭成功は、当初破竹の勢いで清朝政府軍を撃破し、南京に迫る勢いでしたが、一気に南京を攻めることをためらい、大軍を整えてから攻撃する方針に切り替えたため、清朝軍は息を吹き返し、鄭成功は南京攻略に失敗しました。その後、鄭成功はオランダの植民地となっていた台湾に侵攻し、台湾の原住民と協力してオランダ軍を破り、1661年、台湾に鄭(てい)朝を打ち立てました。鄭成功は、台湾原住民に農業を教えました。またフィリピン攻撃も計画し、当時フィリピンを支配していたスペイン人たちは、鄭成功の攻撃に備えて、南部のミンダナオ統治を諦めて北部に兵力を回さざるを得ませんでした。鄭成功は台湾を根拠地として、本土への反抗の機会を窺いました。しかしその夢は叶わず、1662年マラリヤで死亡しました。江戸時代の人形浄瑠璃作家近松門左衛門は、国姓爺を題材にした国性爺合戦(こくせんやがっせん)を制作し、大ヒットとなりました。台湾人の間では、鄭成功は国姓爺、Koxingaと呼ばれ、台湾の守護神として篤く信仰されています。享年38歳。

児誕石:長崎県平戸市千里ヶ浜。Birth Rock of Zheng Chenggong, in Hirado, Japan by Niccolo, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

田川松と国姓爺母子像 Koxinga and his mother in Japanese Fuku. Koxinga Ancestral Shrine(鄭成功祖廟) Tainan , Taiwan by koika, CC BY-SA 3.0

田川松と国姓爺母子像 Koxinga and his mother in Japanese Fuku. Koxinga Ancestral Shrine(鄭成功祖廟)
Tainan , Taiwan by koika, CC BY-SA 3.0

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜江戸から昭和時代の日本人たち〜伊能 忠敬

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

江戸時代に、歩測と天体観測で子午線1度の距離 を求め、正確な日本沿岸地図を作った伊能忠敬。

伊能忠敬(いのうただたか)は、江戸時代中期の 1745年、上総国(現在の千葉県山武郡)佐原村の名 主の家に小関三治郎として生まれました。6歳の時に母 を亡くし、小関家は叔父が継ぐことになったため、婿 養子であった父神保貞恒(じんぽさだつね)は家を出、 三治郎は小関家の祖父母のもとに残りました。10歳の 時三治郎は父親のいた神保家に引き取られましたが、 父は神保家の当主ではなかったため、そこでも三治郎 は肩身の狭い思いをしていたと考えられています。

1762年、三治郎は17歳の時、土地改良事業の現 場監督として良い仕事ぶりを発揮したことが認められ て、同じ佐原村の酒造家の伊能家の当主が死んだ後 の跡取りとして婿に迎えられ、名前を伊能忠敬と名 乗りました。この時忠敬は17歳、妻のミチは21歳でし た。佐原は天領で、武士は一人もおらず、利根川を利 用した水運業の中継地として栄え、人口も当時五千人 を数えていたと言います。佐原には2つの酒造家があ り、忠敬が婿入りした当時は、伊能家は永沢家に比 べて、家業は小さく、家格も下とされていました。この 伊能家の再興の希望を託された忠敬は、家業の酒造 り、運送業、地主、薪販売業などで才覚を発揮し、名 主として佐原の村を取りまとめる行政手腕も発揮し、 伊能家を再興、繁栄させ、永沢家と同等またはそれ 以上の規模の家業の家にすることに成功しました。

1783年、浅間山の大噴火により、天明の大飢饉が 起きると、村民を代表して奉行所に年貢の軽減を願 い出て認められました。さらに、忠敬は、その後の関 東一円の米の不作を見て、将来の米の値上がりを見 込んで関西方面から大量の米を買い付け、それを売ら ずに貯蔵しました。米の値下がりは続き、借金は増え 続け、周囲からは米を売って借金を減らすように助言 されましたが、忠敬は米を売らず、その貯蔵を続けまし た。すると、その年の7月偶然にも利根川の大洪水が 起こり、佐原の農民は、その日に食べる米もなくなると いう事態が起こり、忠敬は、村の有力者と相談しなが ら、蓄えていた米を少しずつ困窮者に分け与えたため、 佐原村からは一人の餓死者も出なかったと言います。

その後、1787年江戸で天明の打ち壊しが起きた時 も、忠敬は役人に金を与えるぐらいなら農民に金を与え るほうが良いと主張し、農民救済に努めたため、佐原村 は打ち壊しの被害を出さなかったと言われています。こ うして飢饉を乗り切ったあと、忠敬は残りの米を売り払 い、これにより多額の利益を得ることができました。 この頃までに、伊能忠敬は、趣味として、暦学に興味 を持ち、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強し たり、天体観測を行ったりするようになっており、天文 学への熱が高じて、それまでの全ての暮らしを打ち捨 てて、好きな天文学を勉強したいと思うようになって いたと言います。忠敬は、地頭所に何度も隠居を願い 出ましたが、佐原村での伊能忠敬の行政手腕を必要 としていた地頭所は、なかなか承知しませんでした。  1794年、伊能忠敬は50歳の時、地頭所に隠居を 願い出て、やっと承認されました。1794年、息子に家 業を全て譲り、江戸に出て、当時31歳、19歳年下の新 進気鋭の暦学者高橋至時(たかはしよしとき)に入門 し、本格的に天体観測と暦の勉強をはじめました。

