
さて、前回は、幕末の会津藩に生まれ、戊辰戦争において会津城籠城戦を戦った娘が、米国へ留学し、日本人女性として初の米国大学卒業生となり、数奇な運命から、その会津城への攻撃の総司令官だった大山巌将軍と出会い、結婚し、日本の看護婦制度の母となり、また日本におけるボランティア活動やチャリテイー活動の草分けとなったという、大山捨松の話をさせていただきました。
今回は、その会津若松鶴ヶ城籠城戦を戦ったもう一人の女性についてお話ししたいと思っています。その人の名前は、山本八重(やまもとやえ)。この文を書くにあたって調べていましたら、2013年、綾瀬はるかさんという方が主演された『八重の桜』というNHKの大河ドラマで放映されたことがあるということがわかりました。そういうわけで、すでにこの方のお話はご存知の方もあると思いますが、今に生きる私たちにいろいろ考えさせることがあると思いますので、ここで取り上げさせていただきます。
山本八重は、1845年、会津藩の砲術師範、山本権八の娘として生まれました。前回お話しした大山捨松より15歳年上でした。会津籠城戦の時8歳であった捨松と、当時23歳で会津藩狙撃兵として戦った八重とは、籠城戦における役割も違っていました。捨松はあくまで、大人の手伝いでしたが、今回の山本八重は、籠城戦の主力兵として戦いました。
八重には17歳年上の兄がいました。その兄、会津藩士山本覚馬(やまもとかくま)は幼少時より神童と呼ばれ、4歳で唐詩選の五言絶句を暗誦することができたといいます。兄覚馬は、22歳で江戸に出て、勝海舟と共に佐久間象山に師事し、砲学と蘭学を学び、28歳で会津に帰り、藩校日新館の教授になります。1862年会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職になると、これに従い京都に行き、黒谷本陣で西洋式軍隊の調練に当たりました。1866年長崎に行き、ドイツ商人から、紀州藩、会津藩、桑名藩のために計4,300丁の新式銃を購入する契約を結びます。覚馬は、蛤御門の変、及び鳥羽・伏見の戦いにおいて会津藩士として幕府側で戦い、失明し、薩摩の捕虜となりました。
八重は、兄覚馬の紹介で、1865年に但馬国出石藩出身の洋学者、化学者で、会津藩の藩校日新館で蘭学を教えていた川崎尚之介という会津藩士と結婚しますが、二人の間に子供はありませんでした。1868年に、会津若松城籠城戦が始まると、八重は、鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪男装して、家芸であった得意の射撃の腕前を発揮して、兄が長崎で買って送ってくれた、スペンサー連発銃を使い、主君松平容保(まつだいらかたもり)と会津藩一族、若松城を守るために戦いました。スペンサー銃というのは、別名スペンサー連発ライフル銃と呼ばれ、銃床に一度に7個の銃弾を保持することができ、それまで日本で使われていた単発銃に比べて連射の効率を飛躍的に高め、かつライフル銃ですから、命中精度が高く、戦場での武器としての効果を、格段に高めることができました。この時の活躍を称して、八重は会津のジャンヌダルクと呼ばれました。この戦いで、八重は3つの日本の伝統を打ち破りました。それは、サムライ上位、男上位、刀上位の3つです。それまでは、戦いはサムライがするもの、男がするもの、刀で戦うものとの固定観念がありましたが、八重はこの3つの迷信を、会津籠城戦での活躍で完全に吹き飛ばしてしまいました。
会津籠城戦は、八重たちの奮戦にもかかわらず、 官軍側の勝利に終わり、夫は官軍に捕らえられ、他の会 津藩士と共に、青森県下北半島北端の斗南藩に強制的 に移住させられます。夫と生き別れになり、その後離婚した八重は、一年ほど、山形県米沢で過ごします。一方、兄覚馬は鳥羽・伏見の戦いの中で失明し、薩摩の捕虜となりますが、覚馬の才能を知っていた薩摩軍の首脳は敵兵でありながら、覚馬を丁重に取り扱い、のちの明治政府成立後、京都府の要職に就かせます。八重は、1871年、京都府顧問となっていた兄を頼って京都に移ります。そこで、兄の紹介で、京都女紅場(じょこうば、のちの京都府立鴨沂(おうき)高校)の権舎長、教導試補(今で言えば、住み込みの寮監長兼助教諭のようなものでしょうか)に採用されます。この時、女紅場に教えに来ていた裏千家の師匠から茶道を学び、1894年には裏千家師範の免許を与えられ、また1896年には、生け花の池坊師範の免許も取りました。
