心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

江戸時代に、歩測と天体観測で子午線1度の距離 を求め、正確な日本沿岸地図を作った伊能忠敬。

伊能忠敬(いのうただたか)は、江戸時代中期の 1745年、上総国(現在の千葉県山武郡)佐原村の名 主の家に小関三治郎として生まれました。6歳の時に母 を亡くし、小関家は叔父が継ぐことになったため、婿 養子であった父神保貞恒(じんぽさだつね)は家を出、 三治郎は小関家の祖父母のもとに残りました。10歳の 時三治郎は父親のいた神保家に引き取られましたが、 父は神保家の当主ではなかったため、そこでも三治郎 は肩身の狭い思いをしていたと考えられています。

1762年、三治郎は17歳の時、土地改良事業の現 場監督として良い仕事ぶりを発揮したことが認められ て、同じ佐原村の酒造家の伊能家の当主が死んだ後 の跡取りとして婿に迎えられ、名前を伊能忠敬と名 乗りました。この時忠敬は17歳、妻のミチは21歳でし た。佐原は天領で、武士は一人もおらず、利根川を利 用した水運業の中継地として栄え、人口も当時五千人 を数えていたと言います。佐原には2つの酒造家があ り、忠敬が婿入りした当時は、伊能家は永沢家に比 べて、家業は小さく、家格も下とされていました。この 伊能家の再興の希望を託された忠敬は、家業の酒造 り、運送業、地主、薪販売業などで才覚を発揮し、名 主として佐原の村を取りまとめる行政手腕も発揮し、 伊能家を再興、繁栄させ、永沢家と同等またはそれ 以上の規模の家業の家にすることに成功しました。

1783年、浅間山の大噴火により、天明の大飢饉が 起きると、村民を代表して奉行所に年貢の軽減を願 い出て認められました。さらに、忠敬は、その後の関 東一円の米の不作を見て、将来の米の値上がりを見 込んで関西方面から大量の米を買い付け、それを売ら ずに貯蔵しました。米の値下がりは続き、借金は増え 続け、周囲からは米を売って借金を減らすように助言 されましたが、忠敬は米を売らず、その貯蔵を続けまし た。すると、その年の7月偶然にも利根川の大洪水が 起こり、佐原の農民は、その日に食べる米もなくなると いう事態が起こり、忠敬は、村の有力者と相談しなが ら、蓄えていた米を少しずつ困窮者に分け与えたため、 佐原村からは一人の餓死者も出なかったと言います。

その後、1787年江戸で天明の打ち壊しが起きた時 も、忠敬は役人に金を与えるぐらいなら農民に金を与え るほうが良いと主張し、農民救済に努めたため、佐原村 は打ち壊しの被害を出さなかったと言われています。こ うして飢饉を乗り切ったあと、忠敬は残りの米を売り払 い、これにより多額の利益を得ることができました。 この頃までに、伊能忠敬は、趣味として、暦学に興味 を持ち、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強し たり、天体観測を行ったりするようになっており、天文 学への熱が高じて、それまでの全ての暮らしを打ち捨 てて、好きな天文学を勉強したいと思うようになって いたと言います。忠敬は、地頭所に何度も隠居を願い 出ましたが、佐原村での伊能忠敬の行政手腕を必要 としていた地頭所は、なかなか承知しませんでした。  1794年、伊能忠敬は50歳の時、地頭所に隠居を 願い出て、やっと承認されました。1794年、息子に家 業を全て譲り、江戸に出て、当時31歳、19歳年下の新 進気鋭の暦学者高橋至時(たかはしよしとき)に入門 し、本格的に天体観測と暦の勉強をはじめました。

当時師匠の高橋至時は、幕府から、暦の改訂を命 じられており、正確な暦を作るためには、地球の大き さや、緯度一度に相当する子午線弧長、日本各地の 緯度経度を知ることが必要との結論に達していまし た。忠敬は地球が球体であることを知っており、彼の 興味は、緯度1度の距離を求めることでした。忠敬は 晴れた日には毎日、太陽や星の南中高度を測定し、 毎日それを日記に記録することを5年間続けました。 こうして、日々の太陽や星の南中高度から緯度差を計 算することに自信を持った忠敬は自ら行った観測によ り、自宅と浅草の暦局との緯度差は1分であることを 割り出しており、これにより、その距離を正確に測定 すれば、それを60倍すれば子午線1度の距離を求め ることができると考えていました。しかし、師匠の高 橋至時は、緯度一度に相当する子午線弧長を正確に 測るためには、江戸から蝦夷地(えぞち、現在の北海 道)ぐらいの距離の測定が必要と考えていました。