当時師匠の高橋至時は、幕府から、暦の改訂を命 じられており、正確な暦を作るためには、地球の大き さや、緯度一度に相当する子午線弧長、日本各地の 緯度経度を知ることが必要との結論に達していまし た。忠敬は地球が球体であることを知っており、彼の 興味は、緯度1度の距離を求めることでした。忠敬は 晴れた日には毎日、太陽や星の南中高度を測定し、 毎日それを日記に記録することを5年間続けました。 こうして、日々の太陽や星の南中高度から緯度差を計 算することに自信を持った忠敬は自ら行った観測によ り、自宅と浅草の暦局との緯度差は1分であることを 割り出しており、これにより、その距離を正確に測定 すれば、それを60倍すれば子午線1度の距離を求め ることができると考えていました。しかし、師匠の高 橋至時は、緯度一度に相当する子午線弧長を正確に 測るためには、江戸から蝦夷地(えぞち、現在の北海 道)ぐらいの距離の測定が必要と考えていました。

折りしも、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まって おり、至時は、幕府に、江戸から蝦夷地までの測量を 願い出て、これが許可されました。忠敬は、1800年、 4月、五人の供を連れて出発、11月までに3,244キロ メートルを徒歩で踏破し、それぞれの地点でのそれ ぞれの暦日での天体の南中高度を測定し、江戸深川 との当該暦日での南中高度差を求めることによりそ の地点の深川との緯度差を計算することで、北日本 から蝦夷地までの測量を終え、地図を完成させ、こ れを幕府に提出しました。船からでは当時の技術で は測量が不正確になるため、できるだけ海岸線を歩 くという方法で測量が行われました。この時の費用 は、その大部分が忠敬自身の懐から払われたと言わ れています。このとき忠敬は1度の子午線弧長を27 里余りと計算しました。この地図の正確さが幕府に高 く評価され、その後、幕府からも補助が出され、忠敬 は、伊豆、本州東海岸、東北日本海岸、東海北陸、 近畿中国、四国、九州、種子島屋久島、伊豆諸島、江 戸府内、と、計10次に渡る測量を幕府の事業として 完成させました。第十次は江戸府内の測量に費やさ れ、それまで測量の基点がまちまちであったのを江 戸日本橋基点に統一することで今までの地図を1枚 の大きな地図にまとめ上げることを目的としました。

井上ひさしによれば、伊能忠敬はこの十回の測量旅 行中におよそ合計35,000キロメートル、歩幅を約90 センチとして計算するとおよそ4000万歩を歩いたとさ れますが、実際の伊能忠敬の歩幅は約69センチと記 録されており、それで計算すると約5,072万歩を歩い たことになります。岩場や、山、崖、砂浜、川やぬかる み、橋、田んぼ、曲がりくねった道などを考えると、さ らにものすごい距離を忠敬は歩いたことになります。

忠敬の地図は、暦学と天文学の知識を駆使して各地 の緯度差に基づいて製作された大変正確なものでし た。しかし東西方向の距離については、当時の技術で は歩測や、基準点からの方角による三角関数の計算に よって求めるしかなかったはずで、忠敬が、まず南北 に長い東北地方や蝦夷地を最初に選んだ理由はここ にありそうです。南北に長い九十九里浜のそばで育っ た伊能忠敬が、この九十九里浜を使って、緯度と距離 の計測を何度も試してみたのではないかと私は密かに 考えています。

忠 敬は東北や蝦夷地で経験を積んだのち、 中国地方などの東西に長い地域の地図制作も手掛 けることになりました。忠敬は別々に作成された地 図をぴたりと合わせるための理論や方法を持ち合 わせておらず、それには大変苦労したようです。忠 敬は自分で各地でそれぞれの暦日での太陽や星の 南中高度を精密に測定して、緯度差を割り出し、地図を作成しましたが、これは現在の地図制作の 主流である三角図法ではありません。緯度を使う方 法は、現在では使われていませんが、三角形を次々 つなげていく三角法が、三角をつなげるごとにその 誤差を拡大する危険があるのに対し、緯度は、その 測定が正確である限り、前の測定には影響されな いため、独立の精度を持っている利点があります。

