Thursday, June 20, 2024

お花の随筆:第62回 ねもとの話(JNC 2022年9月号掲載)

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お花の随筆 外交、経済、教育。世界のそれぞれの国に住む人々がそれぞれのレベルで抱える多様で複雑化した課題に、日々、どう取り組んでゆけば良いのか。人間は忘れる動物であるが故に、大切な事項を忘れないよう努めるためのモチベーションと励まし、リマインダーが日々必要となってまいります。なんともハイメインテナンスで厄介な生き物と申すことも出来ますが、そのお茶目な魅力を保持しながら、人間の持つ弱い面である浅はかさ、狡さ、身勝手さを極力自制し、先の、もっと大きな目標へ向かって周囲と助け合いながらあゆみ、ひいては定めたゴールへ到達することができるのかどうか。大願成就なるか否かは、それぞれの心がけと、各々に与えられた時間のゆとり次第と思われます。
お花の随筆 夏の名残にしがみつき、色鮮やかで涼しげな草花を少しでも長く鑑賞しようと私は毎年頑張ります為、秋の活動への取り組みが遅れがちになります。それを重々承知しておりますもので、今年は潔く割り切り、8月半ばにはもう、テンポよく冬支度を始めることに致しました。豪華に成長し目を楽しませてくれたコンテナガーデンの数々を解体してゆくのは淋しいことですが、道行く人たちにもお褒めいただき感謝すらされ、お蔭様で今年も良い思い出がたくさん出来ました。ですので次のシーズンについて既に計画しながら屋内に取り込めるものとそうでないもの、ミシガンの寒さでも外で冬を越すものとそうでないものとを仕分け、それぞれの運命に事務的に対処してゆくよう努めます。
お花の随筆 この夏は、物心つきかけの子供たちと野外で活動する機会に恵まれました。畑に育てた野菜に水を遣る課題を与えられた子供たちは生き生きと目を輝かせ、一斉にそれぞれの容れ物に水を汲み畑に走ってゆきました。ふと気が付きますと、何か様子が違います。僕はトマトに水を遣る、と大きな声で言った子供は、何故かトマトの実そのものに水をかけて満足し、私はナスに水を遣る、といった子供はなぜか、フェンスの外へ育ってぶら下がっているおナスの実そのものに水をかけ、満面の笑顔で私を振り返ったのです。地面は乾ききり葉っぱはだらんと垂れ下がったまま。あれれ、お野菜たちは地面の中へ伸びている根っこを使ってお水を吸い上げて自分の中へとり込むの。だからお水は根元の地面にあげなくっちゃあ、野菜がお水を飲めないことになるのよ、と私が申しましたら皆きょとんとして私を見つめ、次に野菜を見つめ、考え込んでしまいました。
お花の随筆 庭作業や花のデザイン関係の仕事で枝もののごみがたくさん出るような折には、それを袋詰めにする際、ごみを集めに来た作業員の方が怪我をしないよう出来るだけ鋭い部分や棘は落とし、持ちやすいよう小さくまとめることに配慮します。大きなイベント用の生花や材料を輸送の為にテープやひもでまとめる作業をする折には、それをほどく方々が困らぬよう、手がかりを残す心配りをします。ひもなら固結びにせず蝶結びや片蝶結びにしてほどき易くして差し上げる。鋏などの道具を使わずとも作業を続ける事が出来るか、パッキングする側の方が梱包を解く側のことを配慮してくださっているか否かで、作業をする側の者のスピードは段違いとなってきます。特にストレリチア・レギネ(極楽鳥花)の梱包、テープの端はつまみ易いように折り返してあるか。テープの2周目は一周目にぴったり重ねずわざとずらしてあるか。見た目の美しさだけを気にされた梱包で来てしまえば、急ぎ荷解きをする側でお花の首はもげてしまいます。時に極楽鳥花の花言葉は「輝かしい未来」。次の人が困らない仕事をするよう心がければ、豊かな未来へと繋がります。根元、スタート地点、つまり根本からの知識は生きてゆく術。
 人の動きも物の流れも再び躊躇なくまわり始めた社会では、次の人が困らない仕事をするために自分がどこまで頑張れるか、が懸案事項。次の世代へ、次世代の世界へ、自分が残してゆけることを考えた時、まだまだ前の世代から教えて頂かなくてはならぬこと、もっともっと次の世代へ教えてゆかねばならぬことが残されております。目を逸らすことなく現実と向き合い、謙虚に急がずたゆみなく、あゆみ続けてまいりましょう。

お花の随筆:心地よい住処
(JNC 2022年7月号掲載)

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 名古屋市の東山動物園で、この令和4年の6月26日にアジアゾウの赤ちゃんが誕生したとの明るいニュースに心がときめきました。体重130キロ、体長130センチ。両親は2007年にスリランカから来園したカップルで、2013年には長女の「さくら」ちゃんが生まれているそうです。スリランカ。はるばる異国からどんな運命を経てどんな気持ちで、どんな面持ちで日本の土を踏んだのか。不安だったでしょう、心細かったでしょう。平均気温ひとつとりましても母国のものとは違う環境にいきなり置かれ、未知の天地で二頭励まし合

いながら生きて来ること15年。また新たに家族が増えたのね、と思いを巡らせますと、ひとりじゃなくって良かったね、がんばったね。

お誕生心からおめでとう、と言葉をかけ労ってあげたい気持ちで胸いっぱいになりました。

 暦の上で正式な夏が始まる週、私は久しぶりに大西洋沿岸を訪れる機会に恵まれました。大切な用事があったのですが、それにも勝りミシガンとは気候の異なるところの植物たちにじかに触れることのできる希少なチャンスと心躍らせました。飛行機を降りた瞬間から肌を包む湿気。強い太陽の光の下で伸び伸び育った高齢の大木の、枝葉の数々から所狭しとぶら下がり潮風になびくスパニッシュ・モス。ああ、さすが南部。アメリカは本当に広くて大きい。ミシガンではまずお目にかかれない天然の色鮮やかで大ぶりな花々。木々の緑の、何層にもわたる豊かで奥深い色彩。副交感神経が刺激され心身が温かくほぐされてゆきました。瞼に浮かぶのはプランテーションの御屋敷の大きなフロントポーチで揺り椅子に腰かけ寛ぐお帽子を被った貴婦人。ゆったりとした優しい南部なまりの英語で礼儀正しく語りかけてくださる穏やかな心休まる光景。それは、出勤時間や雑事に秒刻みに追い立てられ目を回しながら車を運転し、携帯電話やソーシャルメディアに刻々翻弄される己の日常とは別世界の安らぎ。人間が人間らしく自分の持ち場で集中し一途に頑張ることのできた「古き良き時代」へご褒美とし

てタイムスリップできたような。脳へ酸素を充分行き渡らせしばしの骨休めを致しました。昔、良家の御令嬢や御婦人が足首を見せることはみだらでだらしがないとされていた頃、きちんとロングスカートで足首が隠されているかどうか、お出かけ前の着装の再確認をする角度に設定された鏡が、各家庭の玄

関扉の内側近くに置かれていたといいます。規律や風紀はそれぞれの心構えや美しく生きる姿勢の寄り処として、在り続けて欲しいと願うところです。

 待ちに待ったお花のシーズンが遂に開幕した春、オダマキ、シャクヤク、アルケミラモリス、ブリーディングハートと次々違う色や質感に心癒されたのも束の間、今年は一気に大変な猛暑と日照りに見舞われたため、植えたばかりの地植えの花々が可哀想な姿になってしまい、幾度か掘り上げレスキューせねばなりませんでした。そんな中私が楽しみを見出しましたのは、過去の植木鉢の土をそのまま表面に使い一体何が生えてくるのか観察すること。干からびていた土が水を含むと、色を気に入りよく咲かせていた松葉牡丹、ビオラ、アリッサム、ペチュニアなどからこぼれていた種が発芽するので、成長を待てば、また同じ花を届けてくれるのです。雑草と勘違いして途中で抜いてしまわないよう気を付けねばなりませんが、もともと自分が好きで手元で大事にした花の色の数々ですから、新たに買い足すものとも自然と調和が叶い、うまい具合に陰影がブレンドされより味わいのある風景が描かれてゆくのです。また、バーベナやパンジーなど茎を切り水や土に挿しておくだけで根の出るものも自分で増やせます。燃料費の高騰とインフレでお花の値段もわじわじわ吊り上がっておりますから、工夫に知恵を絞ります。

 今年は食糧難に備えて観るだけの花より野菜を育てると仰った方があり、考えさせられました。今まで先人らの苦労により格段に豊かな生活を日々当たり前として享受してきた我々現代人たちは、迫り来る危機について十分な

備えがあるでしょうか。喉が渇いた時には綺麗な飲み水が蛇口をひねるだけでふんだんに溢れ出る。使いたい時には清潔な水洗トイレがすぐそばに専用で在る。使い捨てのぺーパータオルは子供らが幾らでも出し屑籠に押し込み遊べる程供給されている。そんな住み慣れた世界が、ある時当たり前でなくなるかもしれない。その時の驚きと戸惑いはいかばかりか。ああ、いけない。また考え過ぎて白髪が増えてしまう。目を閉じ深呼吸をして鳥の声をききなが

ら、美しく心安らぐお花たちの命の世話に尊く限りある時間をつむぎ、過ごしてまいりましょう。

お花の随筆:キャビン・フィーバー 
(JNC 2022年5月号掲載)

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長い冬の間中どうしているかと毎日気がかりで、雪の上に点々と残された足跡や庭の隅で掻き乱された軽石を見やる度、ああ、我が家の近くで生まれ育ってきたウサギ達はまだ達者でおるのだ、と安堵に胸を撫で下ろしておりました。日々の食べ物に困っているであろうかと足跡の残る辺りや時折姿が見え隠れしているところに、小さめに折った色良い人参や、キャベツのみどりで美味しそうなところを置いてあげ、それが綺麗になくなっていることにいちいち感激することの繰り返し。片手に乗るお手玉かおはぎほどの大きさであった愛くるしい子ウサギ達がいつのまにかぴょんぴょんとすばしこく跳ね駆け回る若ウサギとなり、ある日私が普段は使わない勝手口のほうの扉を突然開けましたら、そこに鎮座していたのは大きな漬物石、かと目を見張るほどにまで成長した、よく肥えた貫禄ある大ウサギでした。

春は名のみの風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど

時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず

 ここアメリカはミシガン州に長く暮らすようになりまして、毎年、この早春の時季が人間としての一番の根気を試されているような、「忍」の一文字で耐え忍ぶ勝負どころの気が致します。突然暖かくなりコートを脱ぎ捨て散歩を楽しみ、そのまま陽気にほだされ家の中で越冬させた鉢植えなどをうっかり「さあ、春よ。」と外へ出してしまうと次の朝には氷点下へと逆戻り。小さな子供たちに日本の春の歌などおしえ始めた矢先に外を見やれば一面の雪景色でうらめしや。ひたすら本当の春の訪れを待ち侘びる心に、まあだだよ、と乱暴に残酷に毎度扉を閉められてしまうのが毎年恒例の気候のいたずら。ウィンター・ブルーとでも申しますのか、しばしば触れられるところのキャビン・フィーバー。冬の暗く狭い室内に閉じ込められ続けることにより発症するさまざまな人の程合いの不具合。それを癒すには、良い書物や綺麗なお花、身近な観葉植物などの力添えが不可欠。神秘なる力の効果にあやかり、のんびり自他を励まして参りましょう。

