10月19日から4週にわたり、「戦後の日本の写真展」を開催。ワシントン日本語学校の高等部生徒の曽祖叔母アネットさんが第二次大戦直後に撮影した写真をまとめたもので、りんご会補習授業校が借用しているノバイ市のメドウズ校とノバイ校(High School)で交互に展示され、11月9日メドウズ校で終了する。

アネットさんは第2次世界大戦後、GHQの仕事に応募し日本を訪問したアメリカ人女性で、写真は仕事の合間に撮ったもの。展示された数々の写真には被写体や状況の説明やアネットさんの想いが分かりやすい言葉で添えられ、物資も食料も不足し、厳しかった当時の暮らしを映し出す一方、個々の人びとが、あるいは家族が支え合って、希望を失わずに生活し今日に繋がる再建復興への道をたくましく歩んでいたことも伝えている。

展示物は、ワシントン日本語学校の生徒であるストーン君と保護者が作成し、アメリカの他の日本人学校や補習校を移動。これら写真も貴重であるが、アメリカで今を生きる若者が写真展を推進したことも実に尊い。右にストーン君による作文(解説文)を添えるが、その文中にあるように、アネットさんの写真は東京にある昭和館に保管され、来館者は誰でも見ることができるようになるとのこと。

JAPAN AFTER THE WAR 1946~1947

~米国人女性アネットが見た戦後の日本~

ワシントン日本語学校高等部2年 クィン駿之丞ストーン

この写真展の写真は、ぼくの曽祖叔母(父の大叔母)アネット・チェイト・ファインストーンが第二次世界大戦直後の日本で撮影したものです。

アネットは1917年3月25日に生まれました。アネットは冒険心に富んだ女性で、戦後すぐにGHQ(連合軍総司令部)の求職に応募しました。GHQ は戦後日本で占領政策を実施した機関です。アネットは1946年3月、船で日本に到着。東京で8週間の研修を受けたあと、名古屋の第5空軍に配属されました。日本に行くまで、日本のことは何も知らなかったそうです。若い独身女性が当時の日本に一人で行くというのはとても勇敢だったと思います。

名古屋でのアネットの仕事は、米国の民間人の仕事を振り分けることでした。週末にはよくGHQの同僚にジープに乗せてもらい、名古屋周辺の田舎に出かけ、マーキュリー社のカメラで写真を撮ったそうです。村人たちは最初、米国兵士を怖がっていたそうですが、写真には、満面の笑顔を向ける人や、好奇心に満ちた子どもたちの姿があります。きっとアネットは“怖くなさそう”だったからだと思います。

しかし、アネットの写真からは当時の日本の生活が厳しいものだったことがわかります。子どもたちのほとんどは裸足か藁(わら)草履をはいていて、顔も汚れています。やせて、あばら骨が浮き上がった子どもや神社で死にかけている人の写真もあります。アネットは、同僚たちが街でガムや吸いかけのタバコをばらまき、それに群がる日本人を見て喜ぶ姿に「同じ人間なのに……」と心を痛めたそうです。

アネットのところには、よく浮世絵や本、陶器などを売りに来た人もいたそうです。そういう本の一部をぼくの家族がもらいましたが、そのときアネットはこう言いました。「これは確か11、12歳の男の子が売りにきたの。きっと家族の生活のために売りに来たんだと思う。買ってあげたけれど、わたしはそのときその子に払う金額を値切ってしまった。いま、それをとても後悔している……」

1947年5月、米国に戻ったアネットは、ぼくの曽祖父の弟のマックスと結婚し、ニューヨーク州アコードという小さい町に住みました。日本で撮影した写真のことはずっと忘れていたのですが、何十年もたって物置で当時のネガを見つけました。プリントしてみたところ、当時の日本での経験がよみがえったのです。

今年3月24日、アネットの102歳の誕生日の前の日に、ぼくはニューヨーク州ニューパルツの高齢者住宅に住むアネットに会いに行きました。アネットは、アメリカの日本人学校や補習校で彼女の写真が展示されるという計画を大変喜んでくれました。さらに東京にある昭和館にアネットの写真が保管され、来館者は誰でも写真を見ることができるようになることも喜んでくれました。その3 週間後、アネットは4月14日に亡くなりました。彼女の冒険にあふれた長い人生もついに終わりました。

しかし、アネットが残してくれたものはわたしたちの中に生き続けます。彼女の写真は、日本とアメリカが悲惨な戦争を糧に新たな関係を作り上げてきた過程の歴史的証人ともいえます。この貴重な写真をみなさんと分かち合えることを嬉しく思います。

返事を書く

コメントを記入してください
お名前を記入してください