1818年、忠敬が73歳で死亡したときはまだ全図は 完成していませんでしたが、これが、弟子である間宮 林蔵が1817年持参した蝦夷地の測量地図と合わせ て、1821年、大日本沿海輿地全図(だいにほんえんか いよちぜんず)として、高橋至時の息子高橋景保(た かはしかげやす)によって完成され、幕府に提出され ました。これは、史上初めて実際の測量を基に科学 的に作られた、正確な日本沿岸の地図でした。これは 伊能図と呼ばれ、それは、縮尺36,000分の1の大図、 216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、 大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲を カバーしていたと言われています。このほかに特別大 図や特別小図、特別地域図なども存在したと言われ ています。なお、忠敬は、1803年、繰り返し精度を上 げた測定により、1度の子午線弧長を28.2里と計算 しました。ちなみにこれをキロメートルに換算(28.2里 =約110.75キロ)して360倍し、円周率で割ると、地 球を完全球体と仮定した時の直径が計算できます。 これを手計算でやってみると、12,690キロメートルと なり、現在知られている地球の直径(北極ー南極)約 12,714キロメートルとあまり違わない値となります。

この地図の正確さは、長崎にいた医師軍人のシー ボルトの目に留まり、高橋景保からこれを譲り受けて シーボルトは、これをオランダに持ち帰ろうとしました。 (シーボルト事件)。シーボルトは日本の国家機密を持 ち出そうとした罪でスパイ罪に問われて幕府により国 外追放され、高橋景保は斬首刑に処せられましたが、 シーボルトは、実は地図をオランダに持ち出すことに 密かに成功していたようで、2001年、米国国立議会図 書館にほぼ完全な207枚のコピーが見つかり、その後 も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容が掴め るようになっていると言われています。2006年の12月 には、大図全214枚を収録した伊能大図総覧が刊行 されています。日本国内にあった原本は、火災などで 消失したと言われていますが、海外に保存されていたコピーが発見されたことにより、伊能忠敬の作った地 図のほぼ全容が明らかにされ、その地図の正確さは現在でも高く評価されています。

50歳の時、一念発起して、それまで成功していた全て の家業を打ち捨て、大好きな天文学の勉強をはじめた 伊能忠敬。師匠の高橋至時に指導されて、徒歩で日本 全国津々浦々を測量し、それをもとに正確な日本地図 を作り上げた伊能忠敬。子午線の緯度1度の距離を 測りたいという執念を遂げ、ついにそれを正確につきと めた伊能忠敬、私は彼を日本人の素晴らしさの典型と 思っています。

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 第169回 Flu ショット 及び COVID ショットについて

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

秋の紅葉がきれいな季節となりましたが、この原稿が皆様のお手元に届くのは、もう紅葉も終わっている頃かもしれません。それと共に朝晩の冷え込みも厳しくなってきており、もうすぐ来る冬の訪れを感じさせるようになりました。

冬といえばインフルエンザのシーズンです。インフルエンザには米国で毎年約3500万人が罹患し、38万人が入院を必要とし、総死亡原因の1.6%を占めていると言われています(USstatista)。

アメリカ心臓病学会は、インフルエンザウイルスに対するワクチン接種を、強く推奨しています。JAMA※本年4月号に掲載された論文によれば、インフルエンザのワクチンを接種した人は、心臓血管系の重篤心事故を非接種者に比べて、34%減少させ、また、最近急性冠状動脈虚血症候群(心筋梗塞や不安定狭心症など)に罹った人のうちでは、45%減少させたことが判明しています。(注1)

アメリカ心臓学会では、インフルエンザのワクチン接種を、禁煙、コレステロール低減薬のスタチン、及び血圧コントロールなどと並ぶ、重要な治療・予防法として推奨しています。(注2)

糖尿病や喫煙歴、心臓や慢性肺疾患などの既往歴のある人、免疫不全症、高齢者や、乳児、妊産婦、慢性腎疾患、悪性腫瘍などの基礎疾患がある人はもちろん、そのような疾患のない人でも、接種の利益と危険を比較すれば、ワクチン接種は勧められます。近くの薬局やプライマリーケアでインフルエンザの予防接種は気軽に受けられます。アメリカでは、インフルエンザのワクチンの事をフルーショット(Flushot)と言います。Flushot希望といえば、すぐにしてくれるはずです。インフルエンザにかかってから、解熱剤、鎮痛剤、鎮咳剤、抗ウイルス薬を飲むのも間違いではありませんが、手洗いやマスク、混雑を避けるなどと共に、ワクチンによる予防は最良の防御策だと思います。

アメリカでも日本でも、COVID19の流行は、やっと下火になりかけているようですが、医療従事者の目からすると、まだまだCOVID19の患者さんはおられます。私たち医者にとっては、これらの患者さんのお世話をすることは、義務であり、避けられないことでありますので、病棟に入院されれば、相変わらず防護ガウンを身に纏い、マスクと手袋をして、完全防御の態勢で、患者さんを診ることになります。ただ、2020年の、世界大流行初期に比べると、患者さんの症状が遥かに軽い印象があります。もちろん、中には重症になっている患者さんもいますが、総体としては、ずいぶん違ってきている印象を受けます。どちらかといえば、軽い風邪症状に近いものになってきている印象があります。これは、これまでに一度コロナに感染しているか、ワクチンを接種している人が増えて、重症化や入院、死亡などのリスクに対する免疫力が高まっている人が増加しているため、コロナの症状が全体として軽症化していることも大きな原因となっていると思います。

