心臓病治療の最前線
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パッテンライ!!  台湾の水利事業に身を捧げた日本人。八田與一(はったよいち)

台湾南西部に位置した最大の平原、旱魃(かんばつ)に悩んでいた15万ヘクタールの嘉南(かなん)平野を緑の沃野(よくや)に変え、今も台湾の人々から高く尊敬されている日本人がいます。八田與一がその人です。八田はその功績により、台湾では広く名前が知られていますが、残念な事に日本ではその名前があまり知られていません。今日は、その八田與一の話をします。

八田の業績は、現在、台湾の中学生向け教科書<認識台湾 歴史編>に詳しく紹介されており、ほとんどすべての台湾の中学生が八田のことをよく知っていると言われてます。2004年、故李登輝台湾総統が来日した時、八田の故郷金沢市をわざわざ訪問しています。また八田の作った烏山頭(うさんとう)ダムでは、毎年、八田の命日である5月8日に慰霊祭が行われています。2008年には、八田の住んでいた宿舎跡が復元されて、5万平方メートルの八田與一記念公園が建設されました。2011年には、台南市の主要道路のひとつが八田路と名付けられました。

八田の没後80年にあたる昨年2022年の5月8日の慰霊祭では、頼清徳台湾副総統が八田の偉業をたたえた上で、”台日の友人関係を一層強化させ、国際社会の諸問題に対応していきたい。”と述べたと言われています。

八田の業績と嘉南の人たちとの触れ合いを取材したテレビドキュメンタリー番組<テレメンタリー96たった一つの銅像ーー衷心感謝八田與一先生ーー>が1996年、日本のテレビ朝日系列で放送され、また2008年には、八田を描いた長編アニメ映画、<パッテンライ!!南の島の水物語>が日本で制作されました。<パッテン>は、八田の中国読みで、ライは中国語で<やってきた!>の意味で、八田與一がやって来た!との嘉南平野の人々の興奮と感謝を表している言葉のようです。

八田與一は1886年、石川県花園町(現在の金沢市)に生まれ、1910年東京帝国大学工学部土木科を卒業、台湾総督府内務局土木科の技師として就職しました。そこで、台湾水道事業の父と呼ばれている浜野弥四郎(はまのやしろう)に出会い、その部下として仕事をする中で、多くのことを学びます。浜野は八田と同じ東京帝国大学工学部出身の先輩でした。八田は浜野の下で、嘉義(かぎ)市、台南市、高雄市などの上下水道整備に携わりました。1914年、28歳の八田は、当時着工中であった桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事を一任され、それを成功させて高い評価を受けました。1919年、浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立しました。

烏山頭ダム隣接の八田與一記念公園に建てられた八田與一の銅像
台湾本島地図。嘉南平野は台湾最大の平野

1918年、八田は嘉南平野の水利事業に取り組むこととなります。嘉南平野は台湾の南西部にある、台湾海峡に面した台湾最大面積を誇る平野ですが、台湾で最も降雨量の少ない地域で、特に冬には雨が降らないため、旱魃に悩まされる不毛不作の土地でした。八田は1920年、当時世界最大のダム、烏山頭(うさんとう)ダムを設計し、その建設許可を申請しました。当時の台湾総督は日露戦争の英雄明石元二郎(あかしもとじろう)で、当時の台湾の年間予算の3分の1を支出することになるこの大計画を承認しその予算獲得のため奔走しました。八田は、国家公務員の職を進んで捨て、新たに結成された官佃渓埤圳組合(のちの嘉南大圳(かなんたいしゅう)組合)の専属技師として1920年から10年間、ダムと水路の建設を陣頭指揮し、烏山頭ダムから嘉南平野の隅々まで水を送る水路を張り巡らせ、台湾で最大規模の農業灌漑施設である嘉南大圳(かなんたいしゅう)を1930年、完成させました。烏山頭ダムは満水面積1000ha、有効貯水量一億5000万立方メートルの当時世界最大のダムで、そこから嘉南平野に張り巡らされた水路の総距離16000㎞の壮大な農業灌漑施設でした。これは、それまで旱魃に悩まされていた台湾最大の平野、嘉南平野を肥沃な農作地帯に変えました。八田のとったセミハイドロフィリック工法はコンクリートをほとんど使用しない工法で、同時期に建設された他のダムと比べてもはるかに長持ちし、烏山頭ダムは現在もしっかり稼働しています。

ダムによって出来上がった烏山頭貯水池は、緑色の珊瑚のように見え、その美しさから珊瑚湖と呼ばれています。北東に聳える富士山より高い3,952メートルの台湾最高峰玉山とともに、台湾の最も美しい景勝地の一つです。

この嘉南大圳により、嘉南平野は台湾一の穀倉地帯となり、米の三毛作、砂糖きび、ピーナツ、とうもろこし、サツマイモなどが生産されるようになりました。これを受けて、嘉南平野は、嘉義市、台南市、高雄市など台湾南部の主要大都市を育み、この地域が、台湾の産業の中心を占めるようになりました。

1942年、灌漑調査のため広島宇品港からフィリピンに向かう船が五島列島付近でアメリカ軍の攻撃を受けて沈没、この船に乗っていた八田も死亡しました。享年56歳。

八田與一とその偉業は台湾の人々の心に深く刻まれています。

 

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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

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