
大山捨松(おおやますてまつ)、この少し奇妙な名前を持つ日本人のことを知っている人はあまりいないと思いますが、日本の看護教育に偉大な貢献をした人なので、今日はその話をしたいと思います。コロナ禍の中で、危険を冒して、最も最前線で仕事をしておられるのは、看護師さんたちです。その看護師さんたちを日本で育てるための草分けの仕事をした人として、彼女を忘れることはできません。
大山捨松は、幕末の1860年、会津藩家老の2男5女の末娘、山川さきとして生まれました。幕末の日本は、武力倒幕を唱える薩摩長州などの諸藩と、公武合体を唱える幕府勢力が、互いに京都の朝廷での天皇の支持を取り付けるための勢力争いをした結果、前者が勝ち、前者は錦の御旗を掲げて、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦争から戊辰(ぼしん)戦争という内戦に進んだ頃でした。1868年、東征軍の下参謀西郷隆盛が、幕臣の勝海舟との談判で、江戸城無血開城を取り付け、最後の征夷大将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は江戸城を去り、水戸に謹慎しました。しかし、戊辰戦争は、徳川慶喜が謹慎した後も、上野や東北を舞台に続けられ、その激戦地の一つが会津若松(あいずわかまつ)城でした。旧幕府勢力の会津軍は総力戦で、迫り来る官軍に対して、会津藩士たちは城外に陣地を作って官軍を迎え撃つ一方、中野竹子らは婦女子による娘子隊を結成して薙刀で官軍に切り込み、また剣を取ることのできる少年たちは、白虎隊を組織して城外の陣地で官軍との戦いに参戦しました。こうして、会津若松城籠城戦を戦ったのは、残った少数の藩士たちと藩士の妻や娘たちでした。山川さきは、この会津戦争で当時数え年8歳でしたが、母えんと共に籠城し、弾薬の運搬や、飛び込んできた焼夷弾に濡れ布団をかぶせ、その爆発炎上を防ぐ働きなどをしたと言われています。しかし、官軍の攻撃は激しく、さきたちのいた部屋に砲弾が飛び込み、さきは首にケガをし、義姉はその場で亡くなりました。会津若松城は程なく落城しました。
戊辰戦争は、その後、1869年北海道五稜郭(ごりょうかく)に追い詰められた旧幕府軍が降伏することにより、終了しましたが、会津藩は、その敗北の結果、藩士やその家族全員が現在の青森県下北半島北端に強制的に移住させられました。移住先の下北半島北端は土地が痩せ、寒さが厳しく、旧会津藩士とその家族は、飢えと寒さで多くの人が亡くなったと言われています。山川家もその例に漏れず、食い扶持を減らすため、さきは、対岸の北海道函館の知り合いのもとに里子に出され、その紹介で、フランス人の家に引き取られました。その頃、明治新政府は、教育に力を入れることを考えており、北海道開拓使は10年間の米国への官費留学生を募集していました。しかし、女子教育など全く存在せず、女は嫁に行くものとの考えが圧倒的に主流であった明治の初期に、10年間もの間、うら若き娘を単身アメリカに送るなど誰が考えたでしょうか。結局それに応募したのは、女子ではたった五人で、戊辰戦争で敗れて食いはぐれとなった、旧幕臣や逆賊の娘山川さきのような娘たちばかりだったと言います。その中にはのちに津田塾大学を創設する、当時最年少9歳の津田梅子もいました。さきは2番目に若く、12歳でした。1871年いよいよ、岩倉使節団に同行して、横浜港からアメリカに出発します。その別れの時に、母えんは、”この世では2度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待って(松)いる。”と述べ、さきの名前を捨松と改名させ、これが彼女の生涯の名前となりました。捨松は、まず、米国コネチカット州ニューヘイブンの牧師宅に寄宿し、そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得しました。そこでその家の末娘、アリス ベーコンという生涯の友人を得ます。その後地元の高校を経て、捨松はニューヨーク州の名門女子大学ヴァッサー(Vassar College)に進み、英文学を専攻、1881年、マグナカムローデ(偉大な名誉)として学年3番目の成績で卒業、卒業式では自らの卒論の”イギリスの対日政策”をもとにした卒業生代表演説を行い、その演説の内容はニューヨークタイムズやシカゴスタンダードなどの新聞で絶賛されました。捨松はアメリカの大学を卒業した初の日本人女性です。捨松は1881年、開拓使からの帰国命令を受けますが、アメリカ赤十字社に強い関心を寄せていた捨松は、それを、一年延長してもらい、卒業後にニューヘイブン病院で実地看護に従事し、看護婦免許を取りました。これも日本人女性で史上初でした。
1882年、帰国したら生理学や体操を教えたいとの希望を持って、捨松は11年ぶりに日本の地を踏みますが、日本には、彼女を受け入れ、彼女の才能を活かし、活躍の場を与えてくれる場所は全くなく、その日々は、失望以外の何者でもありませんでした。捨松の考え方や物腰は既にアメリカ式となっており、日本語の日常会話を始め、読み書きにも苦労する日々でした。周囲は彼女に結婚を勧めますが、10代で嫁入りすることが一般的であった当時の日本社会で、20歳を過ぎていた捨松が最初の縁談を断ると、彼女はもう”売れ残り”と陰口を叩かれていました。捨松は英語ばかりかフランス語ドイツ語も堪能でしたが、このままでは、宝の持ち腐れに終わる可能性が濃くなっていました。ところがその局面を一気に変える出来事が起きます。