10月14日、アメリカ食品衛生局は、ファイザー社(5歳以上)と、モデルナ社(6歳以上)のオミクロン株対応の二価ワクチンを、接種可能とすると発表しました。二価ワクチンは、元々の、武漢発祥のオリジナルのウイルスと、それから派生し、現在主流となっているオミクロン派生型の両方に対応するワクチンです。二価ワクチンは、これまで既にコロナワクチンを受けたことのある人を対象に、ブースターとして接種されます。これまで使用されてきた一価ワクチンは、ブースターワクチンとしては使用できなくなりました。(注3)

JAMA10月18日号には、デルタまたはオミクロン株に罹った1199人のCOVID19の患者さんを対象に、直近の150日間に二回目か三回目のブースターショットを受けたかどうかで層別化して調べたところ、ブースターショットを受けた人は統計学的に有意に症状が軽く、罹病期間が短く、医療機関にかかる割合が少なく、体内のウイルス量が少ないという研究結果が発表されています。(注4)

また、JAMA10月11日号には、ノースカロライナ州の1060万人の人口を対象に、興味深い比較研究結果が発表されており、COVID19プライマリーワクチンを受けたか受けなかったか、また、ブースターワクチンを受けたかプライマリーのみか、さらに、COVID19にかかった事があるかないか、の三つの比較をしたところ、いずれも、前者が、後者に比べて、統計学的に有意に、COVID19新規感染、入院、及び死亡のリスクを下げているという結果が出ました。この効果は、時間が経つにつれて弱くなり、とりわけ、新規感染に対する効果が減少するとの結果でした。(注5)

こうした結果から考察すると、COVID19に対するワクチンは、有効であり、ハイリスクの人には特に勧められます。予防は最大の防御という格言は、インフルエンザだけでなく、新型コロナウイルスにも当てはまります。

適切なワクチンを接種されて、健康で快適な冬を過ごされることをお祈りしています。

<参考文献>

※ JAMA: Journal of the American Medical Association

注1) Association of Influenza Vaccination With Cardiovascular Risk: A Meta-analysis, April 2022. JAMA open. DOI:10.1001/jamanetworkopen.2022.8873.

注2) Influenza Vaccination for Primary and Secondary Prevention of Atherosclerotic Cardiovascular Disease: Efficacy/Effectiveness of Vaccination and Disparities in Vaccine Coverage in the US. Oct 13, 2020 ACC expert analysis.

注3) FDA NEWS RELEASE Coronavirus (COVID-19) Update: FDA Authorizes Moderna and Pfizer-BioNTech Bivalent COVID-19 Vaccines for Use as a Booster Dose in Younger Age Groups. October 12, 2022

注4) Association of mRNA Vaccination with clinical and virologic features of COVID19 among US essential and frontline workers. JAMA 2022, 328(15): 1523- 1533.

注5) Association of primary and booster vaccination and prior infection with SARS-COV-2 infection and severe COVID-19 outcomes. JAMA 2022; 328(14): 1415-1426

 

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線: 日本の歴史を振り返る〜幕末、明治、大正の女性たち〜楠本 稲

心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

 

楠本稲(失本稲、シーボルト・イネ) は1827年、31歳のドイツ人、フィリッ プ・フランツ・フォン・シーボルトと、日本人の20歳の娘楠本滝(くすもとたき)の間に長崎出島で生まれました。

シーボルトは、ドイツ、ババリア地 方の出身の医師・博物学者・軍人、 貴族で、オランダ領東インド(現在の インドネシア)総督によって長崎出島のオランダ商館医として任命され、長崎出島に1823年、来日 しました。当時は日本は鎖国中で、西欧諸国の間ではオランダ人だけが長崎出島で貿易をすることが認められていました。従って シーボルトは日本滞在中、自分はオランダ人だと名乗り、オラン ダ語にドイツ訛りがあるのを怪しまれると、自分は“山オランダ” の出身だと言い訳をしたと言われています。(実際にはオランダ は平坦な海面下の国で、山はありません。)シーボルトは、出島の役人と交渉して楠本滝を自分のお抱えの遊女という体裁を整えて出島に住まわせ(当時日本人の女性は、遊女以外は出島に住 むことを許されず、外国人は出島の外に住むことは許されなかったため、これが唯一の解決策とされました。)、6年間の日本滞在の間に楠本滝との間に一人娘、稲(イネ)をもうけました。シーボ ルトは医師として出島の外に診療所及び蘭学塾鳴滝塾を設けることを許され、日本人の患者の診察治療にあたると同時に、全国 から彼のもとで学ぶために長崎にやってきた多くの日本人の弟子達にオランダ語や予防接種、病理解剖などの医学を教えました。シーボルトはまた博物学者、軍人として、日本在住の間に多くの日本の工芸品、絵画、動植物などを収集し、その膨大なコレ クションを数回に分けて本国に送り、それは、その後、オランダ、 ライデン市の膨大な日本の動植物コレクションの基礎となりました。シーボルトの日本植物のコレクションは12000種に上ったと言われています。地元の画家川原慶賀(かわはらけいが)はシーボルトのために多くの動植物や風景、人物などを描き、それもま たオランダに送られました。またシーボルトは、日本茶の種を密かに持ち出し、それまでお茶の存在しなかったオランダ領ジャワ へ持ち込み、これはその後の世界的に有名なジャワ産茶産業の 元となりました。

