パート①:明治に海外開拓民の指導援助目的に発足し、海外移住に寄与した「日本力行会」 現在 国際交流と海外留学生支援を推進
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パート②:明治に海外開拓民の指導援助のために発足した「日本力行会」 現在は国際交流と海外留学生支援を推進 ~その2 施設:力行会館・幼稚園
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海外子女のパイオニアたち
日本力行会とは、1897年(明治30年)キリスト教の牧師・島貫兵太夫牧師が創立した苦学生支援組織「東京労働会」から発展し、2016年で118周年となる。明治時代、海外への移住をサポートする機関が少なかったため、海外への発展を重要視した教育施設を多数創立。そして、労働力に不足しているアメリカやカナダに貧しい青年たちを送り、互いに協力できる環境を築いた。北米・中南米・東南アジア・旧満州などへ約3万人の移住者を送り出している。日本でも外国人が共存するための国際交流と留学生支援を推進する活動を行っている。(キリスト教会からは理解されにくかったらしく、独立した教派となったそう。)
今となって世界に多くの移住者を送り出してきた日本力行会であるが、当初、海外への移住者は現代とは比べようもないほど少なかった。日本初の集団での海外移民は1868年。グアム島、ハワイ、カリフォルニアに200人以上が移住。明治20年代にカナダ、オーストラリア、フィジーなどに増え、明治30年代にはメキシコ、ペルー、フィリピンへと日本人の移住先が拡大した。こういった歴史があったからこそ、現在、世界各地で日本人が活躍できる状況となっていると言えるだろう。力行会の組織としては、1909年にサンフランシスコ力行クラブ・バンクーバー支部結成し、翌年には全世界で力行会会員が6000人を超える程の規模になった。現在も活動を続けている。
力行会とブラジル
この夏、リオ五輪で注目のブラジルだが、日本人コミュニティーが世界で最も大きいことで有名なサンパウロ州がある。ブラジルと日本の関係は深いことは知られているが、意外にも、ブラジルへの集団的な移民は1908年まで開始されなかった。1888年に奴隷が解放され、労働力確保のため1892年に日本人を含む移民の受け入れが許可された。そこからようやく集団でのブラジル移民計画が立てられ始めたが、日本での多くの計画は様々な事情により中止に終わることがあったという。
そんな中、1920年に日本力行会二代目会長に就任した永田稠氏が初の南米一巡を達成。1917年に結成された力行会ブラジル支部に移住者の送り出しが強化されされ、1924年にアリアンサ移住地施設(サンパウロ市から西北へ600キロ)が正式に開設された。しかし、公式には永田氏が別に設立した長野県民を海外移住を促進する信濃海外協会の移住地と名されていたため、力行会としては資料に名前が残っていないのだそうである。
その後、ブラジル日系社会は拡大し、第二次世界大戦後には日系子弟の教育問題を支援しようとアルモニア学生寮をサンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市に建設。1949年に力行会はその学生寮を財団法人サンパウロ学生会に寄贈した。
ちなみに、アリアンサは移住地が開設されるまではほとんど無人地帯であったが、次第に人口が増大し、最盛期には日本人移住者だけで一千世帯五千人の大移住地となった。そして隣接地にミランドポリス市が出現し、人口は増大の一途をたどったが、戦後はブラジル経済の成長とともに、日本人移住者が大都市へ移動したため、国策大移住地は消滅した。アリアンサ移住地は現在も日系移住地らしい雰囲気を残しているという。
ブラジル日系社会には力行会の出身者が多く、サンパウロ州にある有名なニシムラ農学校は日本力行会員の西村俊治氏が設立した。力行会に貢献した著名人も多く、ボーイスカウト日本連盟総長の渡辺昭氏はサンパウロ州の土地を購入し、力行会の南米農業練習所「渡辺農場」を設立。日本銀行券の五千円札の肖像として知られる新渡戸稲造氏も日本力行会顧問として支援していた。
来年2017年には力行会ブラジル支部の初代支部長が任命されてから100周年を迎える。
参考・関連サイト
「ブラジル移民の100年」ウェブサイト
「ありあんさ通信」サンパウロ移住地の歴史便り
www.gendaiza.org/aliansa/lib/index.html
「日本力行会」ウェブサイト
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☆次号では、日本力行会が運営している、留学生の宿泊施設であり一般の人も短期宿泊が可能な「力行会館」(東京都)と、隣接の「りっこう幼稚園」について紹介します。