<!--:en-->挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第4回:つながり<!--:--><!--:ja-->挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第4回:つながり<!--:-->

文:城 俊之 写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC

2010年8月、以前から借りていたノース・カロライナの事務所に到着。ここを拠点に新たな挑戦を始めようとしていた。

 「日本人カーレーサーがNASCARの本場アメリカに活動拠点を移す」というと華やかなイメージがあるが、日本での資金調達に限界を感じてアメリカに来た尾形が用意できた資金の額は想像に難くない。アパートを借りるお金など持っていないので、窓も無い狭い事務所に寝泊りする生活がアメリカ進出のスタートとなったが、勿論これは覚悟の上であった。そんな尾形がまず始めるのは「尾形明紀という人間が、アメリカにNASCARのレースをしにきた、ということを“知って”もらうこと」。スポンサー探し以前に、尾形はとにかく”人”伝えに”人”と会っていった。

 8月の渡米後、唯一決まっていた予定が、以前にも参加したアトランタ Japan Festに再び招待されていた事だった。しかし所持金は既に底を突き、資金はアトランタへのガソリン代の片道分しかなかった。「日本から持ってきた自分のNASCARグッズがいくつか売れれば帰ってこれるだろう」と楽観的とも取れる行動に出るが、その時 その時 考えられる事を動くだけで必死だった。

 一見無謀とも思えるが、尾形はNASCARのレース界に入って来る時に“ある確信”を持っていた。自分のやってきた事に不安を持った事はなかったが、誰も頼る人がいないアメリカで所持金が無くなる時に、さすがに初めて自分の置かれている立場に不安を感じた。しかし彼は「こうやればこうなる」ということを信じていたし、それを実行し続けるだけなのである。

「ダメだったら、という考えは持ったことがない。」

自分の考える道を進むのみだった。

 事実、3日間のアトランタJapan Festではいろんな人が温かく受け入れてくれた。1人が2人に、2人が4人に、と輪が広がり、終わる頃には「みんなで年末までにアキノリをレースに出場させよう!」そこまで盛り上がっていた。

 NCに戻った尾形は、ペンキ塗りや清掃などのバイトでガソリン代をつくり、とにかくいろんな人に会いに行く。会って、尾形明紀という人間を知ってもらい、NASCARへの情熱を伝えていった。そうして得た理解者・友人たちの輪が広がり、資金が少しづつ集まり、ついに皆の思いは年末のレース出場へと繋がっていった。8月から年末にかけて、まさに「激動の4ヶ月」を過ごす事となった。

 尾形には人を惹きつける魅力がある。筆者自身、レーサーというと鼻持ちならない人種が多いと思っていたが、彼は違う。プロとして妥協を許さない厳しさ、礼節を持ちながらもユーモアや親しみやすさを併せ持つ“気さくさ”があった。筆者が記事を書くにあたっても、彼が選んだ道の険しさを実感しているが、それに対して決してブレることが無い芯の強さに圧倒され続けている。方や電話でくだらない話をしたり、飲みにいったりするときの屈託ない明るさは、彼が日々歩んでいる道の険しさを全く感じさせない。

 そうした彼と、それを慕うアトランタやNCの仲間の活動と思いは、年明けにアトランタの日系企業へと届く。翌年 2011年シーズン、尾形のレースカーとレーススーツには堂々と「TOTO」の名が掲げられた。