1826年、シーボルトが幕府に招かれて江戸に旅行した際、自 分の持っていたヨーロッパ地図と交換に天文学者高橋景保(た かはしかげやす)からその弟子の伊能忠敬(いのうただたか)が作成した大日本地図を貰い受けましたが、それが幕府によって発見され、徳川幕府は、禁制の地図を所持し、これを国外に持ち出そうとしたとして、シーボルトがロシアのスパイであると疑い、彼を逮捕し、1829年、国外追放しました。イネが2歳の時でした。シーボルトが国外退去命令を受けて日本を去る際、滝は 日本人であるため鎖国令により、日本を出国することが許されま せんでした。その後滝は回漕業者俵屋時次郎と再婚し、イネも 母と一緒に、俵屋時次郎の家に住むことになりました。幕府は 伊能忠敬の地図以外は、その価値が分からず、没収しなかったため、シーボルトは国外退去に際してその膨大な日本動植物及び工芸品や絵画などのコレクションをそれまで持ち出したものを含め、オランダに持ち帰ることに成功しました。裕福なシーボ ルトは、国外追放の際、妻の滝と娘のイネに自分の財産として当 時日本に貯蔵していた貴重品の砂糖の蓄えを資産として残し、また日本の弟子たちにイネの身の上を保護するよう依頼することを忘れませんでした。また、シーボルトは帰国後、イネにオランダ語の文法の本を送りました。シーボルトは四国宇和島藩の町医者で自分の弟子であった二宮敬作(にのみやけいさく)に、イ ネの後見人となり保護と教育を与えることを依頼しました。二宮 敬作はこのシーボルトの依頼に応えて、イネに7年間、医学入門 教育をしたと言われています。イネは1845年、18歳の時、本格的 に医学の勉強をするため、二宮敬作の紹介でシーボルトの弟子 の一人、岡山藩の石井宗謙(いしいそうけん)の下で産婦人科学 を学びはじめました。しかし、1851年、石井宗謙が24歳の彼女を強姦し、彼女を妊娠させたため、イネは即時に石井宗謙の下を去り、長崎で一人娘タダ(のち高子と改名)を産みました。イ ネは終生石井宗謙を憎み、彼を許しませんでした。イネは生涯 独身で、未婚の母として、医者をしながら、一人娘タダを育てます。イネは、その後も医学の勉強を長崎の医師阿部魯庵(あべ ろあん)の下で続け、日本女性最初のオランダ医学を身につけ た医者となりました。イネの後見人の二宮敬作は、イネを有名な 蘭医として四国宇和島藩の藩主伊達宗城(だてむねなり)に紹 介し、蘭学に興味を持っていた伊達宗城は喜んで彼女を宇和 島藩に迎えました。不幸にしてまもなく二宮敬作は脳卒中で倒れ、イネは二宮敬作とその甥三瀬周三(みせしゅうぞう)を連れ て長崎へ帰りました。二宮敬作は、その後、1862年、死亡しまし た。

一方オランダに帰ったシーボルトは、この間、ライデン市に 日本植物博物館を作り、また彼の日本動物コレクションはライデン自然史博物館に寄贈されました。シーボルトは、1832年, Nipponと題する動植物を描いた挿絵の豊富な書物を出版しました。シーボルトが持ち帰った標本の中には、ヨーロッパ初の オオサンショウウオの標本も含まれていました。またシーボルト はヨーロッパには知られていなかった日本紫陽花(あじさい) の一種をオランダに送った際に、これに、Hydrangea Otaksa との学名をつけたましたが、これは、妻の楠本滝をシーボルト が“お滝さん” Otaksaと呼んでいたことに由来すると考えられて います。またシーボルトがオランダに持ち帰った植物の中には、 たった一本の標本から、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸に瞬く間に広がり、両大陸で最も侵襲的な外来植物となった、イタド リ(Reynoutria japonica)も含まれていました。

シーボルトはその後ドイツで結婚し、ドイツ人の妻、ヘレンとの間に長男アレクサンダー、次男ハインリッヒを含む3男2女を設けました。シーボルトは1852年にロシア皇帝に招かれて日本をどうしたら開国させることができるかのコンサルトを求められました。アメリカ人ペリーも1854年に日本に出かける前に、彼のもとに相談に来ています。

