心臓病治療の最前線
心臓病治療の最前線

 

楠本稲(失本稲、シーボルト・イネ) は1827年、31歳のドイツ人、フィリッ プ・フランツ・フォン・シーボルトと、日本人の20歳の娘楠本滝(くすもとたき)の間に長崎出島で生まれました。

シーボルトは、ドイツ、ババリア地 方の出身の医師・博物学者・軍人、 貴族で、オランダ領東インド(現在の インドネシア)総督によって長崎出島のオランダ商館医として任命され、長崎出島に1823年、来日 しました。当時は日本は鎖国中で、西欧諸国の間ではオランダ人だけが長崎出島で貿易をすることが認められていました。従って シーボルトは日本滞在中、自分はオランダ人だと名乗り、オラン ダ語にドイツ訛りがあるのを怪しまれると、自分は“山オランダ” の出身だと言い訳をしたと言われています。(実際にはオランダ は平坦な海面下の国で、山はありません。)シーボルトは、出島の役人と交渉して楠本滝を自分のお抱えの遊女という体裁を整えて出島に住まわせ(当時日本人の女性は、遊女以外は出島に住 むことを許されず、外国人は出島の外に住むことは許されなかったため、これが唯一の解決策とされました。)、6年間の日本滞在の間に楠本滝との間に一人娘、稲(イネ)をもうけました。シーボ ルトは医師として出島の外に診療所及び蘭学塾鳴滝塾を設けることを許され、日本人の患者の診察治療にあたると同時に、全国 から彼のもとで学ぶために長崎にやってきた多くの日本人の弟子達にオランダ語や予防接種、病理解剖などの医学を教えました。シーボルトはまた博物学者、軍人として、日本在住の間に多くの日本の工芸品、絵画、動植物などを収集し、その膨大なコレ クションを数回に分けて本国に送り、それは、その後、オランダ、 ライデン市の膨大な日本の動植物コレクションの基礎となりました。シーボルトの日本植物のコレクションは12000種に上ったと言われています。地元の画家川原慶賀(かわはらけいが)はシーボルトのために多くの動植物や風景、人物などを描き、それもま たオランダに送られました。またシーボルトは、日本茶の種を密かに持ち出し、それまでお茶の存在しなかったオランダ領ジャワ へ持ち込み、これはその後の世界的に有名なジャワ産茶産業の 元となりました。

1826年、シーボルトが幕府に招かれて江戸に旅行した際、自 分の持っていたヨーロッパ地図と交換に天文学者高橋景保(た かはしかげやす)からその弟子の伊能忠敬(いのうただたか)が作成した大日本地図を貰い受けましたが、それが幕府によって発見され、徳川幕府は、禁制の地図を所持し、これを国外に持ち出そうとしたとして、シーボルトがロシアのスパイであると疑い、彼を逮捕し、1829年、国外追放しました。イネが2歳の時でした。シーボルトが国外退去命令を受けて日本を去る際、滝は 日本人であるため鎖国令により、日本を出国することが許されま せんでした。その後滝は回漕業者俵屋時次郎と再婚し、イネも 母と一緒に、俵屋時次郎の家に住むことになりました。幕府は 伊能忠敬の地図以外は、その価値が分からず、没収しなかったため、シーボルトは国外退去に際してその膨大な日本動植物及び工芸品や絵画などのコレクションをそれまで持ち出したものを含め、オランダに持ち帰ることに成功しました。裕福なシーボ ルトは、国外追放の際、妻の滝と娘のイネに自分の財産として当 時日本に貯蔵していた貴重品の砂糖の蓄えを資産として残し、また日本の弟子たちにイネの身の上を保護するよう依頼することを忘れませんでした。また、シーボルトは帰国後、イネにオランダ語の文法の本を送りました。シーボルトは四国宇和島藩の町医者で自分の弟子であった二宮敬作(にのみやけいさく)に、イ ネの後見人となり保護と教育を与えることを依頼しました。二宮 敬作はこのシーボルトの依頼に応えて、イネに7年間、医学入門 教育をしたと言われています。イネは1845年、18歳の時、本格的 に医学の勉強をするため、二宮敬作の紹介でシーボルトの弟子 の一人、岡山藩の石井宗謙(いしいそうけん)の下で産婦人科学 を学びはじめました。しかし、1851年、石井宗謙が24歳の彼女を強姦し、彼女を妊娠させたため、イネは即時に石井宗謙の下を去り、長崎で一人娘タダ(のち高子と改名)を産みました。イ ネは終生石井宗謙を憎み、彼を許しませんでした。イネは生涯 独身で、未婚の母として、医者をしながら、一人娘タダを育てます。イネは、その後も医学の勉強を長崎の医師阿部魯庵(あべ ろあん)の下で続け、日本女性最初のオランダ医学を身につけ た医者となりました。イネの後見人の二宮敬作は、イネを有名な 蘭医として四国宇和島藩の藩主伊達宗城(だてむねなり)に紹 介し、蘭学に興味を持っていた伊達宗城は喜んで彼女を宇和 島藩に迎えました。不幸にしてまもなく二宮敬作は脳卒中で倒れ、イネは二宮敬作とその甥三瀬周三(みせしゅうぞう)を連れ て長崎へ帰りました。二宮敬作は、その後、1862年、死亡しまし た。