春高楼の 花の宴 めぐる盃 影さして

千代の松が枝 わけいでし むかしの光 いまいずこ

 遂にクロッカス、水仙、チューリップ、ヒヤシンスと外にお花が次々と開き始め、マグノリアや枝垂桜も咲き始めた景色爽やかなこの季節。在宅でのお花見にと、好みのワインを少々グラスに注ぎ薄着で庭に降り立ったものの、風の冷たさにまた屋内へ。そうして普段はあまり見ぬテレビなどつけてみましたら、懐かしいアメリカンクラシックが。いえ、18年程前にアメリカンティーンエイジャーに「クラシックというのは3年も前のもののことを言うのよ」とレクチャーされてしまい思わず笑ってしまいましたから、化石のビンテージ作品とでも申しましょうか、往年の珠玉の名作「大草原の小さな家」が。私が小さい頃アメリカという未知の国と文化へ色々な憧れを抱き日本で観たものは、すべて日本語版へ吹き替えされていたものでしたので、本当の俳優さんたちの生の声や息遣い、そして実際に使われていた英語の言葉がどんな表現であったのかなど、当時の私には知る由もないことでした。しかしお話の温かさ、人のぬくもり、子供心にも共感出来る尊い価値観といったものは、洋の東西の違いを感じさせることなくまっすぐ心に響き、素直に受け入れられ、魅了されるものでした。

 外出先で接した町の人の言葉に珍しく憤慨したいつも美しい母親のキャロルが「あの人は私をこんな言葉で呼んだのよ!」と父にこぼすのを聞いたローラ。「それは何?」と母に聞き返せばすかさず父は横からローラに「それはあなたのお母さんは絶対に使わない言葉。」とぴしりと言い、会話を終わらせる。こんな素敵な教育の場面も心に刻まれています。普段から評判の気分屋で時に意地悪で、誰もが閉口するような大人や子供がぎゃふんと言わされるエピソードにはドキドキしました。しかしミセスオルソンや子供のネリー、たとえそれが誰であっても、ポイズン・アイビーの葉を千切りそれが綺麗と喜びほおずりしているような方がいたら、それは触ったら大変、と教えてあげねばなりません。オルソン家とインガルス家がキャンプへ出かけた珍しい回のストーリーがそれでした。休日の間にいろいろな種類の植物の葉を集めてブックレットを作り、休み明けに先生に提出するというコンテストの課題を渡された子供たちが競い合う微笑ましいエピソードだったのですが、普段から外遊びをし植物をよく知る子らと、普段全く外で遊ばない子らが手を伸ばして集めて来るものが違ったのです。これは触ったら肌がかぶれ、こっちはとげとげで痛い。それは実際に体験しなければ知りえない大切な知恵。アメリカ建国開拓時代を懸命に生きた人々の家族愛、コミュニティ内での共同生活の苦労や生活の知恵、支え合いの素晴らしさ、その舞台となった自然の大きさ、美しさ。永遠に色褪せることの無いノスタルジアに惹き込まれ、ひととき、胸もきゅんとなりました。

 さあ、季節は遅い本当の春から一気に初夏へ。緑と水の豊かなミシガンの新鮮な空気を胸に、冬の間に蓄えた活力で生活の知恵とサバイバルスキルを磨いてゆきましょう。

お花の随筆:雪解け道
(JNC 2022年3月号掲載)

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 凍てつくような日々が続くのも、あと少し。霜柱を靴底に砕く音を聞きながら周囲と自身を励まし、開花の便りと優しくあたたかな春の日差しを待ち侘びております。騒々しい人類関係の世界ニュースをしばし脇へ置きます事と致しますれば、夕刻の闇の訪れが確実に遅くなっている事実に気付いて微妙で繊細な風の変化を肌で感じております。

 あと何年か経ちもう少し諸々の情勢が安定し、且つまとまった休暇がとれるようになりましたら、1988年にGreat Lakes Commission (Ann Arbor, MI) が打ち立てたという風光明媚なサークルツアールートの、五大湖に境を接する全8州(と、カナダのオンタリオ州)を通り抜ける6500マイル走破を夢見ております。全米の表流水の90%の源である “des Grands Lacs” の最寄りにご縁あり居を構えることになったのですから、その荘厳な自然の厳しさと美を、より近くで感じ鑑賞する旅に出てみたいと思っております。

 五大湖はじめ、地球の尊い財産である名所や希少な生物の数々が、深刻な環境汚染や心無い生息地破壊により深刻な危機を迎えていることは今更私が申し上げるまでもございませんが、私の身近にある話題で、アメリカのワシントン州からカナダにかけての西海岸で環境汚染に起因する鉛中毒により飛べなくなった白鳥が、なすすべもなく無力のまま死に至る事例が確認され続けているというものがあり、その白鳥らを何とか救うことが出来ないかと知人が海岸線をボランティアとして奔走し、尽力し続けております。

 現実が落とす暗い影につい沈みがちな心を奮い立たせるため、レンギョウの枝を買ってまいりました。厳しく暗く長い冬が明けた頃に目に飛び込んで来る黄金色の花。これを生垣に仕立ててある御宅の前を私はのんびり散歩するのを毎春の楽しみに致しておりまして、今年は一足早く同じ景色を見たくなったのです。もう40年近く桐箱の中に入ったままであった染付の壺を出してきて固い蕾の付いたその枝を投げ入れ、外は雪と氷に覆われた如月の半ばに、それがゆっくりと一週間をかけ開花してゆく様を愛でておりました。レンギョウの英名はイギリスの植物学者名に因みForsythia、一般名はGolden Bells 又はYellow Bells で親しまれており御好みの方も多いかと存じます。「希望」の花言葉を持ち、ここミシガンではデッキの上に鉢で越冬させても春に必ず開花してくれる、寒さに強く丈夫な植物です。子どもに観察画など描かせたらきっとそれぞれの感性で独特の良い絵を描いてくれることでしょう。写真では決して残ることの無い、絵画の人間味溢れるあたたかさを私は好みます。切り花として長持ちする Limonium の可憐な小花や Moluccella (Bells of Ireland) の新緑色と取り合わせて洋風の印象に生けたり、他に春花の球根など室内で水栽培しその香りを楽しむのもこの季節の楽しみのひとつです。

 久しぶりに松谷みよ子氏の赤ちゃん向けの絵本「のせて のせて」に再会するチャンスに恵まれました。まこちゃんの自動車にのせてほしいうさぎ、くま、ねずみの一家、みんなをのせてまこちゃんのじどうしゃは突然真っ暗なトンネルに入ってしまいます。でも最後のページでは「でた!おひさまだ!さあ いくぞ びゅーん」で、挿絵のまこちゃんと動物達はいっせいに笑顔で万歳をしている姿が載っています。屋内で開き始めた蘭や鉢植えのお花たちにも気持ちを支えられ、無駄を極力抑える暮らしや身の回りに配慮する考え方を次世代の子供たちに伝え、美しい地球へ恩返しせんと努めております。

お花の随筆:愛すべき小旅行 
(JNC 2022年1月号掲載)

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世界を本当に動かしているのは一体誰なのか。仕掛けられ脅され踊らされ、AIによる容赦ない監視も世界の多様な社会的背景から起こる制約や圧迫も当たり前となり、否応なく「仕方なし」と片付けねば何も前へ進めることが出来ないよう、粘り勝ちされてしまった感がございます。あらゆる方角から日々投げかけられる大きな釣り針や身に降りかかる失敬の数々に辟易しながら薄々勘付き始めてはいるものの、あまりのスケールの大きさと根の深さに声も上げられずおります。人々の不安に乗じて屁理屈を振りかざし、みだりに私腹を肥やす者。己の視野の限りに気づかずこれぞ正義とよそ様の思慮や文化、歴史的背景を平気で踏みにじる者。辻褄の合わぬことを指摘されれば他に責任を転嫁する為翻り、恥も道徳も無知も知らず、ただ悪戯に大衆を扇動せんとする者たち。増えすぎた人類の困った風潮と愚かな波の寄せ返しに揉まれながら、一般人は身の回りと自分自身の平和を守る事だけで精一杯。大きな犠牲がその都度払われながら世界は回ってゆきます。これが先人の描いた豊かな人類の未来なのだとすれば、もう取り返しのつかぬ地点へ来てしまったのか。それでも一縷の望みに灯を見出し冷静に世を見据え、自分なりに現実を社会科学し哲学するべく、魂の栄養と精神の健康の為に今自分に何かしてあげられることはないかと、年末は気分転換の小旅行へ出かける事に致しました。

 全くの思い付きで目指した先は州内グランドラピッズにあるフレデリックマイヤーガーデンズ。グランドラピッズはビッグ・ラピッズの愛称で親しまれ、ジェラルド・フォード大統領はじめ多くのレジェンドを輩出した土地であり、その魅力ある基盤は、財力と人々の支持により大切に守られ続けています。例年秋に開催される”ArtPrize“では、多額の賞金にも後押しされた創意工夫のアートのお祭り騒ぎに、展示を鑑賞して歩く幅広い年齢層の人々と屋内外の芸術作品が一体となりアートミュージアムと化す、活力ある大都市。その東寄りに位置し”ALWAYS GROWING. ALWAYS BEAUTIFUL. ALWAYS NEW.“との魅惑の三拍子を謳うFrederik Meijer Gardens & Sculpture Parkは、年362日オープンしています。一人自由奔放に思いを巡らせながら運転を続ければ、雑多な思考が整理される頃には無理なく到着できるはず。鹿を撥ねませんように、と祈りながら水のボトル2本だけを持って、家の者には「文化に触れに行ってきます」とだけ残して、発ちました。

 案内の地図だけで立派な小冊子が出来るほどの広さのそこで、何をどこまで鑑賞するかは訪れた方ご本人次第。植物と光に囲まれた温かで美しい建物内部では、家族連れや年配のご夫婦が行き交っておりました。世界各地それぞれの装飾と解説付きの美しいクリスマスツリーの展示、日本の門松の紹介。立派なガラス張りの温室の中にはミニレールに電車も走り、ボランティアの方々が展示のガイドを務めていました。植物と芸術、その興味深いつながりとそれが日々の暮らしに齎してくれるもの、その理解とケアの大切さをも説かれ、それをこの場所を去った後もそれぞれが少しずつ育んで行けるよう解説を加え励ましていらっしゃいました。来訪者がそれぞれのペースで散策を楽しめる屋外の広大な彫刻公園、日本庭園、ミシガンの農場ガーデン、チルドレンズガーデンなどを舞台に、私も豊かな情報とアートとの相互理解のチャンスを与えられ、随所での新発見に微笑んでおりました。夏の雰囲気とは別物のこの季節、落葉樹は皆丸坊主ですので先が見やすく彫刻やアート作品のスポットは容易で、寒さ対策と安全な歩きやすい靴の備えさえあれば鑑賞は無理なしと存じました。まだ諦めちゃいけない、人類はそう捨てたもんじゃない、あるところにはある。未来への気持ちをそう明るく持ち直せ、質の高い人間教育の持続と、こういった施設の存続の大切さをも併せて、考えさせられました。

