
(JNC 2020年3月号掲載)
これは何十年も前の話となります。私が幼少の頃、日本で父は、家に配達される朝刊は全国紙5社から一部ずつ、購読致しておりました。その理由として、「同じ事象がどう書かれているかを読み比べてごらんなさい。」そう言い、同じ話題を扱っている5社分それぞれの紙面を開きテーブルに広げ、私に促しました。難しい漢字や言葉の意味がわからない、と私が呟けば、父は瞬時に分厚い黒い広辞苑を出し私に向けて差し出し、「調べなさい。」と置きました。内容は、違いの見当たらない記述の時のほうがむしろ稀で、ある特定の新聞社の記事からは毎度意図的にキーワードやキーコンセプトが抜かれていたり、違う言葉や微妙に異なる表現に巧妙に置き換えられていた場合もありました。「こう書かれてしまったら、読み手にはこうとしか伝わらないだろうなあ。」子供にでさえそれが「事実の伝達」であるのか、或いは「意図的に読み手を誘導し、ある一点の目標へ意見や考え方を統一しようとする書き方」なのかの違いが判りました。読み手である大衆の思想統制をゴールとする側、仮にそれが存在するのであればですが、その側にとっての目標達成は容易なことで、その結果自覚のないまま大衆の意見は誘導され、気づけば誰かの意図するところへ落ち着く事になるのだと、少し怖くなりました。
厳冬期のミシガンの我が家で、突然鉢植えのひとつからモンシロチョウが羽化し室内を飛び回っていた話を、以前書かせて頂いたことがございました。蝶の舞というのは、はかなく頼りなさげに見えながら実は、日陰と日向のラインを上手に見極め高さもコースも見て縫いながらの真剣勝負。時季が来ると伴侶を見つけ嬉しそうに仲良く舞い、ハレとケのメリハリを謳う力強い生命の讃歌。ナイアガラの滝方面へ陸路でお越しになる方には通り道となりますが、カナダはオンタリオ州ナイアガラフォールズのあたりにもバタフライコンサーヴァトリがあり、訪れる人々を歓迎してくれます。デトロイトダウンタウンからは車で4時間程の、のんびりドライブ。館内では自分の衣服の上に気軽に蝶がとまってくれたり、あしらわれた自然風の水流に見事な数の蝶が憩い、軽やかなダンスを披露してくれます。また、グランドラピッズのフレデリックマイヤーガーデンでは 恒例のButterfly Exhibitionの催しが、今年は4月30日まで開かれております。このイベントに関わる方々は、前年の10月頃より念入りに準備を続けていらっしゃる旨、お話しなさっていらっしゃいました。今年の来場者は18万5千人を見込んでいるとのことでしたが、湿度の管理ひとつをとりましても、細やかに心を配る大変な御仕事と存じます。そうして、春を待ち侘びる多くの人々の、心安らぐオアシスが完成されるのでしょうね。花や彫刻に加え、力強くも可憐な蝶の姿に魅了されるのもまた、粋ですね。
一般人が頼りとする「ニュース媒体」であるはずの著名な報道機関は何故か昨今、率先してプロパガンダ騒音拡声器と成り果てた風潮がございますようで、このトレンドが早く過ぎ去るよう願っております。報道と、相手を持説で論破するディベートは異なります。作為的にカットされた映像が都合の良い所へペーストされ本来の意図が消され、更にそれが繰り返し報道されることで受け手が右往左往し、真実だけが霞んでゆきます。怒涛のごときセンセーショナルな電子通信時代を迎えてしまった人類は、晒される情報の量がもはや一昔前の時代の人々の新聞一社どころの騒ぎでは無くなってしまいました。その坩堝の中に翻弄される人々と自分の姿を重ね、ぼんやりとした将来への不安を募らせながらマスメディアの公平さと信憑性に危機感を抱くものの、エネルギーと行動力に満ちた蝶の舞に将来へ一縷の望みを託し、おのずと姿勢を正します。自分は果たして他人の意図に踊らされているのか?それとも自分の意志で踊っているのか?「脅されず、踊らされず、踊る」事が出来ているのか?己が培ったはずの思慮分別と学識経験、洞察力は冴えているか?「自称インテリ」の、偏見に満ちバランス感覚に欠けたお粗末なコメンテーターの一員とならぬよう、無責任に発信される情報の海に溺れぬよう、心を常に開いておるのか? さてわが身を省みますと、常に情報に触れていたいが為の、安心のお守りとしての「スマホ」を決して手から離せない自分がおり、苦笑致します。