<!--:en-->挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第3回:苦悩<!--:--><!--:ja-->挑む~NASCARドライバー 尾形明紀~ 第3回:苦悩<!--:-->

ミジェットカー参戦3年目の2002年、初めてのスポンサーとなってくれた会社から「翌年も」とオファー。そこで「来年はアメリカに行ってNASCARに乗りたい」と切り出すと、承諾してもらえた。

さっそく渡米してチームを探すが、誰一人 良い顔をしてくれる人はいない。スポンサーも決まっており資金面では問題無いはず。だがNASCARのローカルシリーズは地元チーム、地元ファンが支え続けているレース。日本から来た無名のドライバーを受け入れてくれるチームは無かった。

3回目の渡米でようやく乗せてくれるチームに出会え、念願のNASCARデビューを果たす。しかし、試練はアメリカのみでなく、「資金を調達する厳しさ」という形で、日本に待ち受けていた。

日本でプロスポーツと言えば野球、サッカーが有名。カーレースとなるとF1以外は一般の知名度は低い。そこに「NASCAR」と言うとほとんどの人が首をかしげる。ましてローカルシリーズ。スポンサー探しは難航した。NASCARに出始めればスポンサーがつくと思っていたが、日本で営業でまわるところの反応は「ローカルシリー
ズ?」以前に「NASCAR?」「カーレース?」 ・・・ついに3年目には1戦も乗ることができなかった。上のシリーズにステップアップするどころか「出れない」。考えが甘かった。

仕事の傍ら、とにかく営業。人脈は広がり、多くの人々が応援してくれるようになっていき、皆が何とかしようとしてくれた。しかし、なんともならないこの現状に尾形は焦り、「日本でNASCARの営業をする」ことに限界を感じ始める。死に物狂いでここまで進んできた尾形だが、このころはさらに苛烈さを増していた。

「アメリカに行ってNASCARレースに出る」「そのための営業をする」そしてアメリカで走れない間も「レーサーでいるために」ミジェットに出る。NASCARを走り、ミジェットを走り、腕を磨く。そして2006年、念願のミジェット初優勝。オーバルレーサーとしての核心に迫っていった。

ミジェットでの「勝利」にこだわったのには理由があった。「NASCARのスポンサーをお願いするとき、「NASCARに出たい」と口で言うだけでは人には伝わらない。何をやるにしても『言っていること』『やっていること』がすべてつながっていないと、誰かを説得することはできない。『妥協』ということはありえない。」
日本を拠点にしてNASCAR活動をする限界の果てにきた尾形が、「生活の心配」「資金の問題」がありながらも取った決断が『アメリカに移り住みレース活動をする事』だった。

新しい幕開けには心配、問題事は常についてまわっていたが、レース活動には大きな転機となっていった。

文:城 俊之 写真提供: AKINORI PERFORMANCE LLC