 昔の親たちは子供たちにツリーを見せる前の最後の飾りつけとして、ピクルスを吊るしたそうです。緑の枝の中に隠れてしまうそのオーナメントを見つけた子供は「観察力に優れている」ことを褒められ、その意表を突く発見にご褒美としておまけのプレゼントが与えられたとか。こんな楽しい注意力の導き方もあるのですね。英国、アメリカ、ヨーロッパに400もの庭園を造ったGertrude Jekyll (1843-1932) は、”A garden is a grand teacher.  It teaches patience and careful watchfulness; it teaches industry and thrift; above all, it teaches entire trust.” という言葉を残しております。芸術や数々の植物が教えてくれることは静かで力強くタイムレスな真実であり、その調和をデザインするには真実の声をきき心を真摯に紡がねばなりません。自然の豊かな表現力にふれることで、自分を含めた身勝手な人間たちの無駄の多すぎる暮らしや工夫の足りなさが、少しでも改善されるよう祈ります。歴史に学び芸術にふれ草花を育てながら、次の世代へ何を残してあげられるのかを悩み、考えます。激動する世界に絶望と無力感で隅へ押しやられそうな時には、美しいミシガンの魅力の再発見に心癒され創造の楽しさに心躍らせ参ります。慶春。  

お花の随筆:黄金の稲穂の海を夢見て 
(JNC 2021年11月号掲載)

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「生姜が無くっちゃぁショウガ、ねえ。」で呟いた料理人の背後で私は思わずけたたましい笑い声を上げました。俗世間に言う「おやじギャグ」というものが、私のツボには恐らく、よそ様の受けるおよそ5倍のインパクトで入ってしまうらしきことが、最近よくわかってまいりました。その生姜、湿度の高い日本での生活とは異なりこの辺の気候ではすぐに乾燥しミイラになってしまいますので、すりおろしラップに小分けし冷凍保存など致しております。秋も終わりゆく今頃は紫蘇、三つ葉、ニラ、ネギなどそれまで野外で強い太陽を浴び栄養満点に育ってきた新鮮な野菜たちにしばしの別れを告げる季節でもあり、出来れば冬の間も楽しめるようにと、色々の工夫を試しております。

 この夏のある日、車庫のシャッターを開けましたらすぐ足元のコンクリートに大きな蝉がじっとしておりました。あれれ、生きているのか死んでいるのか、ともかくこんな暑い処にいないでお外へ、と手でつかむ勇気がなかったものですから紙を折りたたみ、蝉の足の下へ滑り込ませようと一所懸命になっていたところ、気づけば蝉が、私がその紙を掴んでいる親指にしっかりと掴まり始めたではないですか。私は、普段虫に話しかけたり距離をおいて観察する分には平気で頓着しないのですが、実は、苦手なのです。昆虫にしっかり六肢ですがられたのには「ぎ、や、あ、あ、おおうう。」言葉にならない低い唸り声を絞り出し全身にオンブレで鳥肌が立って行くのを感じながら、がまん、がまん、蝉は何年も地中で暮らしやっと地上に出て来ても、地球を楽しめるのはたった2週間程と子供の時図鑑で読んだではないか、私がここでえこの子を払いのけ吹っ飛ばしてしまって頭でもぽろんと取れてしまったら、蝉のお母様に何と言って謝れば良いのか、とにかく、がまん。目をつむり歯を食いしばり全身を凍り付かせたまま「嚙まないでね」と蝉に囁き、とにかく私の指を放してと願いながらあっちの茂みにピタ、こっちのお花にピタ、とくっつけてみましたが蝉は動きません。そうか、蝉なら木の幹じゃないとと閃き古いカバノキの日陰まで走ってゆき、そこへ手をぐっと押し付けてみました。すると蝉はゆっくり、ゆっくり、確かな足取りで即刻木の幹へと移動し始めたのです。なんだ、ちゃっかり者だ。こいつ白目は無いけどしっかり周囲が見えてるじゃないか。蝉と自分との意外で当たり前な共通点を見つけとても嬉しくなり、見送りました。

 空気は冷え、風が強まり、気持ちもきりり引き締まる美しい秋。星座の綺麗な厳冬を目前に色々なことに思いめぐらせるこの季節の庭仕事の最後の楽しみは、来年の春夏のお花を植えつけること。土を耕しバランスの取れた弱い栄養をき込み、枯葉を利用したマルチやバーラップでミシガンの寒さ対策を万全に施します。店ではもう半額以下にされて処分目前の多年草や薔薇の鉢植えの数々は、霜が降り本格的な冬が到来するまでに植えつければ大地に根を張り成長し続けてくれますので、大いに穴掘りを楽しみます。グローバルパンデミックの間に、不思議なことにお気に入りの服は皆縮んでしまったようですので、気合を入れ運動しませんと。来春向けの球根の植えつけで注意せねばなりませんのは、地元の近くの店に出回っているからといって、植えれば必ず育つわけでは決してない、という大きな落とし穴があることです。USDA (United States Department of Agriculture) によるゾーンPlant Hardiness Zone Map (PHZM)の注意書きに必ず目を通してから、お買い上げなさってください。アメリカは東西にも南北にも桁違いに大きな国ですので、ご自分のお住まいのあたりの気候風土に適したものを、またミシガンの寒さにも強いものを、特に慎重に選ばねばなりません。私も一度にも、ラナンキュラスの球根を見つけてあら珍しい、ミシガンでも地植えに出来るのね、と勘違いして衝動買いし、帰宅後よくパッケージを読んでみますと「Product of Israel」とあり、ミシガンの寒さではとてもとても、生き残るはずの無いものでした。仕方なく屋内で植木鉢に植え付けましたものは発芽はしたものの元気は悪く、結局腐らせてしまいました。過剰な商業主義を恨めしく思いました。寒暖、日当たり、風通し、水の量、水はけ具合、土の質、栄養の有無、そして根気と運。すべてが完璧に調和されて初めて奇跡は起こります。

 最近気になりだしたのが、自分に幸せでない人間が増えているのではないだろうかと。自分に不幸であれば他人を思い遣る気持ちなど生まれるはずもなく、ごみの捨て方ひとつとりましても地球上には悲しいことに、身勝手な人間が増えすぎたのではないかと。自分さえ便利で都合が良ければ、たとえ世界規模で見ても宇宙規模で考えても決して宜しくないとわかることにも平気で目をつむりやり過ごしてしまう。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」日本にゆかりのある方々は、たとえ地球のどこにお住まいであろうとも、この「詠み人知らず」のの美しき言葉を、忘れるべきでないと私は考えます。往々にして横柄で乱暴で威圧的になりがちな自分にもしも、幸運にも気づくチャンスを遅かれ早かれ与えられたのなら、心に手を置き目をつむり、今の自分は礼儀正しく親切であるのか、自分を幸せに出来ているか、先見性と洞察力を持ち過ごせているか尋ね見つめ直すことが出来れば、周囲を思いやることが出来るようになるのでは、と。

お花の随筆:天敵 
(JNC 2021年9月号掲載)

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 高温多湿の続く週に、私は閉店間際の小さなスーパーマーケットに立ち寄りました。小さい店舗ながらもセンスの良い生花コーナーの充実しているところで、ただ一目眺める為だけにも、四季を通じてその品揃えを楽しみに、好んできた処でした。その日も、よそでの出来合いの花束では決して見ることの無いお花が小ぶりのバケツに分けられ足元の高さに並んでいたので、もっとよく見ようと軽くひとつのバケツを持ち上げましたら拍子抜けするほど軽く、水が入っていませんでした。担当の方が後で水を入れようとしていてうっかり忘れたのかしら、このまま閉店されてしまったらと心配になり、私がお隣のバケツから自分で半分水を分けてあげようかと覗きましたが、隣のバケツも下2センチほどの水しか入っておらず、そのお隣も空でした。余計な事とは思いつつ、傍で別な作業をしていた若い女性に声をかけてしまいました。「お忙しい時間にごめんなさいね、でもここに水が入ってないからお花が心配で。」その方はまず私を見つめ、次に指差されたバケツを覗き、そして周囲を見渡すと、隣のバケツをいきなり持ち上げその少ない水をただ空だったバケツの方にザッと全部注ぎ、コン!と音を立てバケツを床に置くと、目を丸くした私には目もくれずさっさとまたご自分の作業に戻ってしまいました。呆気にとられ、頭ではこれを「アメリカらしい」と片付け笑って流せば良いのだろうなと考えつつも、私の余計な一言の為に入れ替わりに空にされてしまったバケツの方には綺麗なミニ薔薇が入っていたものですから、あれは一晩置かれ売り物にならなくなり捨てられてしまったか、と長く引きずり心を痛めることになりました。店舗側にしてみれば「迅速なカスタマーサービス」と二重丸を付けられる対応であったのでしょうか。

 心の伴わない所作に遭遇してしまうのは残念ながら耳新しい事ではなく、そもそも赤の他人に過剰に自分と同じ心づもりを期待しなければよいことなのです。けれど、小さな事にも心を配ってくれる人が身近に増えてくれたら、ほんの少しでも、より住みやすい世になってくれるのではないかと、淡く脆い期待を抱き続けてしまうのです。以前歴史ある驕奢なレストランで、綺麗に盛られたディナープレートのトレイを上手に肩に担ぎ身なりもきちんとされていた給仕の女性が、カランと音を立てて落としてしまった銀のフォークを、立ち止まりかがんで拾い上げるのかと思いきや、いきなり足を振り上げ「カーン!」と音を立て傍の重厚な古い木の家具の下へ勢いよく蹴り入れそのまま歩いて行ってしまい、それを食事しながら目の当たりにしてしまった周囲の客らは苦笑するしかありませんでした。その行動には一瞬の迷いも見られませんでしたから、それが当たり前の生き方をなさって来た方だったのでしょう。がっかり、さみしい、でもどうしようもなく可笑しい。困ったな、これじゃあいけない筈だけれども。しかしとにかく忙しい現代のテンポの観点からプライオリティーとタイムマネジメントの天秤にかけられたら、あの判断は見事だったのか。あのフォークは何年も後にレストランが解体されるまで出てこないだろうなあ。背後で静かに流れる室内管弦楽が哀しい余韻を残しました。

 夏の終わりを嫌でも意識するこの季節、そばで必死に生きる野生の生き物たちから多くの事を考えさせられ学ばせてもらっております。遅生まれのカーディナルの雛が両親の愛情を一身に受け8月の終わりの暑いさなかでもクラブアップルの低い木の枝を伝って移動の身のこなしの練習をしています。車庫の屋根の上からお父さんが、近くのサービスベリーの枝からお母さんが、それぞれに短く甲高い声で雛に声をかけながら近寄りまた遠ざかり、周囲を鋭く見渡しながら子育てを頑張り、雛はして良いことと悪いことひとつひとつを実践で教わっています。伸び放題の庭の木々の剪定も、それを見てはもう少しの我慢と先送りしております。ハチドリは、自分が既にどの花に嘴を突っ込んだかちゃんと覚えているそうです。人類の悪い例として私のように忘れ、間違い、無駄だらけの時間をよろよろの手探りで歩み、また戻っては躓き転び、失敗を何度も繰り返すうち時間切れのゲームオーバーを迎えそうな生き物とはわけが違うようです。ハチドリの好む鮮やかな色合いの夏の花に肥料と水を遣り、せっせと咲かせては訪れを待ちます。