1859年、日蘭修好通商条約の締結により、入国禁止措置を解かれるとすぐ、シーボルトは長崎に、イネの異母弟の13歳のアレクサンダーを連れて帰ってきました。当時32歳のイネは大変喜んで、夢にまで見た父と長崎で再会し同居しましたが、父のドイツ語訛りのオランダ語がよく理解できなかったことと、同居していた日本人の召使いを父が妊娠させたことがきっかけで、父の家を出ました。その時シーボルトは64歳でした。シーボルトは、この頃、徳川幕府の顧問として、外国代表団との通訳や仲介をする職を得ようという野心を持って幕府にさまざまな働きかけをしていましたが、オランダ政府はこのシーボルトの野心を嫌い、1862年帰国命令を出し、それに従ってシーボルトは日本を離れました。以後シーボルトは、ヨーロッパに帰ってからもフランスやロシアに、自分を公使として日本に派遣するよう売り込みを続けましたが、実現せず、ついに日本に帰ってくることはありませんでした。

シーボルトの2度目の日本滞在は3年間、最初の6年間を加えると、通算計9年間日本に滞在したことになります。1866年シーボルトはミュンヘンで71歳で死亡しました。シーボルトの2度目の来日中にその弟子となり、またイネの異母弟のアレクサンダーに日本語を教えていた医師の三瀬周三(二宮敬作の甥)は英語とオランダ語が得意でシーボルトに伴って江戸に出かけた際、通訳として同行しましたが、幕府の役人の誰よりも通訳として有能であったため嫉妬され、「町人(医師)の分際で宇和島藩士と称して帯刀したという罪」で江戸で投獄されましたが、宇和島藩主伊達宗城の取りなしで釈放され、宇和島へ戻ってきました。三瀬周三は1866年、イネの娘タダ(高子)を嫁にし、明治になってから大阪北御堂(きたみどう)に診療所を開業しましたが、コレラに罹って、1877年に死亡しました。

イネはそのまま長崎に住み、オランダ医師ポンペに学びました。ポンペは、長崎療養所(のちの長崎大学医学部)を開設し、イネもそこで学び、また手術の補助も行いました。ポンペはイネの手技の高さを文書で誉めています。またポンペはそこで死体解剖も行い、イネは日本で初めて死体解剖に立ち会った女医となりました。イネは宇和島藩の伊達宗城藩主の信頼と庇護を受け、産婦人科医として藩主伊達宗城の妻の出産に立ち会い、長崎と宇和島を頻繁に往復しました。1869年イネの母滝が死亡。イネはこの頃さらに長崎で産婦人科医のボードウイン、さらにマンスフィールドの下で腕を磨きました。イネはその後東京に出て、英国領事館に勤務していた異母弟のアレクサンダーやオーストリア領事館で勤務していた異母弟のハインリッヒと交流を続けました。イネは二人のドイツ人の異母弟を通じて明治政府の高官や皇室にも知己を得ました。アレクサンダーは明治政府に信頼されて、明治政府の高官たちが欧州旅行に出かける時は、たびたびその随行員として指名されました。ハインリッヒは日本の美術品やコイン収集などに興味を持ち、archaeologyの日本語訳として考古学という日本語を作り出したのはハインリッヒだと言われています。明治維新後、イネは宮中に招かれ、産婦人科医として、1873年明治天皇の側室葉室光子(はむろみつこ)の出産を担当しました。イネは1871年より1877年までの7年間東京築地1番地で産婦人科を開業しました。これは日本最初の産婦人科開業医院でした。1882年にイネは皇后陛下の侍医となり、1883年宮内省御用係を拝命。慶應義塾大学の創始者福沢諭吉の義姉はイネの弟子でした。1895年ごろイネは医業から退職。1903年死亡しました。享年77歳。

司馬遼太郎の歴史小説「花神」の中では、イネは明治維新の革命家で2歳年上の大村益次郎(村田蔵六)の恋人であったと描かれていますが、それを証明する記録は見つかっていません。長州藩出身の大村益次郎は、イネと同時期に宇和島藩に招聘されており、また、イネと益次郎、二宮敬作は蘭医仲間であったことから、益次郎とイネとの接点は多くあり、また、大村益次郎が1869年京都で暴漢に襲われて刀傷を受け、それが元で敗血症で死亡した際、イネが医者として看病したことはよく知られています。しかし、1924年、イネの娘72歳の高子が行ったイネの回顧談の中に、大村益次郎(村田蔵六)の名前は一度も出てこず、二人が恋仲であったという話の信憑性は確かではありません。