一方オランダに帰ったシーボルトは、この間、ライデン市に 日本植物博物館を作り、また彼の日本動物コレクションはライデン自然史博物館に寄贈されました。シーボルトは、1832年, Nipponと題する動植物を描いた挿絵の豊富な書物を出版しました。シーボルトが持ち帰った標本の中には、ヨーロッパ初の オオサンショウウオの標本も含まれていました。またシーボルト はヨーロッパには知られていなかった日本紫陽花(あじさい) の一種をオランダに送った際に、これに、Hydrangea Otaksa との学名をつけたましたが、これは、妻の楠本滝をシーボルト が“お滝さん” Otaksaと呼んでいたことに由来すると考えられて います。またシーボルトがオランダに持ち帰った植物の中には、 たった一本の標本から、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸に瞬く間に広がり、両大陸で最も侵襲的な外来植物となった、イタド リ(Reynoutria japonica)も含まれていました。

シーボルトはその後ドイツで結婚し、ドイツ人の妻、ヘレンとの間に長男アレクサンダー、次男ハインリッヒを含む3男2女を設けました。シーボルトは1852年にロシア皇帝に招かれて日本をどうしたら開国させることができるかのコンサルトを求められました。アメリカ人ペリーも1854年に日本に出かける前に、彼のもとに相談に来ています。

1859年、日蘭修好通商条約の締結により、入国禁止措置を解かれるとすぐ、シーボルトは長崎に、イネの異母弟の13歳のアレクサンダーを連れて帰ってきました。当時32歳のイネは大変喜んで、夢にまで見た父と長崎で再会し同居しましたが、父のドイツ語訛りのオランダ語がよく理解できなかったことと、同居していた日本人の召使いを父が妊娠させたことがきっかけで、父の家を出ました。その時シーボルトは64歳でした。シーボルトは、この頃、徳川幕府の顧問として、外国代表団との通訳や仲介をする職を得ようという野心を持って幕府にさまざまな働きかけをしていましたが、オランダ政府はこのシーボルトの野心を嫌い、1862年帰国命令を出し、それに従ってシーボルトは日本を離れました。以後シーボルトは、ヨーロッパに帰ってからもフランスやロシアに、自分を公使として日本に派遣するよう売り込みを続けましたが、実現せず、ついに日本に帰ってくることはありませんでした。

シーボルトの2度目の日本滞在は3年間、最初の6年間を加えると、通算計9年間日本に滞在したことになります。1866年シーボルトはミュンヘンで71歳で死亡しました。シーボルトの2度目の来日中にその弟子となり、またイネの異母弟のアレクサンダーに日本語を教えていた医師の三瀬周三(二宮敬作の甥)は英語とオランダ語が得意でシーボルトに伴って江戸に出かけた際、通訳として同行しましたが、幕府の役人の誰よりも通訳として有能であったため嫉妬され、「町人(医師)の分際で宇和島藩士と称して帯刀したという罪」で江戸で投獄されましたが、宇和島藩主伊達宗城の取りなしで釈放され、宇和島へ戻ってきました。三瀬周三は1866年、イネの娘タダ(高子)を嫁にし、明治になってから大阪北御堂(きたみどう)に診療所を開業しましたが、コレラに罹って、1877年に死亡しました。