 「ホーオ、へー!」甲高い声。鳥の鳴き声辞典があれば良いのにと私は子供の頃から思っておりました。オノマトペア。デジタル音声の技術にたけた今ならば、同じ興味を持って下さる方がいれば無理なく実現可能でしょう。世界の人間の言語のみならず野生の生き物の言葉の翻訳や同時通訳もなされるようになったら、平和共存も夢でなくなり誤解の少ない世界になりうるか。暗黙で絶対のルールとして自然界の生き物たちは天敵ともバランスをとりながら上手に共存していたはずでした。どこぞの人間社会の、反対意見は全く聞かず短絡的思考や感情に訴え、針の先ほどの大きさの例をあたかも巨大な山のごときイメージにすり替えながら押し出し、勢いだけで異なる意見や思想を封じ込め抹殺せんとする暗い動きには大きな危険を感じ、将来を憂います。往年の子供向けクラシックフィルム、アカデミー賞すら受賞したトムとジェリーのエピソードのハラハラで終始笑える展開の数々を思い出しながら、敵を知り敵を生かし、互いの長所短所をよく理解して上手に補いながら楽しく共存して生きてゆく術を冷静に考察致しております。

お花の随筆:水無月の夜桜 
(JNC 2021年7月号掲載)

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初夏の早朝、外で鉢植えに水遣りをしておりましたら私の膝の高さ50センチの距離にハチドリが現れました。鮮やかなピンクのバーベナの花の中心ひとつひとつに順番に忙しく嘴を入

れてゆきます。夢中で私の存在に気づきもしません。力強く羽ばたき続ける美しいブルーグリーンの背中には多めに皺が寄っています。そうか、お前もコロナ太りか。相当な運動量で心拍数も上がりましょう。長い長い冬を越し、やっと暖かになった春先にどんどん出荷されてくる綺麗なお花に気分もほだされ、ついあれもこれもと買い込んでしまって気付けば鉢植えの数は大変なもの。真夏の水遣りの大変さに軽い後悔の念をおぼえることは毎年毎度のルーティーン。されど、今年も学習しませんでした。

 今年は裏庭のキイチゴが豊作で、鳥や小動物が毎日競って熟れた実に舌鼓を打っております。鳥の糞から種が運ばれあちこちから芽が出てコントロールは大変ですが、それでも生き物が好んで毎日我が家を訪れてくれる嬉しさに、体力の続く限り時間の許す限り草木の統制に励みます。庭で孵った鳥の雛たちがおぼつかない伝い歩きから飛ぶ練習をし始めるため、下の方の枝は極力残します。産毛のヨタヨタ歩きの頃からの成長を見守り続けその安全と、親鳥の賢い教育ぶりや忍耐力をつぶさに観察し、喜び感心致しております。危険を察せず土の上で呑気に遊ぶ子には、親は口いっぱいにミミズを銜えそれをちらつかせながら少しずつ高い枝へ雛を誘導し、子が自分の足で枝を掴み横へ伝って登り、安全な高さのところで寛げるよう上手に教えています。雨上がりにエアコンの室外機カバーの上にできた水溜りでいつまでもはしゃいで遊んでいる子には、溺れていないか危険に面していないか冷や冷やで、男親も女親も代る代る飛んで来ては様子見をしあっという間に日は暮れます。親の便利で「今日は5時間ゲームしていなさいね」などと子らに言い目を離す鳥は、私はまだ見たことがありません。2秒の油断で命を奪われるかもしれない生きてゆく真剣勝負のために、親は片時も目を離さず、生き延びるすべを実践で、子を教育し続けます。子を守り導き、繰り返し繰り返し、知恵を伝授します。

 ある日私が大型スーパーのダブルドアから入店した日没前、その2枚目の扉が開く前、足下の靴ふきマットの真ん中で小鳥の雛が途方に暮れているのを見つけました。辺りに人は見当たりませんでした。どうしましょう、でも放っておいたら次の人がぺっしゃんこに踏んでしまう。とにかく拾い上げ外に出たものの、周りはアスファルトの駐車場。いったいどこから来て何故こんなところに迷い込んだのか謎でした。雛は黙り込んだままけだるそうに綺麗な黒い瞳を半開きにしてただ私を見つめ返しておりました。死んじゃうのかなあ、声もあげないし疲れているのだろうなあ。車のカップホルダーの一コマにそうっと鎮座頂き、買い物のことはすっかり忘れ家に連れて帰りました。小さめの箱を用意し、遠い昔に母がまだ羽も生え揃わぬインコの雛を育てた時にしていたことを思い出しながら、白米を炊くときに混ぜる雑穀パックをアワ玉餌としてお湯を注ぎ、それをふやかし冷まし、竹べらが無いのでストローの先を丸くハサミで切りそれを使って雛の口元に持って行きました。すると、喉が渇いていたのか大変な勢いで飲み込み始めました。持って行くたび綺麗にたいらげ、用意した分がほとんどなくなる頃に雛は箱の中ですやすや眠ってしまいました。全身から生きようとする力が伝わってまいりました。

 一夜明け日が昇り、私はあてもなくその箱を日向に出し一緒に座っておりました。すると雛が突然、耳もつんざくような甲高い声で力いっぱい鳴き始めたのです。そうすること15分。なんと、雌雄の鳥が突如すぐ頭上の雨樋のふちに現れ、私と箱の雛を覗き込みこちらも鋭い声で鳴き始めました。呆気にとられている私を残し、雛はガタン、ゴトンとぎこちない動きで箱から飛び出し、芝生へと躍り出ました。二羽の鳥に誘導されながらあっという間に隣の芝生へ、歩道を超え街路樹へ、跳ねながら飛びながら嬉しそうに、本当に嬉しそうに、通りを曲がり消えてゆきました。あれは、あの子の親だったのでしょうか、それとも自分の子を失い養子を迎えたかった鳥たちだったか。距離にして約2マイル、車で約7分のところのマーケットからでしたが、もしかしたら私の車の後を追いずっと飛んで来て、近くで眠れぬ夜を過ごしていたのかと思うと、子を思う親の想い、若い命を助ける周りの力、自分が生長できた奇跡に、感謝で胸一杯となります。

 子の成長と親の白髪は正比例。無心無償の愛に支えられ、無邪気な子どももどんどん大きくなります。立派な体格で色々自分でできるようになりましても甘え、美味しそうなキイチゴをねだり親に付いて回っています。時にまるで一人で大きくなったような顔で胸を張っていても、頭に寝ぐせのような産毛と幼さの面影を残しながら興味本位の不用意さで人に近づき、手元で何をしているのか伺っているようでは、まだまだ。多雨の続いた週の深夜、私は白い紫陽花の中に上品で静かな光の点滅をみとめ、不思議に思い外へ出ますと、それは花の中にとまっていた蛍でした。静寂の中幻想的な即興曲を音なく奏でておりました。月の美しい別の夜には、空き家となった鳥の巣のかかる樺の木に何故、6月に雪が積もっているのかと目をこすりよく眺めてみますと、駆除せず根元から這わせていた野薔薇が生育し、初めて見事な白い花が満開したところでございました。

お花の随筆:ひげ
(JNC 2021年5月号掲載)

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通りすがりに鏡を見やり、あれ?と不思議に思い近づいて、よくよく顔を眺めてみました。髭が伸びている。記憶違いでない限り、私は生物学的に男ではなかったはず。ああ、もしやこれは湿気のいたずらなのかしら。日常のかなりの時間をマスクをして行動するようになってから、顔には湿気が籠り眼鏡は曇り。肌が乾燥や大気汚染から保護されるようになったのは結構な事、しかし常時ぬくぬくの温度に呼気の湿気が加わり、育毛に優れた環境が整ってしまったらしい。昔所用で赤道直下の南太平洋の国々を訪れた時にも似たような事が起こりました。極寒の真冬のミシガンから摂氏での気温差実に約50度以上の、非常に湿度の高い暑いところへ一気に飛んでしまった為、当時一番印象に残った事は自分の爪と髪の伸びた速さ。にゅるにゅるとまるでギリシャ神話のケールとメデューサが合体したかのような我が姿の早変わりに、心底驚き息を呑みました。因みに次に印象に残った事は、あちらに生えていた木々一本一本の大きさ。ビル一つ分ずつは優にありしかも電線や住宅など空を遮るものは何もない恵まれた所で育つ木々達は、有り余る水分と熱い太陽を享受しながら、本来の姿で実に伸び伸び育っていました。

 生き物の生命力というものは細部にわたりどうしてしたたかで侮れず、ぼりりと半分ウサギに齧られてしまったチューリップの蕾も立派に成長し、残った部分だけでなんとか形になる花をも咲かせます。春の花々が開花してしまってから一気に氷点下まで気温の落ちた日など、皆駄目になってしまうと肝を潰しますが、気温が上昇すればまた何事もなかったかのような涼しい顔で風に揺られ、清楚な愛嬌を振りまいてくれます。自然が身につけて来た強さなのでしょう。どんな動物による害よりも人間によるものが一番恐ろしいと常々感じておる為、できるだけ自然界に協力や恩返しをせんと心掛けるのですが、草木や花は折に触れ「大丈夫ですよ」と囁き安心をくれます。失敗談には事欠かぬ私でも、様々な角度から有難い励ましを受けて、前向きであり続けることが叶います。

 この界隈でこの時季、夏向けのお花を扱う業者の方々のご苦労も偲ばれるところです。大型チェーンのスーパーストアやホームインプルーブメント店舗のガーデン部門に出入りする生産者や卸の業者は、ミシガン州内からまめに来ているところも、ここよりはだいぶ温暖な気候の他州から来ているところもあり、大型トラックでシステマティックに大量に商品を運び込み7月には売れ残りをさっさと引きあげよそへ持って行ってしまうようなところもあります。気軽に声をかけおしゃべりしてしまう私の長所か短所から、しばしば業者さんとの立ち話にあやかり考えさせられることもあります。カラマズーというところはグリーンハウス栽培も盛んで、そこから来る業者の方は無論ミシガンの土地も気候もよくご存知です。明らかにこの方はただの運搬業務の従事者ではなく、御自分で草花を育て持っていらしたのだなあとお見受けした男性は「大型店舗は商品を置かせてくれるだけ。どんなに事前にお願いしておいても、霜の降りる予報の前に陳列棚の草花を保護してくれるようなところはなく、春の嵐ですべて駄目にされてしまってもそれはこちらの損で落ち着けられてしまう」と呟きました。私は、珍しいお色の水仙の寄せ植えの半分が寒さと水のやり過ぎでやられ腐っていたので、でも球根なら来年も出てくるから問題なし、まだ売り物であるならばそのまま売って頂こうと「これはまだ売り物でしょうか」と声をかけてみた時の話です。「貴女に無料で差し上げたいところだが価格に関して私は店に口出しが出来ない、どうしてあげることも出来ない」と申し訳なさそうに仰るので、「いいえ、御心配なく。売り物であるのならこのまま買わせて頂きます。」と幸せに連れて帰りました。それは秋に歩道に近いところに地植えに致しましたらこの春も見事にカムバックしてくれ、道行く人の目を楽しませてくれています。