イネは娘の高子(タダ)に医師となってもらいたいと希望しており、高子も夫三瀬周三の死後大奮発して医師になる勉強をはじめましたが、医師になる勉強中に東京で医師片桐重明(かたぎりしげあき)に強姦され妊娠したため、高子は、医者になることを諦め、片桐の子を出産し、その子は亡き夫と同じ名前の周三と名付けられ、長崎の楠本家をつぎました。高子はその間、一般人の山脇太輔(やまわきだいすけ)と結婚し、1男2女をもうけました。高子は、医者になることを諦めた後、琴三味線の猛修行をして、その奥義を極め、琴三味線権大教正の地位も与えられたと言います。母イネは、娘の高子が琴三味線の修行に朝早くから晩遅くまで打ち込むのを見て、それと同じくらいのエネルギーを注ぎ込めば医者になれるのにと嘆いたと言われていますが、母イネの希望は叶いませんでした。

ドイツ人の父シーボルトに憧れて日本最初の女性蘭医婦人科医となった楠本イネ、その生涯は、過酷で波乱に満ちたものでしたが、今の日本の女性達、女医さん達の直面している問題と無縁のものでもないように思えます。

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

心臓病治療の最前線:あるアメリカ循環器開業医の 1 日。緊急当直日の出来事など。

0
心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線
 ミシガンも暑い日が続いていますが、お元気でお過ごしでしょうか?
 循環器科開業医としての私は、総勢七人の循環器科医グループの一員として、外来を週に2日半、病棟回診及びカテーテル検査及び治療を週に2日半行っています。週末は交代で休みをとりますが、3つの病院をカバーしなければならないため、週末は二人で当直となります。3つの病院は互いに10マイル以内の距離にあります。こうして、平均月に3日程度(土日プラスもう1日)、週末当直となります。週末当直の忙しさは、日によって大きく違い、たくさんの入院患者さんがいたり、新規の患者さんが多く入ってきたり、複雑な病態を抱えている患者さんがいるときなどは、朝から回診を始めても、夕方一杯までかかる時もあります。サントジョン病院は通常最も多くの患者さんを抱えているため、循環器の上級看護師さん(アメリカではナースプラクチショナーと呼ばれています。)と協同で回診します。
 さて、今日は、そのような週末当直の日の出来事についてお話しします。その日は、2つの病院の掛け持ち当直で、しかも、そのうち一つの病院では、緊急当直と、新規入院当直、心電図当直、心エコー当直、負荷試験当直なども兼ねていましたので、忙しいことは覚悟ができていましたので、まず、朝7時から、当直に当たっていない病院に行って患者さんを診て、幸い病態が安定している患者さんばかりでしたので、一時間以内にそこを終え、次の病院に出かけました。次の病院に着くと、コンピューター上で七人の新規入院の患者さんがおり、先にその患者さんたちのデータを集めてから、一人ずつ病室を訪問して診てゆきました。昔は、電子カルテがなかった頃は、患者さんの話からの情報だけでカルテを作ろうとすると、患者さんがうろ覚えであったり、忘れていたりしていて、その話の正確性を他の情報源と併せて、裏をとって、確認する作業は大変でした。昔は、古いカルテを事務の人に倉庫から引っ張り出してもらったり、胸部写真を引っ張り出してもらったり、本当に大変でした。10年ほど前にオバマケアが導入された際、飴と鞭を使って、全米で電子カルテの導入が進み、今では、入院患者さんのすべてに、古いカルテや、胸部写真、血液検査の結果などが10年ぐらい前まで遡って(データがあれば)病棟の全てのコンピューター端末で検索できますので、新規患者さんを見るときの情報の大きさ、その収集の簡便さとスピードは、昔と比べ物になりません。また手書きのカルテは、日本でもアメリカでも、読めないことで有名でしたが、電子カルテとなってから、他科の先生が書いたカルテが読めるということだけでも、大きな進歩です。もっとも、当初のオバマケアの目標はもっと野心的で、アメリカ中の全ての医療機関が患者さんの医療情報を共有できる(個人のプライバシー保護をした上で)ことが最終目標でしたが、現在同じ病院系列の病院間では、情報共有がなされていますが、病院系列が違うと、それがなかなか難しく、結局不完全な情報で落ち着かざるを得なかったり、重複検査をせざるを得ないことが、なきにしもあらずです。
 コンピューターによる情報検索を行う時に注意しなければいけないのが、その正確性の担保をどのように行うかということがあります。一旦コンピューターに入力されてしまうと、その情報や診断名が一人歩きを始めて、次々に間違いが複製され、拡大してしまう可能性を孕んでいます。また昔行われた診断名についてその時は正しいと思われていたがのちの情報によって違う診断名となったものもあります。間違いが再生されるのを防ぎ、最新の、できるだけ正確な診断名に行き着くためには、それぞれの診断名について、患者さんと会話をしながら、他の診断名との整合性、時系列で意味が通っているか、現在の身体所見や服用薬と整合性があるか、今回の病態にどの程度関与しているかどうか、その診断名にどの程度の信用性があるか、根拠は何か、裏が取れているのか、などを考えながら、カルテを完成させ、検査や治療方針を決めていきます。一人の新規患者さんにかかる時間は、その病態の複雑性にもよりますが、古いカルテ検索から、患者さんとの面談及び診察、新規カルテの完成とオーダーの入力で、約30分から45分ほどです。新患でない患者さんについては、前日のカルテがありますから、それを参考にして、追加所見とオーダー(もし必要があれば)を付け加え、また修正の必要があればそれをした上で、その日のカルテを完成させます。新患でない患者さんについては、病態が落ち着いていれば、5分から10分ほどで新規カルテが完了します。
