
今年の10月初日は満月でした。綺麗なきれいな月を、空気も澄み静まり返った真夜中に、長い時間をかけ無言で愛でることができました。誰にも、何事にも妨げられない時間というものは本当に貴重となりました。冬の訪れの早いこの辺りでは気温がほぼ氷点までストーンと落ちるようになり、それまで美しい夏を謳歌していた生き物たちが季節の変化に覚悟を迫られるようになります。動きが鈍くなり、それでもふらふらと花にすがる蜂の姿、羽のぼろぼろになった蝶が必死で羽ばたき続けようとし地面を懸命に跳ねる姿。哀しくも自然のさだめと自分に言い聞かせ、でも一心に生き続けようとする姿を応援したく、蟻に引きずられて行かぬよう地面から離して花の上に載せてあげたり、夏のお花も最後まで処分せずにおります。夜の間は凍らぬよう家の中へ入れ花を保護し、朝になって気温が上がり始める頃また外へ出し並べてやると、誰に教えられるともなく沢山の蝶や蜂が一瞬にして集まって来ます。ぶうん、ぶうんという蜂の羽音は力なさげで泣いているようでもあり、それでも、まだ開花しているブルーサルビアのひとつひとつを覗き体を突っ込み、己の使命を全うせんと行動し続けます。餌の減ったカマキリも外灯のすぐ傍の網戸に陣取り、灯りに集まってくる虫を捕えようと頑張り続けます。
真夏の太陽の下鮮やかな色彩が映えるゼニア(百日草)の花。ミシガンでも10月終わりまで咲き続け元気をくれるお花です。その花言葉は今は会えない人、不在の友への想い、絆。新型ウイルスの猛威により私もこの夏、身近で大切な恩人を失いました。国境のない友情と愛情、信頼。いつかは皆同じところで再会できると祈りつつも、その衝撃と悲しみを癒すには努力が要ります。「いのちの詩人」相田みつをさんの印象深い言葉のひとつに「きれいな足跡には きれいな水がたまる」とありましたので、己の死についても考え、ふと現時点で自分の足跡はどうかしらと振り返りましたらそこはまるで決勝戦後のラグビー場。土砂降りが追い打ちをかけたような光景すら容易に想像出来て息を呑み、急いで前を向きました。前進あるのみ。たとえ足跡は荒れ野原でも、その御蔭で他に類を見ない自分の今があるのだと信じ、己を励ましました。些細な事に妥協を許せない性分は災いしたものの逆にそれが幸いし、今後関わってゆく物事への取捨選択のスピードはかなり進歩したはず。心がけ次第で人生時間切れとならずに納得した締めくくりの工程へ着手できるやもしれません。心が癒され満たされ、更に勇気を頂くには音楽がエッセンシャル。今年は偉大な作曲家ベートーベンの生誕250年にあたり、その作品の数々を有難く鑑賞してまいりました。彼を愛する世界中の音楽家たちによる、コンサートホールでの生演奏の再開が早く実現されますよう切に待ち望むところです。
アメリカでは4年に一度の大切なイベントへのムードが過熱する中、乱暴、無知、低品位な私見を赤の他人から日々突き付けられる事に閉口し、騒音をシャットアウトせんと努力するも視覚からも喧噪が飛び込んで来ることに辟易しておりました。すると住宅街の自治会からとても公平且つ的を得た通達が各家に届きました。「熱心に選挙の候補者を支援しようとする方の気持ちは理解しますが、明らかに自治会の決まりごと違反です。敷地に立てたサインは速やかに撤去して下さい。」次の朝にはあらゆる政治的思想、選挙支援目的の雑多なサインが住宅街から消え、本来あるべき整然とした美と、よそ様への敬意が取り戻されました。これが規則と秩序というもの。ミシガンの美しい自然の中、静止した水面からどこまでも底の見える澄んだ水を湛えた数々の湖のごとき厳かな平穏が住民の心に取り戻されたことは、筆舌に尽くせぬ有難さでした。通りには菊の鉢植えやコーンストーク、赤、黄、オレンジ、茶系の秋の装飾が踊り、ハロウィーンのお祝いムードからサンクスギビングへと季節が巡る中、心は純真な子供のまま干し藁とコーン畑の迷路や露天市など、地域の人々と共に黄金の実りの秋を楽しんでおります。
庭作業に忙しい間は虫が寄ってくるので香水の類は身に着けませんが、これからの季節は大いに楽しめます。晩秋のムードにほだされ迷い込んだショッピングモールの中の若者向けビジネスカジュアルのお店の陳列棚に、ユニセックス向けの香水というのが置いてありました。その瓶のデザインが中性的な魅力でカッコいいなあ、と珍しく心ときめかせた私は、サンプルの瓶の蓋を開けて束の間、ふんふんと香りなぞ楽しんでおりました。するとそこへ、とても女性的な要素を醸し出したスラリ綺麗な男性が、くねくね踊りながら登場して私の傍へ来るなり一言、「息子さん用にお探しですか?」屈託のない人懐こい笑みを湛え、何のためらいもなく途轍もなく酷いことを言ってのけました。私の見た目は間違いなく年配女性と自覚しますが、都合の良いことに行動中は自分の姿など見えませんのでその日その時、自分の気持ちは図々しくも20代後半に設定しておりました。そんな無茶をするから、なのですが、思わず瓶の蓋を取り落としそうになるほどの衝撃を受け、全身で動揺し打ちひしがれましたが、一瞬後には元気に顔を上げ笑顔で「はい。」と返事した自分も嫌になりました。そのうち「お孫さん用でしょうか?」と訊かれる事になるのね、としんみり。それでもまあ、笑いながら生きてゆこうじゃないのと態勢を立て直しました。それぞれに限られた命。賢く愚かな人間たちがおのおのの使命を全うし、幸せで、互いを尊敬し続ける世界が長く続いてゆきますように。