その頃先妻に先立たれ、後妻を探していた当時42歳の大山陸軍大臣が、知り合いの家で見染めた18歳年下の捨松に一目惚れし、断られながらも何度も求婚を繰り返したのです。大山は、明治維新後の1869年渡欧、1870年から1873年までジュネーブに留学し、フランス語に堪能で、陸軍内では西欧かぶれとして有名でした。また、奇遇なことに、大山は、戊辰戦争の際の会津若松籠城戦で官軍の指揮官を務めており、初日に怪我をして戦線を離れたとはいえ、捨松と大山は、会津若松城では敵味方に分かれて戦った相手同士だったのでした。大山陸軍大臣の矢継ぎ早の申込みに対して、山川家は(会津)逆賊の家臣であることを理由に断ると、大山は今度は従兄弟の西郷従道を使者として送り込み、(西郷隆盛の従兄弟の)大山も逆臣の身内であると説き伏せ、ついに捨松の親代わりの兄、山川浩は苦し紛れに「本人の意思を聞く」と答えることになってしまいます。意思を聞かれた捨松は、「閣下のお人柄を知らないうちはお返事はできません」と答え、二人はデートをすることになりました。ところが、デートをしてみると、鹿児島訛りの強い大山と会津訛りの強い捨松は、最初は全く相手の言葉がわからなかったそうですが、フランス語で話し始めると途端に会話が弾み、捨松は親子ほどの歳の差のある大山の求婚を承諾する決意をします。その結婚の結果、捨松は会津戦争の敵と結婚したということで、故郷からは縁を切られ、大山も西南戦争で従兄弟で薩摩の英雄の西郷隆盛と戦った敵とされており、薩摩から縁切りをされていたので、会津と薩摩の故郷から捨てられた同志の二人が結婚により強い絆を築くこととなりました。西洋かぶれの大山は、妻となった捨松を連れて鹿鳴館(ろくめいかん)で鹿鳴館外交をしましたが、長身で社交ダンスが得意で、冗談を交えて、英語、フランス語、ドイツ語を駆使して各国大使やその夫人たちと流暢な会話で社交を盛り上げる捨松は鹿鳴館の花と呼ばれました。捨松は家庭では良き妻、良き母で、先妻の子を含む六人の子供たちを育て上げました。
米国看護婦免許を持っていた捨松は、あるとき有志共立東京病院を見学しましたが、そこでは、看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性数人であることに衝撃を受けました。そこで元海軍軍医総監で院長の高木兼寛男爵に自分の経験を話し、患者のためにも、女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要であることを説き、高木にその開設を提言しました。高木は、看護婦養成学校の必要性には同意したものの、資金難から実行は難しいと答えました。それならば、と、捨松は1884年6月、鹿鳴館で日本初のチャリテイーバザー”鹿鳴館慈善会”を開き、品揃えから、宣伝、販売に至るまで政府高官の妻たちの陣頭指揮を取り、3日間で予想を大幅に上回る収益を上げ、その全額を共立病院に寄付しました。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校、有志共立病院看護婦教育所が設立されました。
1887年、捨松は日本赤十字社の後援団体日本赤十字篤志婦人会の発起人となりました。1894年の日清、1904年の日露の日本の国運をかけた両戦争では、夫の大山巌が陸軍参謀総長や満洲軍総司令官の重責を負って出陣した後、その銃後で、寄付金集めや婦人会活動をする傍ら、自分の看護婦資格を活かして日本赤十字社で戦傷者の看護を行い、また政府高官の婦人たちを動員して包帯造りなどをおこないました。また、積極的にアメリカの新聞に英文で寄稿して日本の置かれた立場や、苦しい財政事情を訴え、アメリカ世論を親日にする助けをしました。日本軍の総司令官の妻がアメリカの名門女子大学ヴァッサーの出身であることの物珍しさも手伝って、アメリカの世論は、親日に傾きました。アメリカで集まった義援金は、親友のアリスベーコンによって、捨松に送られ、さまざまな慈善活動に使われました。
近代日本におけるチャリテイー企画や、ボランテイア活動の草分けは大山捨松だと言われています。
また、捨松は、同じ官費留学生仲間の津田梅子が1900年、女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立したときには全面的に協力し、その成功に貢献しました。1919年、捨松は全世界で大流行したスペイン風邪に罹患し死亡しました。享年58歳。
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筆者 プロフィール:
山﨑博
循環器専門医 日米両国医師免許取得
デトロイト市サントジョン病院循環器科インターベンション部長
京都大学医学部循環器科臨床教授
Eastside cardiovascular Medicine, PC
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