
昭和の妖怪と呼ばれた男:
昭和時代を通して常に権力の中枢にあり、昭和の妖怪と言われた岸信介は、私の故郷の大先輩です。
山口で生まれ、東大法学部を歴史上最高の成績で卒業:
1896年山口県庁官吏の佐藤秀介と母茂世(もよ)の第5子(次男)として山口県吉敷(よしき)郡山口町八軒屋(現在の山口市、山口駅近くと記載されている資料もあり、天花(てんげ)八軒屋と記載されているものや上竪小路(かみたてこうじ)付近との記載もあり、山口市内ではあるものの正確にどこであったのかは筆者には不明。いずれにせよ筆者の生まれ育った町です。)で生まれました。信介が3歳になった時、父は公務員を辞め、郷里の山口県熊毛郡田布施(たぶせ)町に戻って、酒造業を始めました。信介は、岡山で尋常小学校及び中学校に通ったのち、山口中学(現在の県立山口高校、筆者の母校)に転校、卒業直前に岸家の養子となり、岸信介を名乗るようになりました。一高から東大法学部に進み、1920年クラスの首席かつ東大法学部の歴史上最高の成績で卒業しました。東大卒業後、岸は農商務省に入省、当時はこの選択は奇異の目で見られました。というのは、東大法学部をトップで卒業した岸が農商務省という当時のエリートコースから外れた省に入省したことは世間から見れば驚きだったからでした。岸は、経済に興味があったといわれています。1926年から1927年、岸は、アメリカ、ドイツ、及びソビエトに旅行し、ソビエトの計画経済、アメリカのフレデリックテイラーの唱えた科学的生産性向上理論、ドイツの工業貴族とその工業技術水準の高さに感銘を受けて帰国しました。このあたり、戦前の日本のエリートの海外旅行は多くの場合、ただ物見遊山の観光ではなく、海外から少しでも優れたものを学び、日本の国を少しでもよくしたいという目的であったことに感動します。岸は改革派官僚の旗手として国家主導経済政策を推進しました。ちょうどその頃、岸の才能を発揮する絶好の機会が訪れます。1931年、満洲帝国の成立でした。
岸信介、満洲に渡る:
満洲は、もともと清朝を建てた女真族の故郷でしたが、19世紀後半、清朝の勢力が衰えるのに乗じてロシアがその地に勢力を伸ばしました。そのロシアが1905年日露戦争に負けて満洲南部から手を引かざるを得なくなると、満洲全土は紅髭子と呼ばれた馬賊のはびこる無法地帯と化しました。南満洲鉄道の経営権を譲り受けていた日本は、清朝はすでに滅びていたため、この馬賊のはびこる無法地帯を自分でなんとかしなければならなくなりました。こうして関東軍参謀の石原莞爾らの計画により、1931年の満洲事変がおき、満洲帝国が成立しました。
民間投資型の計画経済モデル満洲重工業開発株式会社を設立させる:
岸は、1936年、満洲国国務院実業部総務司長に就任して渡満、1937年、満洲帝国産業部次長に任命されました。岸は満洲国の中に広く深い人脈を築き、計画経済、統制経済を大胆に取り入れ、重工業中心の満洲産業開発5ヵ年計画案を発表し、岸は、官僚であったにもかかわらず、国営企業中心の経済政策に反対し、民間投資型の計画経済モデル満洲重工業開発株式会社を生み出し、その中心に新興財閥日産の鮎川義助を選びました。岸が、ありふれた官僚でなかったことがよくわかります。これにより、この会社は、一社で当時の日本の国家予算25億円をはるかに上回る52億円の投資を呼び、その後の満洲の重工業発達の一大原動力となりました。現在中華人民共和国の東北地方と呼ばれているこの地方が重工業の中心地域として栄えているのはこの時の岸の働きがあったからといえます。この岸が作った経済発展モデルは、第2次大戦後の日本の高度経済成長、韓国朴正煕(パクチョンヒ)が行った1950年以降の経済開発、中華人民共和国の鄧小平(デンシャオピン)が行った1980年代の計画経済発展のモデルとなったと言われています。
近衛文麿に入閣し通産大臣となるが既存財閥の猛反対にあい辞職:
1939年、岸は、近衛文麿内閣の通産大臣となり、満洲国で成功した計画経済を日本国内にも適用しようとしましたが、既存財閥の猛反対に遭い、岸は共産主義者だと言われて、1940年辞職しました。しかし1941年東條英機内閣が成立すると、東條は岸を通産大臣に指名しました。東條は満洲国時代の岸の働きを知っており、岸を自分の右腕として使おうと考えたと言われています。
東條英機内閣を崩壊させる:
しかし、1944年、岸は東條英機の始めた対米戦争は勝算がないと考えるようになり、対米和平工作を探るようになりました。岸は、サイパン島陥落ののち東條が内閣再編成をするのを阻止し、東條内閣を崩壊させました。1945年岸は護国同志会を結成し、大政翼賛会に対抗しました。岸は32名の国会議員を護国同志会に参加させることに成功しました。1945年日本が連合軍に無条件降伏をすると、岸は巣鴨刑務所に拘置されました。しかし、元駐日アメリカ大使ジョセフグルーなどの努力により、岸は、戦後の日本をアメリカの利益に沿って復興させる最適の人物とされ、岸は1948年、起訴も裁判もされないまま釈放され、A級戦犯とはみなされませんでした。