イネはそのまま長崎に住み、オランダ医師ポンペに学びました。ポンペは、長崎療養所(のちの長崎大学医学部)を開設し、イネもそこで学び、また手術の補助も行いました。ポンペはイネの手技の高さを文書で誉めています。またポンペはそこで死体解剖も行い、イネは日本で初めて死体解剖に立ち会った女医となりました。イネは宇和島藩の伊達宗城藩主の信頼と庇護を受け、産婦人科医として藩主伊達宗城の妻の出産に立ち会い、長崎と宇和島を頻繁に往復しました。1869年イネの母滝が死亡。イネはこの頃さらに長崎で産婦人科医のボードウイン、さらにマンスフィールドの下で腕を磨きました。イネはその後東京に出て、英国領事館に勤務していた異母弟のアレクサンダーやオーストリア領事館で勤務していた異母弟のハインリッヒと交流を続けました。イネは二人のドイツ人の異母弟を通じて明治政府の高官や皇室にも知己を得ました。アレクサンダーは明治政府に信頼されて、明治政府の高官たちが欧州旅行に出かける時は、たびたびその随行員として指名されました。ハインリッヒは日本の美術品やコイン収集などに興味を持ち、archaeologyの日本語訳として考古学という日本語を作り出したのはハインリッヒだと言われています。明治維新後、イネは宮中に招かれ、産婦人科医として、1873年明治天皇の側室葉室光子(はむろみつこ)の出産を担当しました。イネは1871年より1877年までの7年間東京築地1番地で産婦人科を開業しました。これは日本最初の産婦人科開業医院でした。1882年にイネは皇后陛下の侍医となり、1883年宮内省御用係を拝命。慶應義塾大学の創始者福沢諭吉の義姉はイネの弟子でした。1895年ごろイネは医業から退職。1903年死亡しました。享年77歳。

司馬遼太郎の歴史小説「花神」の中では、イネは明治維新の革命家で2歳年上の大村益次郎(村田蔵六)の恋人であったと描かれていますが、それを証明する記録は見つかっていません。長州藩出身の大村益次郎は、イネと同時期に宇和島藩に招聘されており、また、イネと益次郎、二宮敬作は蘭医仲間であったことから、益次郎とイネとの接点は多くあり、また、大村益次郎が1869年京都で暴漢に襲われて刀傷を受け、それが元で敗血症で死亡した際、イネが医者として看病したことはよく知られています。しかし、1924年、イネの娘72歳の高子が行ったイネの回顧談の中に、大村益次郎(村田蔵六)の名前は一度も出てこず、二人が恋仲であったという話の信憑性は確かではありません。

イネは娘の高子(タダ)に医師となってもらいたいと希望しており、高子も夫三瀬周三の死後大奮発して医師になる勉強をはじめましたが、医師になる勉強中に東京で医師片桐重明(かたぎりしげあき)に強姦され妊娠したため、高子は、医者になることを諦め、片桐の子を出産し、その子は亡き夫と同じ名前の周三と名付けられ、長崎の楠本家をつぎました。高子はその間、一般人の山脇太輔(やまわきだいすけ)と結婚し、1男2女をもうけました。高子は、医者になることを諦めた後、琴三味線の猛修行をして、その奥義を極め、琴三味線権大教正の地位も与えられたと言います。母イネは、娘の高子が琴三味線の修行に朝早くから晩遅くまで打ち込むのを見て、それと同じくらいのエネルギーを注ぎ込めば医者になれるのにと嘆いたと言われていますが、母イネの希望は叶いませんでした。

ドイツ人の父シーボルトに憧れて日本最初の女性蘭医婦人科医となった楠本イネ、その生涯は、過酷で波乱に満ちたものでしたが、今の日本の女性達、女医さん達の直面している問題と無縁のものでもないように思えます。

—–
筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医   日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
Roseville Office
25195 Kelly Rd
Roseville,  Michigan  48066
Tel: 586-775-4594     Fax: 586-775-4506

返事を書く

コメントを記入してください
お名前を記入してください