
明石元二郎(あかしもとじろう)
日露戦争の勝利の陰の大功労者、死して台湾の護国の鬼となる。
明石元二郎は、福岡藩士の息子として1864年生まれました。陸軍幼年学校を経て、1883年、陸軍士官学校を卒業、1889年、陸軍大学校を卒業しました。ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て1901年にフランス公使館付陸軍武官となりました。1902年にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任しました。1902年、ロシアペテルスブルグのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイ、シドニーライリーと知り合い、友人となりました。明石の依頼により、1903年より、ライリーは建築用木材貿易商に偽装して戦略的要衝であった遼東(りょうとう)半島の旅順(りょじゅん)に移住し、木材会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や旅順要塞の図面などをイギリス及び日本にもたらしました。1904年、日露戦争が開戦すると、駐ロシア日本公使館は中立国スエーデンに移り、明石はここを本拠に、ロシア国内での後方破壊活動やスパイ活動をおこないました。また、ポーランド、フィンランド、スエーデンなどの反ロシア地下抵抗組織などへの資金提供や情報提供などもおこないました。ロシア共産党ボルシェビキの首魁レーニンとの会談や、戦艦ポチョムキンの反乱の背後に明石がいたという説もあります。ドイツ皇帝ウイルヘルムが”明石元二郎一人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果をあげた。”と称したと言われています。こうした明石の活躍もあり、また陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)将軍に率いられた大日本帝国陸軍は203高地を占領し旅順港を攻略した後、クロパトキン将軍の率いるロシア陸軍を奉天(ほうてん、現在の瀋陽シェンヤン)北方まで駆逐し、また、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)将軍に率いられた大日本帝国海軍は、旅順軍港を基地にしていたロシア海軍を無力化した後、世界最強といわれたバルチック艦隊を日本海海戦において、東郷ターンと呼ばれる奇抜な戦法を用いて、完全に殲滅することができました。こうして日露戦争は、世界中の誰もが予想しなかった、日本軍の大勝利という結果に終わり、軍事大国ロシアに勝利した日本は、世界中の被抑圧民族に大きな希望を与えました。
しかし、日露戦争後は、こうした明石の活躍は日本国内や陸軍内部で評価されず、情報将校としての明石の経験は陸軍内で受け継がれず、情報戦を軽視したその後の日本帝国軍の悲惨な末路につながりました。1918年、明石は、情報とは全く無関係の台湾総督に任命されました。そこで明石は、心機一転、台湾経営に情熱を捧げました。台湾電力を設立し台湾における水力発電を推進し、また、急勾配が多く輸送上のネックとなっていた山中線と並行して新たに竹南駅から彰化駅を直線で結ぶ海岸線鉄道を敷設し、台湾の南北鉄道輸送を大幅に改善しました。また、明石は、台湾人にも均等に大学進学の機会を与えるよう法改正をし、華南銀行を設立するなど、台湾人のための善政を行ないました。また八田與一(はったよいち)が台湾南部の15万ヘクタールの嘉南(かなん)平野の水害を防ぎ、灌漑を行なって農業を盛んにするための烏山頭(うさんとう)ダムの建設及び嘉南大圳(かなんたいしゅう)水路網を計画したとき、これを承認し、当時の台湾の年間予算の3分の1を支出することを決めたのも明石でした。1919年、明石は台湾から本土への公務の途上で病死しました。享年56歳。”余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。未だ実行の方針を確立せずして中途に倒れるは千載の恨み事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず。”との遺言により、遺体はわざわざ福岡から台湾へ移され、台北市林森公園に埋葬されました。
日露戦争の陰の英雄であり、台湾の護国の鬼となった明石元二郎は、世界史の2度の全く異なった舞台で、大変重要な役割を果たした稀有の人物でした。
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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
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