 こうして全ての患者さんを一応診終わってから心電図の読図にかかります。最近はコンピューターが仮読図をしてくれているため、それに問題がなければ、クリック一つで読図が完了します。最も悩ましいのが、リズムの解析で、患者さんにパーキンソン病の既往があったりすると、心電図上では、心房粗動のように見えてしまうことがよくあります。また、心房性の期外収縮が頻発していると、場合によっては心房細動との鑑別が難しいことがあります。ST部の上昇や下降、Q波の存在、QTの遷延、PR間隔の延長、などについては、コンピューターはほぼ見落としがないと感じています。コンピューターが読み間違えをしていないかに気をつけながら、その日その病院の1日分、200件余りの心電図の読図を完了しました。一つの心電図読図にかかる時間は、平均して5秒から10秒程度です。
 次は心エコー(超音波検査)です。心エコーは、ほとんどの場合、エコー専門の技師さんが検査を行い、仮読影をしてくれていますが、一つ一つの動画を見ながら、壁運動異常はないか、弁膜機能や形態に異常はないか、大動脈や心嚢膜に異常はないか、異常な瘤や構造物は存在しないかなど、確認しながらの読影となりますので、結構時間がかかります。一つの検査を読影するのに、平均5分から10分かかります。昔は、心エコーの記録媒体は、VHSのビデオテープでしたので、巻き戻しや初期出しに時間がかかり、また、読影は、そのVHSが保管されている部屋でなければ読影ができず、非常に不便でした。今はデータは全てクラウドを通じて病院中のコンピューター端末でいつでもどこでも読影ができますので、これも大きな進歩です。1日分30件余りのエコーの20数件ほどの読影がすんだ頃、救急室から緊急コールが入りました。
 ”80歳の女性、めまいと軽い精神混濁。軽度の胸痛もあり。救急室の心電図で、3度の房室ブロック。心室心拍数は30/分。血圧120/75。服用薬の中にはベータブロッカーやカルシウム拮抗剤などを含まない。
 ”直ちに、ペースメーカーの適応有りと判断したので、たまたま病院内にいた電気生理学の先生にお願いして、救急の処置を行なってもらうことにし、急いで残りの心エコーの読影を片付けてしまおうとしたところに、二回目の救急室からの緊急コールが入りました。
 ”73歳の女性、胸痛と呼吸苦を訴えて来院、緊急CT検査にて両側性の騎乗型肺塞栓症。SaO2=83%と低酸素血症があり、CT上で右室/左室比が1.5。脈拍数120。血圧110/80。緊急治療を要します。
 ”この時電気生理学の先生から最初の患者さんについての報告が入り、胸痛があり、虚血性の房室ブロックの可能性があるので、緊急カテが必要だと思いますとの話でした。まさに盆と正月が一緒に来たような状況で、これは、両方緊急カテで解決するしかないと腹を括り、心エコーの読影はひとまず後回しにして、緊急カテの立ち上げをオーダーしました。緊急性の順番を考えて、虚血の診断治療が優先すると考えたので、最初の80歳の女性を先にすることにし、待つこと半時間、カテ室緊急チームが到着しました。ここで時計を見ると午後5時半。
 最初の患者さんは、まず、鼠径動静脈にシースを入れ、鼠径静脈から、右心室に、臨時のペースメーカーを留置しリズムを安定させ、心拍数を確保しました。その後鼠径動脈からカテをして冠状動脈造影をしてみると、冠状動脈狭窄はなく、虚血性の疾患は除外されたので、手技は完了し、鼠径動静脈シース及び臨時ペースメーカーを手術用の針と糸で確保し、集中治療室に送りました。患者さんは翌朝埋め込み式ペースメーカーの治療を受けられ、翌々日元気に退院されました。
心臓病治療の最前線 2番目の患者さんは、肺塞栓をINARIという道具を使って経皮的に吸引除去する事とし、緊急INARIチームを立ち上げ、鼠径静脈から、両側の肺動脈に吸引装置をすすめ、そこにあった大量の血栓を除去することに成功しました。血栓除去の直後に、血行動態は著明に改善し、酸素飽和度は正常化し、患者さんの胸痛と呼吸苦も完全に改善しました。(図1)
 2例の緊急カテを終え、心エコーの読影も終了して、帰途に着いたのが午後9時。緊急当直なので、次の日の朝までは、緊急電話の応対もあり、長い1日で疲れましたが、満足感もありました。患者さんの命を救い、苦痛を取り除くという医師の仕事は、忙しいですが、達成できた時の満足感は、何者にも変え難いものがあります。
—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506