日本再建連盟を組織し憲法九条の改定を目指す:
1952年、サンフランシスコ講和条約が成立し、元の大日本帝国の官僚たちの公職追放が解除になると、岸は護国同志会を基礎に、日本再建連盟を組織し、日本が再武装しなければ、隣国の侵略に備えることができないとして、日本国憲法第9条の改定を目指しました。しかし岸は1952年の総選挙に大敗し、それにより日本再建同盟も解散を余儀なくされました。岸は社会党に参加しようとしましたが、それを断られ、仕方なく自由党に参加しましたが、アメリカ一辺倒で憲法9条の改定にも乗り気でなかった吉田茂とは意見が合わず、吉田を党首から引きずり落とそうとしましたが、1954年、逆に吉田により、党から追放されてしまいました。
保守合同を成功させ、第56代日本国総理大臣となる:
この頃までには、岸は200名余りの国会議員勢力を持ち、岸はこれを率いて鳩山一郎の民主党に加盟しました。岸は党の総秘書として党の財政を完全に掌握しており、鳩山は岸の担ぐお神輿(みこし)の上のお飾りに過ぎなかったと言われています。1955年、民主党は総選挙に勝ち、吉田茂が総選挙での敗戦の責任を取って自民党総裁を辞任したため、岸は、これを保守合同のチャンスと見て自由党と民主党の合同を成功させました。鳩山一郎が新たに結成された自由民主党の総裁となりました。岸は新党の総書記として党の財政を握り、1956年の自由民主党の総裁選挙に岸は出馬し、投票で1位を獲得しましたが、、2、3位連合を成功させた反米主義者の石橋湛山(いしばしたんざん)が数の上で逆転して自由民主党の総裁となりました。しかし石橋湛山が65日後に脳卒中で退陣すると、岸は晴れて自由民主党総裁及び第56及び57代日本国内閣総理大臣となりました。遂に岸が内閣総理大臣としてその政治上の才能と才覚を存分に発揮する機会が訪れたのでした。
1960年日米安全保障条約の改定に成功した後、辞職する:
岸はこれに先立つ1955年、重光葵(しげみつまもる)外務大臣と同行して、鳩山政権の幹事長として訪米し、当時のアメリカ国務長官ダレスと会談し、重光は日米安保条約の対等化や日本のアメリカ防衛などについて提案しましたが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に強く反対したと言われ、岸は強い衝撃を受け、この時から、日米安保条約の改定が岸の重要課題となったと言われています。こうして、岸総理大臣の政策の主眼は、日米安全保障条約の改定、日本国憲法改定、とりわけ9条の改定、日本と近隣のアジア諸国との関係改善、及び、いまだに刑務所で服役中のBC級戦犯の恩赦と釈放でした。当時の日本は、マスコミも社会も、学生たちも、強く左翼色に染め上げられており、岸は極悪非道の悪党のように語られていました。学生たちのデモが国会議事堂を取り囲み、岸の退陣を声高に求め、マスコミもこれを大いに煽りました。しかし、岸は自分の信条を譲らず、日米安全保障をより相互性の強いものにした上で改定することに成功しました。岸は、1960年、日米安保条約の改定を果たすと辞職し、後継を池田勇人に譲りました。岸の主張は、今から考えてみると、非常に真っ当なものだったと思われ、当時の日本がいかに左翼色に染められていたのかが感じられます。
暴漢に襲われて大腿を六回にわたって刺される:
岸は1960年7月14日暴漢に襲われて、大腿を六回刺される重傷を負いました。岸は直ちに病院に運ばれ手当を受けました。幸い傷は大きな動脈を逸れており、生命の危険はありませんでした。岸はその後も日本の政財界に大きな影響を及ぼし続けました。1987年死去。享年90歳。のちの首相佐藤栄作は実の弟。のちの外務大臣安倍晋太郎は義息。元総理大臣故安倍晋三及び元防衛大臣岸信夫は孫。
今日の東アジアの産業発展の元を築いた男、岸信介:
優れた才能を持ち、その才覚で、不毛の地であった満洲を一大重工業地帯に変え、日本の戦後の高度成長を推進し、韓国の朴正煕や、中華人民共和国の鄧小平などが手本として見習った稀有の人物、岸信介、その生涯は波乱に満ちており、昭和の妖怪などと悪口を叩かれましたが、岸の経済手腕の確かさは歴史が証明済であり、政治家としての岸についても、当時の左翼に偏向していた日本のマスコミ、社会の色眼鏡を取り除いてみれば、岸の主張は真っ当であり、それを理解できなかった当時の日本人こそが、反省すべき時期になってきていると思われます。現在の世界の中で、東アジアが今の立ち位置にあるのも、この地域の経済産業を大発展させた剛腕官僚岸一人の才覚に負うところが大きいと言えるかもしれません。政治家岸が目指した日本の防衛態勢の強化、憲法九条の改定はいまだに実現していません。
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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
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