 環境を整えるということは世話する者が24時間心配し、良かれと思い少しでも絶えず動き続けること。人間も含め生き物たち皆それぞれが一所懸命努力します。母なる大地。そのふところの生命力と神秘を讃え、生き物たちの活躍を静かに見守り続けたく存じます。花も鳥も小動物も忙しく動き始める春。一冬心を配られ栽培され幸せに育ってきた見事な草花の数々も、ミシガン州では母の日をめがけ身近に送り込まれて来ます。ご縁あって出会えるいのちの世話を出来る事の誇りと楽しみに、それぞれに香りと個性ある色とりどりのお花を眺めて歩きます。以前どなたかが「期待した花とは違うものが咲いた」という理由で店に返品なさったという、殺処分を目前に隅で叩き売られていた小さな薔薇。それが捨てられるのを見るに忍びず私が買い持ち帰りましたが、それは年月を経た今も我が家の玄関先で立派にお客様をお迎えし、綺麗に咲き続けております。

 

お花の随筆:かたしろ
(JNC 2021年3月号掲載)

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ミシガンの2月下旬は、外はまだマイナス20度の厳しい寒さとそれに調和する美しい雪景色が見渡す限り続いておりましたが、私は季節の楽しみの一つ、お雛飾りを紐解いておりました。重い家具を動かし入念な掃除を済ませると、最適の場所に晴れのステージとなる雛壇を組み立ててゆきます。毛氈をかけ、ひとつひとつ箱を開き、調度や人形を取り出してゆきます。無論手間のかかる、飾り終わるまで軽く3時間は費やす作業となりますが、好きで致しますので幸せこの上ないひとときです。手に付く埃や油でお飾りの絹やお人形の御顔が汚れないよう頻繁に手を洗いながら、雛飾りたちに話しかけながら、進めます。我が身と違いちっとも年を取らない御人形たちと再会するのは不思議な心持です。我が家のお雛様は古く、太平洋を色々な方角へ航海したものですが、どこでも絶大な人気を博するのは五人囃子。謡、笛、小鼓、大鼓、太鼓。見るからに若い十代前半の少年達は皆、所属事務所など無くも貴族出身のスーパースター。一途で変わらぬ一所懸命な表情と姿に「さあ今年も出番ですよ、おきばりやす」と声をかけました。雛飾り一式に触れ興奮する人々のリアクションと会話を楽しみながら、「己が外国人」の国で「日本文化に対する外国人」の方々へ向け、尊い日本の、厳しく謙虚で思慮深く、時にとてつもなく華やか且つ鍛錬と和合の、長い歴史に根差された、広く深く、また常に変化し続ける文化と伝統の素晴らしさの、ほんの一端を垣間見て頂く事で、直でもオンラインでも、驚き憧れ観察し交流する老若男女らと触れ合い続ける歓び一入です。

 厳冬期の家の中はお花の数こそ減りますものの、代わりに暇そうな植木鉢に私の気まぐれで野菜や果物類が育っております。野菜売り場で一束1ドル前後で売っているグリーンオニオン。上の緑の部分はお料理に使った後、ひげ根の付いた下1センチの白い部分を捨てずにおき、それを植木鉢の土に挿すだけ。輪切りにされた断面の中心部分から細い緑のお葱が顔を出し少しずつ元気に伸びてゆくので、枯らしてしまった夏のお花の鉢は今は皆、葱畑。他にも例えばお正月の雑煮用に買った三つ葉。根の部分を水に浸け窓際に放置しておけば新芽が出ますのでそこへ少量の土を加え、頃合を見繕い土の入った容器の下に穴をあけて鉢へ移し埋めてしまいます。水を切らさぬよう心を配り、暖かくなればそれを外へ地植えにし、花が咲き種が散れば、ミシガンの気候でもどんどん増えます。汁物に散らす三つ葉の香りは元気をくれますし、野鳥にも三つ葉の種は人気の一品。また、身体が疲れた時には生レモンをたっぷり絞った炭酸水を頂くのですが、たまに口に飛び込んで来る種を植木鉢の土に押し込んでおきますと芽が出、檸檬の木が育ち始めます。現在3つの種から直立に、健康な濃い緑の葉色を湛えた檸檬三兄弟が生育中です。このまま幹を三つ編みに仕立てるなどして、独自の果樹盆栽を根気よく育ててゆこうと想いを膨らませております。食べられるものの世話には熱意も倍増となります。

 ひな祭りの由縁には諸説あり各地で優れたならわしに触れることが出来ますが、元々は紙を人の形に切り、男女を問わず人がそれを自分の体にこすりつけることで悪いものをその「ひとがた」に移し、それを川に流した習慣が起源と読みました。陰暦三月初めの巳の日であった上巳(じょうし)の節句が、のちに3月3日の雛祭り、女の子の誕生を祝い健やかな成長を見守る春のお祭りの日として定着し、魔よけの色とされる赤、魔よけの花とされる桃が飾られています。長く交流のありました年配のジューイッシュアメリカンの御婦人がある時私に「桃の花というのを見たことが無い」と仰ったので、たまたまこの季節に業者から入手する事の出来た貴重な桃の花枝を、新聞紙にくるみ軽く100マイルを運転し届けて差し上げたことがございました。日本の伝統建築にお詳しく、生け花や日本庭園の美を特に愛され生涯研究なさっていらした素敵な方で、私が遊び育てる花を何故かお気に召されて彼女のお庭へ頻繁にお招き下さったので、共に土にまみれて汗を流しては、草木や花の話を楽しみました。それは戻らぬ日々となりました。

 世界パンデミックの現状の2021年の雛祭りは、その根源に立ち戻り、疫病除けの祈りに役立てたいと考えました。丁度よその州や国外に住む日本文化研究に熱心な方々とのオンライン会合など定期でございますので、いつもとは違うお雛祭りの意義についても是非ご紹介申し上げたいと考えております。私も、新種のウイルスではございませんが、己にいたと思われる、払いたい悪いものというのは色々あり、またそれらが普通の印刷用紙では厚さが足らぬ気がしたものですから、とびきり頑丈で厚いボール紙を見つけ、それもやや大きめのひとがたに切り、ごしごしと念入りに胸にこすりつけました。病、、災いといったものをうための祈りをしっかり込め念じてみたものの、しかしこの辺りはそれを流すような川は凍っていますし、ごみで汚すわけにもまいりませんので、考えた末、お清め塩を振って暖炉にくべ、焼くことと致しました。雛祭りミニどんど焼き。我が家独自の風習がまたひとつ、生まれてしまいました。駄目押しついでのその他の願い事も多く、豊作、商売繁盛、家内安全、無病息災。しかし私は子供の頃、サンタさんに欲しいものを長いリストに書き置いた手紙の返事に「そんなに欲張るともう来ないぞ」と今考えれば身近な大人の筆跡で書かれ、深く傷つきクリスマスを一日泣いて過ごした記憶がありますもので、神様も過度に期待されると荷が重く、御迷惑となりますでしょう。黄道と、地球の赤道を延長した線が交わる二つの点。それらを地球から見て太陽が通過するような形に見える瞬間が含まれる日が春分の日と秋分の日。自然を讃え生物を慈しみ、祖先を敬い故人を偲ぶ日。今年の彼岸の中日は3月20日です

お花の随筆:心
(JNC 2021年1月号掲載)

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年の瀬が迫りごった返している大型食料品店の牛乳売り場の前で私は困っておりました。いくつもの種類がある中で、私が買いたいものだけが一番上の棚にあり、しかも目的の半ガロンサイズのカートンは奥の方に6本残っているだけ。それがどうしても2本欲しい。透明な冷蔵庫の大扉を開け足元の枠に足をかけ、精一杯背伸びをして腕を伸ばしてみましたが、牛乳にかすりもしません。普段そんな時には知恵を絞り、牛乳が乗っているワイヤーラックの下の隙間から指を伸ばし、底を二本指でくすぐるようにして1センチずつ手前へ手繰り寄せ、時間はかかれど牛乳が笑いながら私の懐に落下して来るまで頑張るのですが、その時はどう頑張っても届きませんでした。誰か背の高い方が通りかからないかしら、と考えた途端、恐竜のように背の高い方が現れ隣の豆乳を掴んだので、神様っているのだなあと感激しながらすみません、May I bother you? と声をかけました。私は家族の中で一番チビなんです、一番良く食べたのに、と伝えた私にその方は快く牛乳を2本手渡して下さると、次の人にも親切にしておきましょうね、と奥に残る4本も手前に1本ずつ寄せ、「僕も一番小さいから大丈夫」と笑い、立ち去りました。

 ミシガンの美しいインディアンサマーの日、すっかり葉が落ち種の沢山ついた軟らかく背の高い木槿の枝を、私は背伸びしながら剪定しておりました。すると背後からガタン、ガタンという音と共に御近所のおじいちゃまが頑丈そうな脚立を抱え、登場しました。「世の中は時に、背の低い人たちに親切に出来ていないようだね」と茶目っ気
たっぷりに目くばせすると「これは古いけどこんな形にもなる、こうも出来る。こっちは簡易棚で足をかけたり工具を置くのにとても便利。私はアップノースのコテージもこれ一つでブロックを積みペンキも塗り、若い当時に払った三桁の値段の元は十二分に
取ったのだ」と朗らかに解説を加え、「私はもう一つ脚立を持っているから遠慮なく
好きなだけ時間をかけて使いなさい」と置き去りにしてゆきました。折角ですので使わせて頂こうとしましたらそれはとてつもない重さで、片側だけを持ち向きを変えようとしてもふらふらしました。一瞬の間におじいちゃまが側に現れ、「重いでしょう、動かすときは言ってくれたら動かしてあげるからね」と言い、こうかい?こっち向き?と微調整して下さると、また立ち去りました。毎日のように元気にマラソンをしているそのおじい
ちゃまがある日突然立ち止まり、実は妻のアルツハイマーが酷くなり近頃特に意地悪と物忘れが激しいのだ、よその人には愛想が良いのに私にはことごとく辛く当たる、と私に囁き表情を曇らせたのは少し前のこと。御本人は「囁いた」つもりであったのですが御耳が遠くなりかけていらっしゃるため声が大きく、向こう三軒両隣の方々も彼の悩みを聞いてしまい、皆で心を痛めておりました。その日は後で奥様もお見掛けしたので手を休め、「お元気ですか、先ほどご主人様が脚立をお貸し下さったので使わせて頂いております」と明るくお声がけ致しましたら、「なんですって」と眉を顰め「主人は時に親切が過ぎてよそ様に迷惑をかけるのよ、はっきり言っておやりなさいな」と呟き手を振ってゆきました。あらあら、困りました。再度木槿に向き合い作業に集中しておりましたが、ふと、背中に熱い視線を感じたので振り返りました。目に飛び込んて来たのは御自分のドライブウェイへ戻られたおじいちゃま。まるでミーアキャットのように佇み、まっすぐ私を見つめ心配し続けて下さっている御姿。思わず声を上げ笑い出してしまいました。実はお借りした脚立は木槿の丈より高く、私がはしごに登ると木槿を見下ろしてしまうことになり、剪定しようと手を伸ばしましたらそれごと木槿にダイブインしてしまうことになったのですが、それ程気にかけて頂き本当に楽しく、有難いことでした。

