幕末から昭和の日本人たち:明治天皇
近代日本の礎を築いた名君、大元首、第122代明治天皇は、1852年、父第121代孝明天皇の第二皇子として生母中山慶子(なかやまよしこ)から生まれました。中山慶子は父権大納言中山忠能(ただやす)と母松浦愛子の次女。母方の祖父松浦清(まつうらきよし)は平戸藩主(現長崎県平戸市)。慶子は1851年、典侍御雇として宮中に出仕し、祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を懐妊し、1852年、出産しました。中山家はわずか200石で、産屋建設の費用が賄えず、その大半を借金をしたと言われています。祐宮はそのまま中山家で育てられ、その後、孝明天皇(こうめいてんのう)に他に男児が生まれなかったため、1860年、勅令により、祐宮は孝明天皇の女御の九条夙子(くじょうあさこ)の実子とされ、親王宣下を受け、名を睦仁(むつひと)とされました。
祐宮(さちのみや)は、1867年、父孝明天皇の突然の崩御に伴い満14歳で践祚(せんそ)し、第122代明治天皇として即位されました。1867年11月9日、征夷大将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を行うと、翌日これに勅許を与え、さらに翌月王政復古の大号令を発して摂政関白の位を廃止、新たに太政官を設置し天皇親政を行うことを宣言されました。これに続く鳥羽・伏見の戦い及び戊辰戦争を通じて、約680年続いた武家政権は終わりを告げ、近代国家日本が誕生しました。1868年3月、明治天皇は、”1。広く会議を起こし、万機公論に決すべし。2。上下心を一つにしして、盛んに経綸を行うべし。3。官武一途、庶民に至るまで、各々その志をとげ、人心をして倦(う)まさらしめんことを要す。4。旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基づくべし。5。知識を世界に求め大いに皇基(こうき)を振起すべし。我が国未曾有(みぞう)の変革を為さんとし、朕(ちん)、躬を持って衆に先んじ天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民保全の道を立たんとす。衆またこの旨趣に基づき協心努力せよ。”との5箇条の御誓文を発表、明治政府の基本方針を示されました。これと同時に、明治天皇ご自身の言葉で書かれた、億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)を発表されました。明治天皇は、1868年11月、江戸城に行幸され、江戸を東京と改名し、そこを首都とされました。
1869年、一条美子(はるこ)と結婚。同年、大村益次郎の献言に従い、戊辰戦争の死者の鎮魂のために、東京九段に東京招魂社(のちの靖国神社)を建立されました。
こうして近代国家の元首となった明治天皇は、1871年散髪脱刀令が出された折には、自ら率先して散髪して、国民の模範となるよう行動されています。髷は武士の魂であり、髷を切り落とすことは、罪人となったことを意味していたため、当初は強い抵抗がありましたが、天皇陛下自ら範を垂れられたことにより、髷を落とすことが一気に加速しました。”散切り頭を叩いてみれば文明開花の音がする”という有名な狂歌が作られたのはこの頃でした。
1878年、明治三傑と呼ばれた、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)が西南戦争、暗殺、及び不治の病で次々に倒れました。木戸孝允(桂小五郎)が、京都で不治の病に倒れた時には、明治天皇は、わざわざ自宅まで見舞いに行かれるなど、細かい気遣いをされています。
1878年陸軍近衛兵部隊が武装反乱(竹橋事件)を起こし、259名が参加、8名死亡しました。394名の軍人たちが逮捕され、55名が処刑されました。この事件は、皇居を守るべき近衛兵の反乱事件として、大きな衝撃を持って受け取られました。これを契機にして、1882年、山縣有朋は、陸海軍を天皇の軍隊と規定するとともに、”忠節、礼儀、武勇、信義、質素”という5つの基本徳目を記し、軍人の政治的不関与を命じた軍人勅諭を発しました。
1879年、アメリカの元大統領ユリシスグラントが日本を訪問し、明治天皇と面会しています。
1880年、大蔵卿の大大隈重信は、不換紙幣の整理のために、5000万円の外債発行を提案しますが、この提案は、日本の国土を担保にしていたため、もし返却できなければ、抵当として外国に国土を取られる危険をはらんでいたため、伊藤博文や岩倉具視はこれに猛反対します。明治天皇は、伊藤及び岩倉に賛成し、外債発行を許可しないとの勅諭を下されました。この頃から、明治天皇は初代内閣総理大臣伊藤博文を深く信頼し、臣下である伊藤博文との2人3脚で外交や政治に関与されるようになります。自由民権運動の高まりにより、憲法制定の声が高まると、明治天皇は、1885年から1887年にかけて侍従の藤浪言忠(ふじなみことただ)をオーストリアのウイーンに派遣し、憲法学者のシュタインに連日講義を受けさせた後、帰国してきた藤浪に毎日憲法についての講義をさせ、立憲君主制の中での天皇の職務を理解しました。こうして1889年、伊藤博文が中心になって作成した大日本帝国憲法が発布されるころには、明治天皇は立憲君主制をよく理解され、その推進者となられました。1890年、明治天皇ご臨席の下、山縣有朋内閣は、第一回帝国議会を無事成功させました。