折りしも、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まって おり、至時は、幕府に、江戸から蝦夷地までの測量を 願い出て、これが許可されました。忠敬は、1800年、 4月、五人の供を連れて出発、11月までに3,244キロ メートルを徒歩で踏破し、それぞれの地点でのそれ ぞれの暦日での天体の南中高度を測定し、江戸深川 との当該暦日での南中高度差を求めることによりそ の地点の深川との緯度差を計算することで、北日本 から蝦夷地までの測量を終え、地図を完成させ、こ れを幕府に提出しました。船からでは当時の技術で は測量が不正確になるため、できるだけ海岸線を歩 くという方法で測量が行われました。この時の費用 は、その大部分が忠敬自身の懐から払われたと言わ れています。このとき忠敬は1度の子午線弧長を27 里余りと計算しました。この地図の正確さが幕府に高 く評価され、その後、幕府からも補助が出され、忠敬 は、伊豆、本州東海岸、東北日本海岸、東海北陸、 近畿中国、四国、九州、種子島屋久島、伊豆諸島、江 戸府内、と、計10次に渡る測量を幕府の事業として 完成させました。第十次は江戸府内の測量に費やさ れ、それまで測量の基点がまちまちであったのを江 戸日本橋基点に統一することで今までの地図を1枚 の大きな地図にまとめ上げることを目的としました。

井上ひさしによれば、伊能忠敬はこの十回の測量旅 行中におよそ合計35,000キロメートル、歩幅を約90 センチとして計算するとおよそ4000万歩を歩いたとさ れますが、実際の伊能忠敬の歩幅は約69センチと記 録されており、それで計算すると約5,072万歩を歩い たことになります。岩場や、山、崖、砂浜、川やぬかる み、橋、田んぼ、曲がりくねった道などを考えると、さ らにものすごい距離を忠敬は歩いたことになります。

忠敬の地図は、暦学と天文学の知識を駆使して各地 の緯度差に基づいて製作された大変正確なものでし た。しかし東西方向の距離については、当時の技術で は歩測や、基準点からの方角による三角関数の計算に よって求めるしかなかったはずで、忠敬が、まず南北 に長い東北地方や蝦夷地を最初に選んだ理由はここ にありそうです。南北に長い九十九里浜のそばで育っ た伊能忠敬が、この九十九里浜を使って、緯度と距離 の計測を何度も試してみたのではないかと私は密かに 考えています。

忠 敬は東北や蝦夷地で経験を積んだのち、 中国地方などの東西に長い地域の地図制作も手掛 けることになりました。忠敬は別々に作成された地 図をぴたりと合わせるための理論や方法を持ち合 わせておらず、それには大変苦労したようです。忠 敬は自分で各地でそれぞれの暦日での太陽や星の 南中高度を精密に測定して、緯度差を割り出し、地図を作成しましたが、これは現在の地図制作の 主流である三角図法ではありません。緯度を使う方 法は、現在では使われていませんが、三角形を次々 つなげていく三角法が、三角をつなげるごとにその 誤差を拡大する危険があるのに対し、緯度は、その 測定が正確である限り、前の測定には影響されな いため、独立の精度を持っている利点があります。

1818年、忠敬が73歳で死亡したときはまだ全図は 完成していませんでしたが、これが、弟子である間宮 林蔵が1817年持参した蝦夷地の測量地図と合わせ て、1821年、大日本沿海輿地全図(だいにほんえんか いよちぜんず)として、高橋至時の息子高橋景保(た かはしかげやす)によって完成され、幕府に提出され ました。これは、史上初めて実際の測量を基に科学 的に作られた、正確な日本沿岸の地図でした。これは 伊能図と呼ばれ、それは、縮尺36,000分の1の大図、 216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、 大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲を カバーしていたと言われています。このほかに特別大 図や特別小図、特別地域図なども存在したと言われ ています。なお、忠敬は、1803年、繰り返し精度を上 げた測定により、1度の子午線弧長を28.2里と計算 しました。ちなみにこれをキロメートルに換算(28.2里 =約110.75キロ)して360倍し、円周率で割ると、地 球を完全球体と仮定した時の直径が計算できます。 これを手計算でやってみると、12,690キロメートルと なり、現在知られている地球の直径(北極ー南極)約 12,714キロメートルとあまり違わない値となります。

この地図の正確さは、長崎にいた医師軍人のシー ボルトの目に留まり、高橋景保からこれを譲り受けて シーボルトは、これをオランダに持ち帰ろうとしました。 (シーボルト事件)。シーボルトは日本の国家機密を持 ち出そうとした罪でスパイ罪に問われて幕府により国 外追放され、高橋景保は斬首刑に処せられましたが、 シーボルトは、実は地図をオランダに持ち出すことに 密かに成功していたようで、2001年、米国国立議会図 書館にほぼ完全な207枚のコピーが見つかり、その後 も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容が掴め るようになっていると言われています。2006年の12月 には、大図全214枚を収録した伊能大図総覧が刊行 されています。日本国内にあった原本は、火災などで 消失したと言われていますが、海外に保存されていたコピーが発見されたことにより、伊能忠敬の作った地 図のほぼ全容が明らかにされ、その地図の正確さは現在でも高く評価されています。

50歳の時、一念発起して、それまで成功していた全て の家業を打ち捨て、大好きな天文学の勉強をはじめた 伊能忠敬。師匠の高橋至時に指導されて、徒歩で日本 全国津々浦々を測量し、それをもとに正確な日本地図 を作り上げた伊能忠敬。子午線の緯度1度の距離を 測りたいという執念を遂げ、ついにそれを正確につきと めた伊能忠敬、私は彼を日本人の素晴らしさの典型と 思っています。

 

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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

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