 世界をほぼ誰もがいつでも自由に往来のできた時代が終わりを告げ、不確かさの続く中、家で三食の御献立を考えることが新鮮であったり、年長者の知恵と長寿の象徴とされる香りのよい常緑樹の葉のアレンジメントなど創作しながら、限りある時間を慈しみます。毎朝の日の出に今日を与えられた恵を感謝しながら、人に優しく接することが出来るようでありたいと願います。心に「いかにいます ちちはは つつがなしや ともがき」、日本にゆかりの方に愛され続ける「ふるさと」のメロディーが浮かびます。長野県出身の高野達之さんの作詞、鳥取県出身の岡野貞一さんによる作曲。この名コンビの愛唱歌は美しく哀しく懐かしく、無伴奏で口ずさみ、気に掛ける近くの仲間は、遠くの身寄りは、皆の生活に不自由はないか、危険ではないか、困ってはいないかと心にかけ、見守る自然の美しさをも崇めます。「山は青き ふるさと 水は清き ふるさと」永遠に続くのではと信じて疑わなかった安心と繁栄、健康が、ある日突然に変化を迎えた時、不安や絶望に精神を苛まれないよう、気持ちをしっかり持ち続けたいと願います。地球の片隅でチビ助は考えます。心からの祈りを込めた今年の日の出は、格別に貴いもの。

お花の随筆:綺麗な足跡
(JNC 2020年11月号掲載)

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 今年の10月初日は満月でした。綺麗なきれいな月を、空気も澄み静まり返った真夜中に、長い時間をかけ無言で愛でることができました。誰にも、何事にも妨げられない時間というものは本当に貴重となりました。冬の訪れの早いこの辺りでは気温がほぼ氷点までストーンと落ちるようになり、それまで美しい夏を謳歌していた生き物たちが季節の変化に覚悟を迫られるようになります。動きが鈍くなり、それでもふらふらと花にすがる蜂の姿、羽のぼろぼろになった蝶が必死で羽ばたき続けようとし地面を懸命に跳ねる姿。哀しくも自然のさだめと自分に言い聞かせ、でも一心に生き続けようとする姿を応援したく、蟻に引きずられて行かぬよう地面から離して花の上に載せてあげたり、夏のお花も最後まで処分せずにおります。夜の間は凍らぬよう家の中へ入れ花を保護し、朝になって気温が上がり始める頃また外へ出し並べてやると、誰に教えられるともなく沢山の蝶や蜂が一瞬にして集まって来ます。ぶうん、ぶうんという蜂の羽音は力なさげで泣いているようでもあり、それでも、まだ開花しているブルーサルビアのひとつひとつを覗き体を突っ込み、己の使命を全うせんと行動し続けます。餌の減ったカマキリも外灯のすぐ傍の網戸に陣取り、灯りに集まってくる虫を捕えようと頑張り続けます。

 真夏の太陽の下鮮やかな色彩が映えるゼニア(百日草)の花。ミシガンでも10月終わりまで咲き続け元気をくれるお花です。その花言葉は今は会えない人、不在の友への想い、絆。新型ウイルスの猛威により私もこの夏、身近で大切な恩人を失いました。国境のない友情と愛情、信頼。いつかは皆同じところで再会できると祈りつつも、その衝撃と悲しみを癒すには努力が要ります。「いのちの詩人」相田みつをさんの印象深い言葉のひとつに「きれいな足跡には きれいな水がたまる」とありましたので、己の死についても考え、ふと現時点で自分の足跡はどうかしらと振り返りましたらそこはまるで決勝戦後のラグビー場。土砂降りが追い打ちをかけたような光景すら容易に想像出来て息を呑み、急いで前を向きました。前進あるのみ。たとえ足跡は荒れ野原でも、その御蔭で他に類を見ない自分の今があるのだと信じ、己を励ましました。些細な事に妥協を許せない性分は災いしたものの逆にそれが幸いし、今後関わってゆく物事への取捨選択のスピードはかなり進歩したはず。心がけ次第で人生時間切れとならずに納得した締めくくりの工程へ着手できるやもしれません。心が癒され満たされ、更に勇気を頂くには音楽がエッセンシャル。今年は偉大な作曲家ベートーベンの生誕250年にあたり、その作品の数々を有難く鑑賞してまいりました。彼を愛する世界中の音楽家たちによる、コンサートホールでの生演奏の再開が早く実現されますよう切に待ち望むところです。

 アメリカでは4年に一度の大切なイベントへのムードが過熱する中、乱暴、無知、低品位な私見を赤の他人から日々突き付けられる事に閉口し、騒音をシャットアウトせんと努力するも視覚からも喧噪が飛び込んで来ることに辟易しておりました。すると住宅街の自治会からとても公平且つ的を得た通達が各家に届きました。「熱心に選挙の候補者を支援しようとする方の気持ちは理解しますが、明らかに自治会の決まりごと違反です。敷地に立てたサインは速やかに撤去して下さい。」次の朝にはあらゆる政治的思想、選挙支援目的の雑多なサインが住宅街から消え、本来あるべき整然とした美と、よそ様への敬意が取り戻されました。これが規則と秩序というもの。ミシガンの美しい自然の中、静止した水面からどこまでも底の見える澄んだ水を湛えた数々の湖のごとき厳かな平穏が住民の心に取り戻されたことは、筆舌に尽くせぬ有難さでした。通りには菊の鉢植えやコーンストーク、赤、黄、オレンジ、茶系の秋の装飾が踊り、ハロウィーンのお祝いムードからサンクスギビングへと季節が巡る中、心は純真な子供のまま干し藁とコーン畑の迷路や露天市など、地域の人々と共に黄金の実りの秋を楽しんでおります。

 庭作業に忙しい間は虫が寄ってくるので香水の類は身に着けませんが、これからの季節は大いに楽しめます。晩秋のムードにほだされ迷い込んだショッピングモールの中の若者向けビジネスカジュアルのお店の陳列棚に、ユニセックス向けの香水というのが置いてありました。その瓶のデザインが中性的な魅力でカッコいいなあ、と珍しく心ときめかせた私は、サンプルの瓶の蓋を開けて束の間、ふんふんと香りなぞ楽しんでおりました。するとそこへ、とても女性的な要素を醸し出したスラリ綺麗な男性が、くねくね踊りながら登場して私の傍へ来るなり一言、「息子さん用にお探しですか?」屈託のない人懐こい笑みを湛え、何のためらいもなく途轍もなく酷いことを言ってのけました。私の見た目は間違いなく年配女性と自覚しますが、都合の良いことに行動中は自分の姿など見えませんのでその日その時、自分の気持ちは図々しくも20代後半に設定しておりました。そんな無茶をするから、なのですが、思わず瓶の蓋を取り落としそうになるほどの衝撃を受け、全身で動揺し打ちひしがれましたが、一瞬後には元気に顔を上げ笑顔で「はい。」と返事した自分も嫌になりました。そのうち「お孫さん用でしょうか?」と訊かれる事になるのね、としんみり。それでもまあ、笑いながら生きてゆこうじゃないのと態勢を立て直しました。それぞれに限られた命。賢く愚かな人間たちがおのおのの使命を全うし、幸せで、互いを尊敬し続ける世界が長く続いてゆきますように。

お花の随筆:我が家のアンコールワット
(JNC 2020年9月号掲載)

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ふと外を見やると見知らぬ女性が佇んでおりました。つい最近、同じ通りにお住まいの方が「誰か知らない人が庭から満開の薔薇をいきなりハサミで切って持って行ってしまった」と憤慨なさっていらしたのを思い出してドキリとし、息を呑んで身構えましたが、その方はごそごそと携帯電話を取り出し遠慮がちに2、3歩ドライブウェイに立ち入ると、傍に咲いている花の写真を撮り立ち去りました。綺麗に咲いてくれたお花が、よそのお花好きの方々との良い御縁を取り持ち、繋がりをくれるのが楽しみでおります。

 グローバルパンデミックによるロックダウンの影響で、この夏のフリスビーの売上が前年比500%アップ、とラジオでレポートされたのを聞き笑ってしまいました。朝晩家族での犬の散歩、にわか自転車族。アウトドア人口が急増した事は皆の健康に宜しく喜ばしいことです。さて私はと申しますと、外出自粛令を受け、あらゆる課題について「普段ろくに家にいないので十分に出来ない」という言い訳が完全に取り上げられた恐ろしき事態。住まいの事、特に見た目の課題を片付けてゆかざるを得ず、絶体絶命の処へ追い詰められました。自身で心密かに「アンコールワット」と呼んでまいりました庭の一角。雑木やつるが伸び放題でまるで抽象絵画のモチーフのようになったワイルドガーデンエリアに、遂に重すぎる腰を上げ向き合い、否応無しに取り組む覚悟を致しました。

 厚手の長袖綿シャツに日よけ虫除け皮手袋、作業ズボンに皮ブーツ、首に手ぬぐい顔にマスク、サングラスに麦わら帽子で完全防備。恐らく親が見ても誰だかわからないであろう物々しいいでたちで雑木を払い始めますと、鳥や小動物も驚いて逃げ出しました。けれど辺りが日陰になってしまった為に花のつかなくなっていた薔薇も生き残っており、やっと来てくれたの、といった表情で嬉しそうに輝いてくれました。地面を覆っていた重厚なスイカズラのつるを切り拓いてみると、そこには20年も前に敷いてその存在すら忘れていたステッピングストーンが現れました。この飛石をいつも一つ一つ律儀に踏んで遊びに来てくれていた人懐こい女の子達は、今はもうお酒の飲める年齢となり、車を運転して仕事に通っています。その友情と御縁のきっかけは、ある日その少女達にハーブティーの話をしたこと。興味を持ってくれ、我が家の庭のイングリッシュタイムやミントを摘むのを楽しみに、それぞれ自分のカップを持って遊びに来てくれるようになりました。お庭で熱いティーは危ないから、と私が心配すると「ノープロブレム」。自分達でハーブを入れたカップにガーデンホースで水を注ぎ、石に腰掛けると
「うーん、美味しいティーね」と頷き合い、堪能する5歳児二人。その姿に私は唸り感心させられ、以降私も夏の庭で、麦茶のかわりにハーブ水を気軽に楽しむようになりました。薔薇や木槿の花を食い散らすコガネを捕る方法を見せてあげると、二人とも
じっくり時間をかけコガネ退治に庭をパトロールしてくれるようになり、終わると木の切り株に腰を掛け、お互いに何匹とれたか数え比べっこしていた姿を思い出します。そのうち四軒先の奥様が突然、「うちの娘が鷲掴みにして嬉しそうに持ち帰って来るのはお宅の植物でしょうか、申し訳ない」と謝りにいらっしゃったことも、懐かしい思い出。

 今度は私のシャツにがっちりと引っ付いて来たアザミの実。これはペットやカバンに付いてもなかなかとれず、綺麗に取るまでちょっとした時間を費やすことになります。丁度私の頭の中で、アザミによく似た同じキク科のゴボウの花について考えながら作業を続けておりましたところで、そのゴボウの実の強力な接着力からヒントを得て面テープ (loop and hook fastener、商標ベルクロ、マジックテープ) が世に生み出されたのだったなあ、と思いを巡らせました。自然の美しいスイスのジュネーブ湖畔に生まれた電子工学者のGeorge de Mestral氏。発明が大好きで12歳で既にモデル飛行機で特許を得たというほどの彼が生まれたのは今から100年以上前。彼がアルプスを散歩中に愛犬や自分にくっついたゴボウの実に興味を持ち顕微鏡で観察し、種を覆う棘の先が鉤型の針であることを知り、これを応用して2枚の布を密着させるアイディアを研究し始めたのが1941年。フランスはリヨンの繊維メーカーやスイスのバーゼルの織機メーカーの協力を得て、フック面とループ面が引っ付きワンタッチファスナーとなる新製品が商品化されたのは1955年。後に世界の人の暮らしや宇宙船に至るまでを便利に変えてゆくタッチファスナーの発明です。自然の不思議を観察し、閃きから文明社会に役立つものを発明し貢献するなんて素晴らしい事ですね。近年は、ファスナーからバリバリ音が出ないようにする研究に引き続き力が注がれているそうです。彼は同じように夢を馳せる他の発明家への援助や、若者たちの特許申請への協力を、生涯惜しまなかったといいます。