その頃、群馬県安中市出身で、1864年、幕府の禁制を犯して箱館港からアメリカに密出国したのち、マサチューセッツ州に10年間滞在して、名門アムハースト(Amherst)大学を日本人として初めて卒業し、1874年、キリスト教宣教師として日本に帰国した新島襄(にいじまじょう)と知り合い、1876年に再婚します。新島は、八重の兄山本覚馬から譲り受けた、元薩摩藩邸6000坪を学校用地として、ここに1875年同志社今出川キャンパスを作ります。京都府は、地元の神社や寺から、キリスト教の学校を建てることに対する猛反対を受け、このため、八重は、襄と婚約すると同時に女紅場を解雇されます。八重は、襄が作った同志社英学校(のちの同志社大学)の運営に協力し、またその1年後、アメリカ人宣教師アリス・スタークウエザーと協同で同志社女学校を設立します。
1890年、襄は同志社英学校を大学に格上げすることを目指した同志社大学設立運動中に心臓病により急逝します。二人の間に子はいませんでした。襄の死後間もなく八重は看護婦になることを決意し、45歳で日本赤十字社の正社員となり、1894年の日清戦争では、当時49歳で、広島の陸軍病院で4カ月間篤志看護婦として従軍、その功を認められて民間人として初めて、勲7等宝冠章が与えられました。その後篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、1904年の日露戦争では、当時59歳でしたが、大阪の陸軍病院で2カ月間篤志看護婦として従軍し、その功績で勲6等宝冠章が与えられました。山本八重は皇族以外の女性として初めて政府より叙勲した人物だと言われています。八重は傷病兵の看護に献身したため、日本のナイチンゲールと呼ばれました。1932年病没。享年86歳。
私生活においては、八重は古い日本の習慣のはるか先を歩んでいました。夫をジョーと呼び、車に乗るときにも夫より先に乗る八重を明治の人々は、悪妻だと悪口を言い、新島襄の弟子、著名な思想家、ジャーナリスト徳富蘇峰(とくとみ そほう)は、襄が生きている間、八重の陰口を言っていたと言われていますが、実際の夫婦仲は極めて良く、夫の襄は、八重の生き方を”handsome”と述べていたと言われています。徳富蘇峰は、新島襄の臨終に立ち会った際、八重に、「私は同志社以来、あなたに対しては誠に済まなかった。しかし新島先生が既に逝かれたからには、今後あなたを先生の形見として取り扱いますからあなたもその心持を持って私に付き合ってください。」とのべ、徳富蘇峰は八重が亡くなるまでその約束を守ったと言われています。
旧幕府軍と官軍が戦った戊辰戦争で、主君と会津藩、会津城を守るために、第一線で戦い、日本のジャンヌダルクと称された八重。その後、保守的な地元の大反対を押し切って日本初のキリスト教女学校を京都に設立した八重。45歳で看護婦になることを決意して、看護学校に入学し、日清、日露の大戦争で銃後で傷病兵の看護にあたり、その功を称されて日本で皇族以外で叙勲された初めての女性となった八重。老年期の八重の写真は本当に淑やかで、上品で人の良い、優しい日本のおばあちゃんという印象ですが、この人のどこにそんな熱情がこもっていたのか、“明治の女”たちの内に秘めた強さを感じさせます。
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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
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