1891年、国賓として日本訪問中のロシア皇太子ニコライ2世が滋賀県大津市で警備中の警官津田三蔵に襲われる事件が起きると、大国ロシアが、これを口実に、日本を攻めてくるかもしれないとの国難の危機となりました。明治天皇は直ちに名代を送り、ロシア皇太子の見舞いをさせる一方、翌日自ら新橋駅から鉄道で京都へ行幸し、ニコライ2世を宿泊場所京都常盤ホテルに見舞われました。その後ニコライ2世が今後の日本旅行をキャンセルし、直ちにウラジオストックへ向かうとの報に接すると、明治天皇主催の別れの晩餐会を提案されましたが、逆に、神戸港に停泊中のロシア艦艇への単身での晩餐会への招待という逆提案を受けました。天皇が拉致されてしまう可能性を心配する伊藤博文などの反対を押し切って明治天皇はこの招待を受けられ、単身ロシア戦艦に乗り込み、立派にその任を果たし、無事下船されました。これは、国難の危機に臨んでの明治天皇の胆力と責任感の強さを世界に示した事件でした。
また、1892年第2次伊藤内閣の下で、政府と議会の対立で予算成立が難航した際、明治天皇は、和協の詔勅(わきょうのしょうちょく)を出し、明治天皇自ら今後10年間皇室費の10%を削ってこれを国家予算に差し出し、これにより予算不足の埋め合わせとするという提案をして、和睦による予算成立を成功させました。これは明治天皇がいかに日々の政局に関心を持ち、生まれたばかりの立憲君主制を維持するために心を砕き、関与していたのかを示す良い例でした。
1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発し、これを平定するために、閔妃が清に出兵を要請し、天津条約に基づいて日本も出兵すると、日清戦争が起きました。明治天皇は当時の日本の線路の西の果て広島に大本営を置き(1894年6月5日から1896年4月1日まで)、日本の首都を広島に遷都されました。明治天皇は、兵たちと苦楽をともにするため、暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続け、陣頭で指揮をとられました。日本と朝鮮は、大日本大朝鮮盟約を締結し、朝鮮の兵隊たちと共に清と戦い、連戦連勝して日清戦争に勝利しました。牛荘を制圧した後、大本営を広島から遼寧へ移し、天皇陛下自ら前線で指揮をする案が検討されましたが、これは廃案になりました。1895年の牛禁峙の戦いでは、日本朝鮮連合軍は、全琫準の率いる東学党軍に対して決定的な勝利を収め、甲午農民戦争は収束に向かいました。朝鮮では、1897年、清からの独立を祝って、ソウルに独立門が建設されました。
しかし、三国干渉で、日本が遼東半島の返還を余儀なくされると、日本弱し、ロシア強しの妄想に駆られた朝鮮王高宗は、1896年、ソウルのロシア大使館に逃げ込んで、ロシア大使館の中から政治を行うという、前代未聞の行動に出ます(露館播遷:1896−1897)。また1896年、朝鮮の近代化を進めようとしていた総理大臣の金弘集を宮殿内で執務中に逮捕させ、群衆に撲殺させるという非道な行為を行います。1903年には、高宗は、鴨緑江左岸の港、龍巖浦租借条約を結び、ロシアに軍港建設の事実上の許可を与え、ロシアの朝鮮支配を進めようとしたため、これに危機感を抱いた日本とロシアの全面戦争が始まりました。日露戦争は、陸海で日本の一方的大勝利に終わりました。これは、おそらく日本を含めて、誰も予測しなかった大勝利でした。
明治天皇は日露戦争で手柄を挙げた乃木将軍を信頼し、山縣有朋による乃木の陸軍参謀総長への推挙を却下し、自分の孫(のちの昭和天皇)を教育させるために、1907年、乃木を、現役武官のまま、勅令で学習院院長に任命されました。
しかし、1909年、明治天皇の最も信頼した臣下であった伊藤博文が、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根により暗殺されるという悲しい大事件が起きました。同年、明治天皇の指示により、伊藤博文の国葬が行われました。伊藤博文は1841年生まれ。明治天皇より11歳年上でした。
明治天皇は、1912年、糖尿病による尿毒症でお亡くなりになられました。享年59歳。乃木大将は明治天皇の後を追って殉死しました。
680年続いた武家政権を終わらせ、近代日本を作り上げるという大事業を先頭に立って行い、また国の危機に臨んでは、自ら進んで道を開かれた偉大な名君、大元首の明治天皇。その御稜威は日本の国の歴史の上に永遠に輝いています。
写真:京都市伏見区にある明治天皇陵
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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
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