 黙々作業を続けておりますとこれまで聞いたこともない大きな重低音の羽音が。何?新種の蜂?それにしちゃ大きい。数歩離れてみましたが羽音は私にぴったりついてきます。怖くなり首をすくめゆっくり面を上げると、私の頭上にいたものはなんと、ドローンでした。これまでの当たり前が当たり前でなくなり、それが新しい当たり前として受け入れねばならなくなった激動の年、2020年の夏。自然の生物よりも生活に無断侵入する人工知能や裏庭に突如現れるドローンのプライバシー侵害に神経をすり減らす、SFの世界が遂に現実となった、安らぎの脅かされる不安な人間生活。馴染みの通りがかりの方が「貴方はお庭を頑張り過ぎよ」と笑って声をかけて下さったので「振り返るとどこもやる事だらけで」とこちらも笑いコメント致しましたら、「そうね、家の中も外もやる事だらけよね」と高らかに笑ってゆきました。家の中。ああ、私を辛抱強く待っている、密かに自分で「永久凍土」と呼んでいる一角が。これは冬の課題と致しましょうか。

 

お花の随筆:共存の知恵
(JNC 2020年7月号掲載)

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 昨年の夏、知り合いのインド系アメリカ人の方から「ほうれん草」の種を頂きました。その方は普段から、この上なく新鮮な牛乳を自宅に配達させ、自家製のヨーグルトをお作りになっていらっしゃるほどの健康志向ですので、是非あやかりたいと喜び、早速種を蒔き忘れずに水を遣り、心躍らせて成長を楽しみにしておりましたら、ある日そのてっぺんにヒマワリの花が咲きました。ぐんぐん伸びはじめた頃から、なんとなくお世辞にも美味しそうには見えない、毛だらけの葉に頑丈な茎でしたので、これは本当に食べられるのかしらといぶかっておりました。蒔いたはずの種は黒くふっくらした艶のある丸い粒が二つ、のちにその鉢の同じ場所に一塊に咲いた花はヒマワリが八輪だったのです。私は、悲しんだらヒマワリの花に失礼だと思い必死で我慢しましたが、気落ちした正直な顔をヒマワリに見られてしまいました。まるでちゃっかり者のカッコウ鳥にしてやられ、知らずによその子を一所懸命育てたお人好しの親鳥のような気持ちでした。

 私の推理が正しければ、これは我が家の周辺を徘徊するリスの悪戯であったようです。と申しますのも初夏の頃、デッキの上に並ぶ植木鉢の数々が何者かに荒らされる日が続き困っておりました。初めは鳥が砂浴びをしたくて遊んだのかしら、程度の凹みが、あらウサギが巣穴の場所を下見したのかしら、の大きさになり、それが遠慮なくどんどんエスカレートし遂には植えてある花が大きくバランスを失って傾くほどになり、しまいに狸が尻もちをついたような大きさの穴を、私が毎日埋めるようになっておりました。そうしたある日。リスが現れ、まるで忍者のように素早くレンガの外壁を伝いデッキに飛び降りると、いきなり気がふれたかのような勢いで植木鉢の土を掘り始めました。次の瞬間はっと顔を上げ、至近距離で私とばっちり目が合ってしまったリスの顔は、およ!という表情で、ほっぺは両方ぱんぱんに膨らみ、顔の形が変わるほどの量の植物の種や実を口に押し込んで来ており、今まさにそれを吐き出し土に埋めて隠そうとした瞬間でした。思わずヒステリカルに笑い出した私に驚き、リスはすっ飛んで姿を消しました。きっと前述の不思議の真相は、私が種を蒔いた後でリスが、よそのバードフィーダーから仕入れて来たヒマワリの種を、後でゆっくり食べようと同じ場所に埋めたのでしょう。そんな大事な貯蔵食料を発芽させてしまい、リスに申し訳ありませんでした。

 今は間違いなくソーシャルメディア、ソーシャルネットワークとやらの時代ですので日常気づいたことを何でも気軽に赤の他人へ相談することに抵抗のない方が増えていらっしゃいますね。私は、どんな年齢のどんな背景に育ったどんな輩が自分の考えに呼応して来るのか、その一種無責任とも言える反応を真に受け一喜一憂するのかとむしろ恐怖が先に立ち、信頼できず性に合わず、そういったもの全般に対し敬遠する気持ちを消せないのですが、今回あるきっかけから周囲の強い勧めを受け、近所の方々が情報交換をするためのアプリ、というものに恐る恐る加入してみました。警察や消防の連絡や、ペットが行方不明になった、悪徳ハンディーマンが料金を前払いさせ仕事をせずに行方をくらませた、といった情報の共有、ヒマな高校生がいたらうちの庭仕事手伝って、など他愛のない相互依存の話題満載で、右から左へ読み流しながらもローカルトピックを楽しみ出しました。ある時そこへ植物の写真が投稿され、これが何か教えて欲しい、と出たのです。年の功かたまたまの経験からか私にはそれが何であるのか一目瞭然だったのですが、驚いたのは、そこへ次々返事を投稿なさった方全員が一様に、正しくない答えLamb’s Earと自信満々に述べているのです。本当の答えである植物とは丈も葉の大きさも花の色も全然違い、一見、葉の色と質が似ているというだけなのに。ここは私の出番なのかしら、とうとう人生初のソーシャルメディアデビューなのかしら、緊張に襲われソワソワ、激しい動悸に目眩も併発、どうしようと気が遠くなりかけたところに正解が。「Mulleinには素晴らしい薬効があります。」御一人の見事な登場と引き際に感服致しました。質問者ご本人からも「私もリサーチしました。Mulleinは身体に良いそうですね、皆さんありがとう。」こちらも気持ちよくまとめられ、烏合の衆は散りました。私も庭のMulleinが何だか知らなかった時分は、立派な草よと崇め、栄養を与え応援していて、よそ様から雑草だから駆除なさいと笑われたものです。微粒子の種が散ると大変。古代ローマやゴールドラッシュ時代のアメリカで人々は、天に真っ直ぐ伸びた花の形を生かしそれをオイルに浸し火を点け、松明として利用したのだと、庭仕事好きのイギリス系アメリカ人の御婦人に30年以上も前に教えられました。美しい知恵ですね。

 さて、「ほうれん草」の話の顛末ですが、愛くるしいけれど食べられないヒマワリを私が半泣きで鑑賞していた頃、同じ植木鉢の中の隅の方に追いやられた形で、見たことのない葉が出て来ておりました。もしやこれが幻のインドほうれん草かと気を取り直し、今度はそちらに水を遣り始めましたが季節はもう秋の風。そこでそれを小さな鉢に上げミシガンの長い冬を屋内で越させることに致しました。一冬経ても4枚し

か葉が付きませんでしたが、春になり再度、外で気長に育てておりました。すると種を下さったご当人がお散歩で通りがかりましたのでとっさに鉢を持って追いかけ、見ていただきました。するとそれはあの種から出た芽に間違いなく、つる性のものとそうでないものがあり、これは支えが要らないタイプのほうだから、少し大きめの鉢に植え替えてあげてあとは食べるだけ、とのことでした。またリスに悪さされて次は瓢箪か何かにすり替えられてしまう前に味見をしようと、6枚目の若葉を千切り舌にのせてみました。う、まずい。でも栄養価はとびきり高いのかな。今年の夏の新展開に期待を寄せております。

お花の随筆:不要不急な話
(JNC 2020年5月号掲載)

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(JNC 2020年5月号掲載)

久しぶりに包丁を研ぎました。無欲無心で臨みかつ気の抜けない単純作業というものは、知らぬうち積もるストレスの解消法として相応しく、爽やかな充足感をもたらせてくれます。水と砥石の狭間から発せられる日本ハガネの、薄い鉄のしなる伸びのある独特の音。身の引き締まる音がシュ、シュ、時代劇の効果音をも彷彿とさせる硬く鋭い音がシャキーン。それぞれが織りなす懐かしい緊張感が、次々心地良く精神に浸透してゆきます。住み慣れた我が家、そこで過ごす時間が増しますと、普段は気にも留めぬ些細な事に喜びを見出せ幸せな気持ちとなります。温もりのある木の床に裸足で触れながら、折に触れ味わってまいりました世界の巨木にまつわる話など、思い出しておりました。

 私はオークの木に思い入れがございます。神の宿る木、生命力の象徴。森の王と称えられる厳かで立派な姿。文明への用途は宮殿や教会など歴史的建造物の材料としては勿論のこと、宗教芸術、家具、酒樽等様々で、綺麗な木目も馴染み深く、何世代も受け継がれてゆく魅力は洋の東西を問いません。滋養なその実どんぐりは、家畜の飼料、またパンやだんごの材料にと人々の生活にも密着して来ました。残念ながら大航海時代に船舶の材料とされてグレイトブリテン島ではオークの大森林が姿を消しました。松、杉、クヌギといった利用価値があり商品価値も高い木は、どこの国でも人間にどんどん切られ、しかし節々が多すぎて無用の長物とされるガジュマルの木などは残り、大きく育ち木陰を作り、世界の文化や生き物の安らぎの拠り所となり、静かに時を刻みつづけます。

 我が家の庭にはいつも通り球根からシーラの花が開き始めましたが、今春は暮らしに異例の規制があり、夏のお花や野菜を適時にスタートさせることができませんでした。ミシガンは夏が短いので早いうちから室内で種まきを始めませんと、秋風が吹く頃になっても花は咲かず実も生らず、夏を楽しむには間に合いません。他にも、例年ならば母の日をターゲットに市場に出回り楽しまれるはずの風物詩が、非エッセンシャルとの指定を受けた「楽しみ狩り」に遭い、無下に奪われた悲しい春です。私は「無駄」と「遊び、ゆとり」は違うものと考えます。先の見えない不安のどん底にいるからこそ、人々はゆとりを求めます。ふっと笑い緊張をほぐせ、恐怖を束の間忘れる一息から、戦い続ける活力を得る。これは大切なエッセンシャルです。緊張の連続のご職業の方は特に、落語を聞いたりゴルフに出かけたりの気分転換を大切な時間とみなされますし、人気のある作家や映画監督は、緊迫の連続の御自分の作品の中には必ず、わっと緩み笑える場面を織り込みます。そうすることでメリハリが生まれ、次の展開がより生かされてゆきます。線の引き方が大変難しい事であるのを重々承知の上で物申せば、自由主義社会にありながらゆとりは当面我慢なさいと規制されてしまったことはゆゆしき事態で、今はそれほどの、非常事態なのです。尚更、人々が前へ進んでゆく為には、飲み水と食料の確保のみならず、別に精神面の支えとなる、開かれたものが必要となってまいります。

