偉大なるヒーローの静かな死…

M.L. キング牧師のデトロイトでのスピーチにも刺激され、全米にわたり人権平等意識と緊張が高まっていた1960年代。アメリカの歴史に残る1967年のデトロイト黒人暴動事件からほんの4年たった1971年、一人の小柄なイタリア系アメリカ人音楽家が、荒廃と人種差別に引き裂かれたままのデトロイト市に芸術文化を花開かせようと、ミ州ロチェスター市での安定した大学教授職を辞退し、デトロイト市内での活動を決意した。名はデビッド・ディキエラ (Dr. David DiChiera)。UCLAカリフォルニア大にて音楽を専攻、フルブライト奨学金でイタリアに渡りオペラを研究。帰国後音楽楽理で博士号をとっていた。

さて、毛皮取引、林業、自動車産業、とダイナミックに発展したデトロイトでは、一時は郊外に住む白人富裕層が優雅なヨーロッパ文化をたしなみ、週末にはニューヨークでのオペラ、コンサート、芝居などを一家で観劇に行くという時代すらあったという。しかし時は移り、フリーウエイ建設による郊外への人口移動、不景気と人種問題のひずみ、失業、不公平な都市政策などが重なり、徐々にデトロイトは危険な街に変わっていった。

ディキエラ氏の唯一の目標は、デトロイト市内にオペラ座を建設すること。それは、暴動から立ち直れず無法状態に近かった市街のイメージにこだわる一般の音楽ファンはもとより、エリート層には全く理解できないことだった。現実からかけ離れた、夢のまた夢としてあしらわれ続けた。友人、パトロンたちからは何度も、デトロイト市内はやめて、豊かな郊外都市を検討しては、と促された。そもそも芸術家たちは1960年代にデトロイトから郊外に逃避してきたばかりだった。しかしディキエラ氏の決意は揺るがなかった。“暴動がおこるのには理由がある。黒人住人が生活を共有できないように意図的に隔離されている。大コミュニティーすべての人がアクセスできる娯楽の場にするためには芸術・娯楽施設を都市の中心に持つべきである。” ヨーロッパ中心都市には必ず存在する一般市民のためのオペラ座が、デトロイト市の復活にも貢献するはずである、というディキエラ氏の大きな構想は一貫していた。折しもデトロイト川沿いでは、ヘンリー・フォード2世が提唱したデトロイト市の活性化を狙ったルネッサンス高層ビル・プロジェクトの建設計画が話し合われていた。

ミシガン・オペラ座(MOT)の名の下に、始めのデトロイトでの職は、取り壊し寸前のMusic Hall でのオペラ活動だった。そこを拠点に1973年世界初公演をしたオペラ “ワシントン・スクエアー”が成功し、全米からの称賛、芸術基金を受けられることになった。氏の知名度も高まり、オハイオ・デイトン・オペラの音楽監督、カリフォルニアでのポジションなどと責任も広がっていった。カレン夫人と共作の子供のためのオペラ“Rumpelstiltskin” もこのころ全国公演された。

Music Hall の近くに、3500席を持つ一時は豪華なCapitol Theatre と呼ばれていた映画館があった。廃墟化していて誰にも厄介物、としか映らなかった。しかしディキエラ氏の目には、この建物が将来大劇場として変貌する大きな可能性を持つ、と映った。その頃は、格式あるメンバー制のデトロイト・アソレティック・クラブ(DAC)がGrand Circus の向かい側に建っていただけで、コーヒー・ショップもまともなレストランも何もなかった頃である。かつては郊外から溢れるほどの顧客を引き付け、威勢を誇ったWoodward 通り沿いの象徴的なハドソン大衆デパートが、市民の郊外逃避、悪化一方の治安、その他にあおられて、閉店を検討していた頃でもある。同時にデトロイトは徐々にアフリカ系アメリカ人主体の街になっていた。

ディキエラ氏の決意、そして少年時代からの温和で楽天的、人を引き寄せる魅力に、莫大な相談を受けた友人の一人ルカレリ氏は、1988年暮、屋根にあいた穴の下、ネズミとハトの巣になっているビルの中を共に歩きながら、“・・・。半信半疑。でもディキエラ氏の情熱と人柄につい抵抗できず、彼の計画に参加することを約束した、”という。

こうして1989年には現在のMOTの前身となるDetroit Opera Houseの母屋がひとまずオープン。数々の新しいオペラも発表された。その後地元のみならず、全米、政府団体、企業などからの資金調達に恵まれ、隣接のビル群を買い取り拡張、大改装の結果、75,000㎡ のスペースをもつ、世界に誇れる美しいミシガン・オペラ座が完成。7年目の1996年4月、市を挙げての絢爛たる ”こけら落とし”となった。有名なルチアノ・パバロッティ(イタリア人テノール歌手)などがかなりの有力団体から資金調達に参加したのみならず、各地でMOT のために特別出演をしてくれた、と言われている。

現在このオペラ座はヨーロッパの伝統オペラのみならず、ジャズ、ダンス、コメディー・ショー、レンタル・パーティーその他で成功を収めている。そしてオペラ座、ウッドワード通りの界隈は徐々に整備され、大会社、レストランの拠点となった。コメリカ・パーク、フォード・フィールドもその後オープンした。市の変貌が続く。

ディキエラ氏の成しとげた社会貢献は、デトロイト市の文化面での復興を大胆に先導し、苦労を乗り越えて全うしたことにとどまらず、それまで機会を同等に分かち合えなかった地元の人々、つまり黒人アーティスト達のキャスティングに大きく扉を開いたことである。人種の壁が現在でも存在する米国にあって、自由平等の精神は氏の肝いりでここに生かされている。

音楽団体の役員をしていた関係で、私も何度かご一緒させていただけたことを光栄に思う。気さくで驕りの全くない方で、話しかける人にはどんな人にでも長年の友達であるかのように温かい笑顔で会話される方だった。作曲家としてのディキエラ氏の代表作品、

”CYRANO”(シラノ・ド・ベルジュラック)が、自分が創設したオペラ座で公演されるのを恐縮していらした(WRCJラジオ)。氏の正直かつ謙虚な性格を象徴していて印象的であった。2年半程前に氏を中国に招聘したいという中国系ファンからの働きかけを耳にしたので、ダメもとで、“それなら日本にも寄られませんか”とお話を持ちかけてみた。昨年春、すい臓ガンが再発したと発表され、その話はただの夢で終わってしまった。

今やニューヨークを越えて、アーティストのハブ・中心地とすら言われている躍動するデトロイト。その背景には、一人の物静な音楽家の信念と決意があった。デトロイトがドン底にあった時代に大きなヴィジョンを持ち、ひたすら市のルネッサンスに身を投じた大人物の逝去が惜しまれる。9月18日没。享年83歳。

— 元MICHIGAN州政府勤務 宮﨑京子

参考文献:

Crain’s Detroit Business 5/20/17, Detroit Free Press 9/18/18

Michigan Opera Theatre Wiki & Facebook, Detroits-Great-Rebellion (Post Riot Era) on Internet

Renaissance Center wiki, Hudson Department wiki, Other written materials & WRCJ radio interview