心臓病治療の最前線
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友情人形・答礼人形は、1927年、日本とアメリカの関係悪化を憂いたアメリカ人シドニー・ギューリック神父の発案で行われた、日米の子供達の間の人形交換イベントでした。これに、今年発行される新一万円札の顔となる渋沢栄一が深く関わっていたことをご存じない方も多いかもしれません。本年三月三日のデトロイト美術館で行われるひな祭りにちなんで、現在、デトロイト美術館で、答礼人形展が行われています。三月三日には、答礼人形ミス秋田にちなんだ紙芝居も上演されると聞いております。みなさま、三月三日には、デトロイト美術館での雛祭りにぜひお出かけください。

シドニー・ギューリック神父は、南太平洋のマーシャル諸島で生まれ、カリフォルニアのオークランド高校を卒業後、エール大学で神学博士号を受け、1888年アメリカ伝道評議会の指示で来日してから25年間に、神父としてキリスト教の伝導に携わりながら、日本語に堪能となり日本人に英語や、科学、神学などを教え、同志社大学や、京都大学で教鞭も取りました。しかし1913年にアメリカに帰ってみると、アメリカ国内での日系アメリカ移民に対する差別が強くなっているのを見てショックを受け、地元カリフォルニアで、出身国による差別撤廃運動を行いました。しかし、その努力も虚しく、1924年にアメリカ議会で移民法が可決され、これは、議会が“望ましくない”と判断した国からの移民を停止させることができるという、事実上の日本移民排斥法でした。そこでギューリック神父他の方法を使って、アメリカ国内の反日感情を改善することを試みました。これが、国際子供親善会議で、その最初の仕事が、日本に友情人形を送ることで、これは、アメリカ国民の間で大きな反響をおこし、アメリカの子供たちが、バザーやスカウト活動で募金を募ったりした結果、12,739体の青い目のアメリカ人形が集まり、これは船に乗せられて、その年の日本の雛祭りに間に合うように届けられました。これに感謝の意を表する意味で、日本全国の児童生徒から一人1銭の募金が募られ、これを資金として、同年内のクリスマスに間に合うようにアメリカに58体の市松人形が答礼人形として送られました。日本人形たちは、それぞれの出身県の名前にちなんだ名前が付けられ、ミニチュアのお茶やお裁縫の道具セットやタンス、扇などの小物と共にアメリカに到着し、アメリカ各地を巡回したのち、各州の美術館に収納されました。残念ながら、日本とアメリカの関係はその後さらに悪化し、ついには1941年、日米戦争が始まり、1945年日本の敗北で第2次大戦が終わりました。アメリカ国内ではこれまでに答礼日本人形58 体のうちの47体が発見されました。日本ではこれまでにアメリカ友情人形12,739体のうち340体が発見されているそうです。

1927年、アメリカのギューリック博士と呼応して友情人形イベントを日本で組織したのが、日本国際子供親善会長の渋沢栄一氏でした。

渋沢栄一は、1840年、埼玉県血洗島(ちあらいじま) の富農の家に生まれました。実家は藍製造販売や養蚕で富を成しており、少年渋沢は、家業の手伝いをすることで、商業の知識や才能を磨いたと言われています。父からは漢籍の手ほどきを受けました。また、従兄弟から論語や日本史の教育を受けました。剣術もその頃に近所で神道無念流を教わったと言われています。注目すべき事は、この渋沢栄一にしろ、その1歳年下の伊藤博文にしろ、明治維新の頃に大活躍した人たちの多くは、学校にもろくに通わなかったにも関わらず、世界史に残るような偉業を遂げていることです。現在の日本の学校教育は必ずしもこのようなレベルの人間たちを産み育てることに成功していません。ハンコに押されたように、型にハマった人間だけを作ろうとする日本の学校教育は、考え直すべき時期に来ていると思います。