 日本のチューリップの名所で、今を盛りと咲き誇っていた花々が首をすべて刈り取られる「処分」を受けたというニュースには肩を落としました。外出自粛要請に反し人々が見に来ていたので、見物客の数が400人を超えてしまうとの配慮から、というのがその言い分でした。都内の桜の憩いの場も工事現場用テープで通り抜け禁止とされていて、戸惑う親子連れの姿も見られました。やっと訪れた春に、今年は花を愛でることすら許されないのでしょうか。そのうちもしやもっと乱暴な意見をも実行に移す輩が出て来るのかと空恐ろしく、方向を見失いかけた人間の危うさに尊い地球の行く末が案じられます。ウイルス感染の有無に関わらぬペットの殺処分が命ぜられたとの背筋も凍る某

国家のありよう。民主主義国家に生きている筈なのに、互いの監視や密告を奨励せん行政も出て来てしまった恐ろしい現実。樹齢何千年の木にしてみれば人の一生など塵のごとき時間、しかしその一瞬に、取り返しのつかぬ事態をも引き起こしかねない人類の罪。

 生きてゆくことがティームワークであることを、これほど思い知らされた時はございません。重要で人々を助けるアカデミックに、ゆとりを与え人々を癒し不安を軽減させるアートに、人々を統率すべきポリティックスに、各フィールドの優れ秀でた才能と、既に最前線で挑戦し続けている経験豊かなスペシャリストたちを今はあらゆる方面から全力で支援せねばならない正念場です。主観の強すぎる扇動は控え、自らも何に貢献できるかに真剣に取り組まねばなりません。暮らしが尋常を取り戻し、晴れた心で青空を見上げることの出来る日が、早く巡ってまいりますよう、地球の片隅で祈りつづけます。

お花の随筆:蝶の舞に (JNC 2020年3月号掲載)

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(JNC 2020年3月号掲載)

これは何十年も前の話となります。私が幼少の頃、日本で父は、家に配達される朝刊は全国紙5社から一部ずつ、購読致しておりました。その理由として、「同じ事象がどう書かれているかを読み比べてごらんなさい。」そう言い、同じ話題を扱っている5社分それぞれの紙面を開きテーブルに広げ、私に促しました。難しい漢字や言葉の意味がわからない、と私が呟けば、父は瞬時に分厚い黒い広辞苑を出し私に向けて差し出し、「調べなさい。」と置きました。内容は、違いの見当たらない記述の時のほうがむしろ稀で、ある特定の新聞社の記事からは毎度意図的にキーワードやキーコンセプトが抜かれていたり、違う言葉や微妙に異なる表現に巧妙に置き換えられていた場合もありました。「こう書かれてしまったら、読み手にはこうとしか伝わらないだろうなあ。」子供にでさえそれが「事実の伝達」であるのか、或いは「意図的に読み手を誘導し、ある一点の目標へ意見や考え方を統一しようとする書き方」なのかの違いが判りました。読み手である大衆の思想統制をゴールとする側、仮にそれが存在するのであればですが、その側にとっての目標達成は容易なことで、その結果自覚のないまま大衆の意見は誘導され、気づけば誰かの意図するところへ落ち着く事になるのだと、少し怖くなりました。

 厳冬期のミシガンの我が家で、突然鉢植えのひとつからモンシロチョウが羽化し室内を飛び回っていた話を、以前書かせて頂いたことがございました。蝶の舞というのは、はかなく頼りなさげに見えながら実は、日陰と日向のラインを上手に見極め高さもコースも見て縫いながらの真剣勝負。時季が来ると伴侶を見つけ嬉しそうに仲良く舞い、ハレとケのメリハリを謳う力強い生命の讃歌。ナイアガラの滝方面へ陸路でお越しになる方には通り道となりますが、カナダはオンタリオ州ナイアガラフォールズのあたりにもバタフライコンサーヴァトリがあり、訪れる人々を歓迎してくれます。デトロイトダウンタウンからは車で4時間程の、のんびりドライブ。館内では自分の衣服の上に気軽に蝶がとまってくれたり、あしらわれた自然風の水流に見事な数の蝶が憩い、軽やかなダンスを披露してくれます。また、グランドラピッズのフレデリックマイヤーガーデンでは 恒例のButterfly Exhibitionの催しが、今年は4月30日まで開かれております。このイベントに関わる方々は、前年の10月頃より念入りに準備を続けていらっしゃる旨、お話しなさっていらっしゃいました。今年の来場者は18万5千人を見込んでいるとのことでしたが、湿度の管理ひとつをとりましても、細やかに心を配る大変な御仕事と存じます。そうして、春を待ち侘びる多くの人々の、心安らぐオアシスが完成されるのでしょうね。花や彫刻に加え、力強くも可憐な蝶の姿に魅了されるのもまた、粋ですね。

 一般人が頼りとする「ニュース媒体」であるはずの著名な報道機関は何故か昨今、率先してプロパガンダ騒音拡声器と成り果てた風潮がございますようで、このトレンドが早く過ぎ去るよう願っております。報道と、相手を持説で論破するディベートは異なります。作為的にカットされた映像が都合の良い所へペーストされ本来の意図が消され、更にそれが繰り返し報道されることで受け手が右往左往し、真実だけが霞んでゆきます。怒涛のごときセンセーショナルな電子通信時代を迎えてしまった人類は、晒される情報の量がもはや一昔前の時代の人々の新聞一社どころの騒ぎでは無くなってしまいました。その坩堝の中に翻弄される人々と自分の姿を重ね、ぼんやりとした将来への不安を募らせながらマスメディアの公平さと信憑性に危機感を抱くものの、エネルギーと行動力に満ちた蝶の舞に将来へ一縷の望みを託し、おのずと姿勢を正します。自分は果たして他人の意図に踊らされているのか?それとも自分の意志で踊っているのか?「脅されず、踊らされず、踊る」事が出来ているのか?己が培ったはずの思慮分別と学識経験、洞察力は冴えているか?「自称インテリ」の、偏見に満ちバランス感覚に欠けたお粗末なコメンテーターの一員とならぬよう、無責任に発信される情報の海に溺れぬよう、心を常に開いておるのか?   さてわが身を省みますと、常に情報に触れていたいが為の、安心のお守りとしての「スマホ」を決して手から離せない自分がおり、苦笑致します。

 

お花の随筆:お花とともに、門出を祝して
(JNC 2020年1月号掲載)

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探し物を始めますと、どうしてこう、探していないものばかり出てくるのでしょう。あとからあとから、何故探していない物ばかり、出てくるのでございましょうね。そのひとつひとつに驚き、喜び、しんみりとなり、今度はそれをどこへ整頓しようか家の中をうろうろ、キョロキョロ。そうしているうち自分は一体何を探し始めたのかも忘れてしまってアハハと笑い、まあ、そのうち出てくるでしょう、と探すのをやめた途端、それが始めから目の前にあったのを見つけたりするのですね。人間はこんな事の繰り返し。そうこうしているうちに、時は飛ぶように過ぎております。きっと洋の東西を問わず、古代ローマの頃から、人の暮らしそのものは単純であり、あまり進歩なく歴史を繰り返す単純な生き物であるのかもしれません。時を同じくして地球上に存在する年下の若者達には三年前の事はもう古いなどと言われ、でも冷静に観察し歴史を辿れば意外にも、二千年以上前の人々の営みは、現代の人々のものとそれほど、変わっていないようです。

忙しいという字は心をほろぼすと書きますので、決して自分だけは、その謂れとなった集計データには貢献するまい、と心に誓い頑張って来たつもりが、いにしえの方々がその、更にそれ以前の方々を観察なさった人間データに漏れる事なく、気付けば不覚にも痛恨の一票が投じられておりました。心が滅びる、すなわちゆとりがない。気持ちのゆとりが見つけられないが為に、つい、よそ様に失礼を極めてしまいその結果、ゆかりのあったはずの方々ともいつの間にか疎遠となってしまう。忍び寄っていた悲しい別れに気づかず、後悔に落ち込んで、それでも、目の前に迫る事を兎に角、ただがむしゃらにこなして。言い訳は数並べられますものの、休みなくエネルギーを消耗し続ける殺伐とした暮らしが、やや当たり前のように習慣化してしまっていたことに気づき、これではいけないと一息ついて、心と身体に休息を与え、魂の栄養を摂ることに致しました。

ひょんなことから入手致しまして8年ほど手元で大切に育ててきた南天が、街路樹から飛んできた白カビの一種に取りつかれ真っ白になり、葉がすべて落ち、細い枝もぽきぽき折れ枯れ果ててしまいました。しかしどうしても諦めきれずに水を遣り続け、たまに造花をクリップで留めてみたり、作り物の鳥の巣を枝の上に載せてみたりと1年以上遊んでおりましたが、流石に見栄えも悪いので、昨年の春にようやく外へ出し、雨風に晒して更に1か月半。放置したのちにいよいよ明日にはお別れしよう、と覚悟を決め、改めて枯れ果てた鉢植えを眺めたその瞬間。なんとその根元から小さな新芽が出て来ているのを私は見過ごしませんでした。150センチほどの丈の、枯れた幹の一番下の地面に一番近い所に、幅2ミリ、長さ4ミリ程のとても小さく柔らかい葉が3枚、胸を張っておりました。感激のあまり鳥肌が立ち、生命力の底力に驚き感心し、よくぞ頑張ってくれたと涙しました。あと一日遅かったら、間違いなくヤードウェイストとして、枯葉や枝もののごみと一緒にリサイクル回収されていたところで、慌てて出て来てくれたのかと、いじらしく愛おしく、本当に嬉しゅうございました。何度も褒めてあげましたら何かこう、とても誇らしげな表情で、爽やかな初夏の風に吹かれ、揺れておりました。

別れの辛さや涙も、新たな旅立ちの決意や、そして思わぬ再会の感動も、日々の暮らしの中に織り込まれる大切な節目で、そこに付随する季節や音楽とともに、今の文明と社会に生きた証となって、刻まれてゆきます。それらがたとえ、未来の教科書に名が記され、其の将来の世界を担う子供たちにその者の教えなのだ、と触れられることも無い小さく些細な出来事であっても、自身が記憶し内に刻む、歴史です。何かの折に気づいて、天運の恵みと周りの支えに感謝しながら自らに教示する四方山の学は、生命がもたらしてくれた尊い礎であり、繰り返しに満ちた豊かな時間は安らぎの財産となります。

この度、この界隈に根差した日本語情報新聞であるジャパンニュースクラブ紙を、長年にわたり発行なさっていらした政田氏がくぎりの節目を迎えられる由を伺いました。心からの尊敬と感謝を込めましてそのはなむけに、ほぼ3年ぶりに第46話を寄稿させていただきました。わたくしはその創刊号の第一面も、鮮明に記憶致しております。この新聞は海外に於ける日本にゆかりのある地域社会の人々への身近で貴重な情報源であり、いつも人の温かさと豊富な情報量に満ちて、現在のこれほどのデジタル通信時代を迎えるそのずっと前から、助けられ励まされて参りました。今後もこの土地に生活する邦人、日系人、そして日本語を学ぶよその国籍の方々にも、大切に読まれ育まれてゆく新聞であり続けられますよう祈念し、新たな門出を祝福させて頂きます。読者の皆様におかれましても、幸多く実り多き新年となりますよう、心より、お祈り申し上げます。