心臓病治療の最前線
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台湾の英雄国姓爺を産み育てた田川松(1601−1646)

17世紀の初頭、日本では徳川家康が、江戸に徳川幕府を打ち立てた頃、大陸でも大きな変化が起ころうとしていました。この大激動の時代に台湾の英雄国姓爺(こくせんや)を産み、育てた日本人のことはあまり知られていません。彼女の名前は田川松(たがわ・まつ)。肥前国松浦郡(ひぜんのくにまつうらぐん)の平戸(ひらど)で、平戸藩士田川七左衛門の娘として1601年に生まれました。平戸に住んでいた3歳年下の福建省生まれの鄭芝龍(ていしりゅう)と結婚し、1624年、鄭成功(ていせいこう)を生みました。鄭成功の幼名は福松。今日のお話は、この鄭成功、のちに国姓爺と名乗り、オランダの植民者を打ち破り、台湾の守護神となった英雄とその母の物語です。

さて、14世紀に打ち立てられた漢人の政権である明(みん)が李自成(りじせい)の反乱で滅び、明朝最後の皇帝の崇禎帝(すうていてい)が1644年、北京紫禁城(しきんじょう)の裏山で首を吊って自殺すると、満州で建国して勢力を伸ばしていた女真族(じょしんぞく)の清(しん)が万里の長城を超えて北京に攻め込み、李自成軍を紫禁城から追い出して、北京を首都とする大清帝国を打ち立てました。これに対して、中国大陸南部に避難していた明朝の皇族と官僚は、南明を建てて清に抵抗しました。この大乱世に登場したのが国姓爺です。

まずは、父、鄭芝龍はどんな人だったのでしょうか?

鄭芝龍は、1604年、福建省生まれ。17-8歳の頃、不行により父に勘当されました。この不行については、様々な説があり、父の妾のスカートの下に手を入れているのが見つかったためだとも言われています。家を追い出された後、キリスト教の洗礼を受けたあと、鄭芝龍は商船に乗り、日本の平戸で徳川幕府との間の朱印船貿易の長であった李旦(りだん)の配下で頭角を現し、1624年、平戸で日本人田川松との間に息子福松、のちの鄭成功(ていせいこう)をもうけました。その後、鄭芝龍は李団の右腕として、メキメキと勢力を伸ばし、李団の死後、その跡を継いで南シナ海を統括する大海賊として、400隻の船と1万人の配下を持つまでとなり、彼の率いる十八芝(シバチ)海賊軍団は、福建省及び南シナ海全域とを制覇するようになりました。明は、鄭芝龍に攻撃をかけましたが、鄭芝龍は、明の軍団を破り、敗れた明は、懐柔策に転換し、鄭芝龍に明の海軍大将になるよう説得しました。こうして、1628年、鄭芝龍は明の海軍大将となりました。鄭芝龍は母国語の他に日本語、ポルトガル語およびオランダ語が話せたと言われています。しかし、鄭芝龍の運はここまででした。明が1644年、李自成の反乱で滅び、清朝が成立し福建省に侵攻してくると、1646年、鄭芝龍は明を裏切り、福建省に亡命政権を立てていた明の皇帝隆武(りゅうぶ)を清に売り、清に投降しました。その後鄭芝龍は清に取り立てられ、北京に住みましたが、息子の鄭成功が、清に反旗を翻し、鄭芝龍はその説得服従工作に失敗したため、清から官位を剥奪され、1661年、処刑されました。享年57歳。

次は母、田川松の話です。

1601年、肥前国平戸藩士の田川七左衛門(たがわしちざえもん)の娘として生まれました。当時平戸を根拠地として活躍していた3歳年下の明国福建省の海商鄭芝龍(てい・しりゅう)の妻となり、1624年田川福松(のちの鄭成功・ていせいこう、国姓爺・こくせんや)、続いて田川七左衛門(祖父と同名)の二人の息子を産みました。福松が7歳になった1631年、福松は父のいる福建州に渡りました。松は、しばらくして福松と鄭芝龍を追って、福建省に渡りました。この時幼い七左衛門は、田川家の後継として平戸に残されました。1646年、清による福建州侵攻の際、田川松は、清軍に邸内に攻め込まれて清国への服従を要求されましたが拒否し、自害しました。享年45歳。日本の平戸市の千里ヶ浜に、田川松が貝拾いをしている最中に産気付き、岩にもたれて鄭成功(ていせいこう)を出産したとして、その岩が児誕石として顕彰されている史跡があります。鄭成功の弟、田川七左衛門の子孫は今も平戸市に在住していると言われています。

さて、国姓爺の話です。

1624年、肥前国平戸(現在の長崎県)に明の海賊鄭芝龍と日本人の母、田川松の間に生まれました。幼名福松。7歳まで平戸で母のもとで過ごし、1631年、明朝支配下の福建省に父を訪ねて移り住みました。1646年清が福建省に侵攻してきた際、父鄭芝龍は清に降伏投降しましたが、鄭成功は、父に従わず、残った将軍たちを率い、南明の隆武(りゅうぶ)皇帝をいただいて、福建省で明朝復興のための戦いを開始しました。鄭成功は、隆武帝に国姓爺(こくせんや、皇帝から国家の姓を授けられたもの)の姓を賜り、また成功という名も授かりました。鄭成功は国姓爺の名前を好んで使いました。鄭成功は、当初破竹の勢いで清朝政府軍を撃破し、南京に迫る勢いでしたが、一気に南京を攻めることをためらい、大軍を整えてから攻撃する方針に切り替えたため、清朝軍は息を吹き返し、鄭成功は南京攻略に失敗しました。その後、鄭成功はオランダの植民地となっていた台湾に侵攻し、台湾の原住民と協力してオランダ軍を破り、1661年、台湾に鄭(てい)朝を打ち立てました。鄭成功は、台湾原住民に農業を教えました。またフィリピン攻撃も計画し、当時フィリピンを支配していたスペイン人たちは、鄭成功の攻撃に備えて、南部のミンダナオ統治を諦めて北部に兵力を回さざるを得ませんでした。鄭成功は台湾を根拠地として、本土への反抗の機会を窺いました。しかしその夢は叶わず、1662年マラリヤで死亡しました。江戸時代の人形浄瑠璃作家近松門左衛門は、国姓爺を題材にした国性爺合戦(こくせんやがっせん)を制作し、大ヒットとなりました。台湾人の間では、鄭成功は国姓爺、Koxingaと呼ばれ、台湾の守護神として篤く信仰されています。享年38歳。

児誕石:長崎県平戸市千里ヶ浜。Birth Rock of Zheng Chenggong, in Hirado, Japan by Niccolo, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

田川松と国姓爺母子像 Koxinga and his mother in Japanese Fuku. Koxinga Ancestral Shrine(鄭成功祖廟) Tainan , Taiwan by koika, CC BY-SA 3.0

田川松と国姓爺母子像 Koxinga and his mother in Japanese Fuku. Koxinga Ancestral Shrine(鄭成功祖廟)
Tainan , Taiwan by koika, CC BY-SA 3.0

 

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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

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