話がそれました。渋沢栄一は、若い頃、尊王攘夷運動の影響を受けて群馬県高崎城を占拠して横浜の外国人租界を襲撃する計画を立てますが、友人に諭されて思いとどまりました。その後親族に類が及ばぬよう父から勘当された体裁をとって、従兄弟の喜作と共に京都に出かけますが、京都では、攘夷派の長州藩勢力が一掃された八月十八日事件の直後だったため、攘夷派の伝手を求めていた栄一は、途方に暮れます。1861年、知り合いを通じて京都で将来の第15代徳川将軍一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える幕臣となり、一橋領内からの農兵の募集などで実績を上げ、主君一橋慶喜の信頼を得ました。1867年将軍の名代としてパリ万国博覧会に参加した徳川昭武(あきたけ:一橋慶喜の弟) に随行しました。そこで通訳として同じく随行したアレクサンダー・シーボルト(オランダ商館付きの医師でシーボルト事件で江戸幕府により国外追放されたフィリップ・シーボルトの息子)より語学や諸外国事情を学び、それに強い感銘を受け、パリに留学する予定を立てましたが、1868年明治維新の大政変が起きたため、主君徳川慶喜より日本帰国を命じられました。

1868年日本帰国後、渋沢栄一は、主君である徳川慶喜や徳川家に忠誠を尽くし、明治維新後に謹慎した慶喜と共に、静岡にとどまりました。しかし、翌1869年、明治政府から招待を受け、新政府に出仕することになります。明治政府内では、大蔵大輔の井上馨(いのうえかおる)の懐刀としてメキメキと頭角を表しますが、1873年、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と論争となり、上司であった井上馨と共に、明治政府から退きます。

その後は民間にあって、渋沢は日本資本主義の父といわれる大活躍をしました。複式簿記の導入、株式会社の創設、紙幣発行権を持つ中央銀行の創立は彼の数ある業績の一部です。国立第一銀行(現在のみずほ銀行)、東京株式取引所、帝国ホテル、日本赤十字なども渋沢が創立に関与したといわれています。渋沢はこのほかにも多くの日本の銀行や株式会社を創立しました。渋沢は農民の出身でありながら、華族(のちに公爵)の称号を贈られ、また正2位の位を授けられました。渋沢は、東京ガス、東洋紡、京阪電鉄、太平洋セメント、王子製紙、サッポロビール、日本郵船、東京海上日動火災保険、京釜鉄道、京仁鉄道をはじめ、500を超える会社の創立者または発起人となっています。彼はまた高等教育にも熱心で、一橋大学、東京経済大学、拓殖大学、二松学舎大学、同志社大学、早稲田大学理工学部、東京女学館、日本女子大学の設立に尽力し、東京慈恵医院や理化学研究所の設立にも尽力しました。渋沢は道徳経済合一の思想を説きました。

子爵となった渋沢栄一は1908年にはバンダーリップを長とする60人のアメリカ実業団の日本視察団を招待し、盛大にもてなしました。翌1909年には、これに応えて、渋沢はアメリカに招待され、渋沢が率いる日本実業家米国視察団は3ヶ月に渡りアメリカ各地53の都市を訪問し、盛大な歓迎を受けまた。

さらに、渋沢が率いた1915年の日本実業家代表団米国使節団は、珍田捨巳(ちんだすてみ)駐米特命全権大使の指揮のもと盛大な招待感謝セレモニーをニューヨークアストリアホテルで開催し、これには、渋沢に対する敬意を表するため、当時のアメリカ大統領タフトと前大統領セオドア・ルーズベルトが同席しました。民間外交にも尽力し、日米友好を進め、日仏学館、日本国際児童親善会などの創立にも関与しました。日本国際児童親善会長として友情人形の交換事業に携わったのは、渋沢が87歳の時でした。1931年死亡。享年91歳。

日本資本主義の父と言われる渋沢栄一。道徳経済合一の思想の提唱と実践を行い、アジアの封建主義の小国でしかなかった日本を、近代民主主義産業国家に育て上げ、国際社会の誇り高い一員とするために努力を惜しまなかった渋沢栄一、国際児童親善会会長として、答礼人形・友情人形のイベントを成功させた渋沢栄一、その名前は、日本及びアメリカの親善の歴史永遠に刻まれています。

 

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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville, Michigan 48066
Tel: 586-775-4594 Fax: 586-775-4506

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