暦の上では秋のお彼岸と共に涼しかった夏が終わり、ミシガンにも足早な秋の訪れを感じる今日この頃ですが、皆さん、夏の思い出の整理と秋冬に向けての準備はお済でしょうか?私事ながら、自分の今夏一番の思い出は、8月半ばの週末にシンシナティーで開催されたプロのテニス・トーナメントに出掛け、久し振りにプロのテニス・プレーヤーの試合を生で観戦した事です。車で往復した1泊2日の短い滞在でしたが、現地で合流した長女と一緒に訪問初日に最終的に優勝したロジャー・フェデラー選手とアンディー・マレー選手の男子シングルスの試合、翌日はクルム伊達公子選手ペアの女子ダブルスの試合、更にブライアン兄弟の男子ダブルスの試合を観る事が出来ました。

伊達選手と言えば、彼女がまだ20代独身で活躍していた頃、家族4人で出掛けた

1994年のU.S.オープンでシングルスの試合を観戦して以来、実に丁度20年ぶりの出来事でした。勝利後のコートサイドで当時小学生だった娘二人が運良くサインをもらえたのが記憶に残っています。そのわずか数年後24歳の若さで引退してしまうとは思いも寄りませんでしたが、何と更にそれから12年後36歳でプロツアーに復帰し、現在も現役として活躍しているのはご承知の如くです。20年前と今の彼女を見比べて一番の違いは、今の彼女が楽しそうにテニスをしている事です。独身の頃は試合中はもちろん、勝敗に関係なくコートの内外でメディアへの対応も含めていつも苦しそう、辛そうな感じがありました。今は、本人も口にしていますが「テニスが楽しい」そうです。恐らく、引退前の独身・現役当時は言葉では尽くせない苦労や悩みがあり、今ようやく過剰な欲や義務感、期待感から来るプレッシャーから解放されて、本当にのびのびとテニスを楽しんでいるのではないでしょうか?まだまだ頑張って、ではなく楽しんで欲しいですね。

男子ダブルスのブライアン兄弟も我家がミシガン州南西部のバトル・クリーク市に住んでいた頃隣町のカラマズー市で今も毎夏開催されている18歳以下並びに16歳以下の全米男子ジュニア・テニス選手権大会で最初に見て以来、プロに転向した後もずっと表舞台で活躍を続けています。今回コートサイドの大型ディスプレーに映った試合前の選手紹介プロフィールで彼らの年齢が36歳と表示され、初めて彼らの試合を観たのがやはり20年前だったのだと思い出しました。自分の歳を感じるのも無理からぬ事ですね。(笑)

と、ここまでを読み直して見るとテニスの話ばかりでした。さて、本題は?

開き直る訳ではありませんが、今回は『温故知新』-テニス編と題してテニス尽くしと参りましょう。

皆さんも既にご存知のように、8月末から9月初めの2週間にわたってニューヨークで開催された今年のU.S.オープン男子シングルスで錦織圭選手が準優勝しました。普段テニスに関心のない方でも日本の新聞、テレビ、インターネットのニュース、ブログなどで関連記事を一度ならずご覧になったと思います。敗れた決勝戦だけは残念でしたが、それまでの快進撃、特に4回戦、準々決勝、準決勝の3試合は自分より格上のシード選手を次々と撃破。先の2試合はどちらも4時間を超える大熱戦。準決勝はNo.1ランクのノバク・ジョコビッチ選手を破る大殊勲と胸のすくような大躍進であれよあれよと言う間に歴史的なメジャー大会初の決勝進出を成し遂げました。今まで何度も跳ね返され、越えられなかった大きな壁をついに越えた!錦織選手、歴史に残る快挙、感動をありがとう!!

前号で「個人的には男子シングルスはロジャー・フェデラーに勝たせてあげたいですね」などと書いて、錦織選手には一言も触れず仕舞いでしたので、全くの想定外でした。これもご存知と思いますが、大会開催直前の記者会見でも錦織選手本人が3週間前に右足親指の嚢胞(のうほう)除去手術をした影響で術後の患部治癒が完全か確信が持てず、大会に出場出来るかどうかさえも分からない状態で、その上練習不足、実戦不足のため仮に出場出来てもどんなプレーが出来るか予想がつかず、不安だらけで本人すら結果は全く期待していないのが実情でした。

ところが、蓋を開ければ試合毎に調子を上げ、日本の、いやアジアの男子テニスの歴史に名前を刻む結果となりました。皆さん同様に、私もこの事件(と言っても過言ではないですね)に遭遇して改めて日本のテニス史を振り返る機会を得ました。メディア報道やご自身のネット・サーフィンなどでこれまた既にご存知かもしれませんが、日本の男子選手でテニス4大大会の準決勝に初めて進出したのは96年前の故熊谷一弥さんでした。約1世紀も前ですから、今回偉業を達成した錦織選手が更に決勝まで進んだ偉業を見れば、日本では100年に一人の逸材と呼ばれても不思議はないですね。

熊谷さんは、それまで軟式テニスしかなかった日本で初めて硬式テニスを開拓した先発グループの一員で私の大々先輩でもあり、左利きで当時硬式では見掛けなかった軟式テニスの厚いグリップ(ウェスタン・グリップ)から産み出す癖のあるスピンで相手を悩ませ、注目を浴びていたそうです。当時全米ランク3位、世界ランク7位まで上がり、1920年のアントワープ五輪の男子テニスで日本人初の単複ともに銀メダルを獲得し、同じ時期に活躍した故清水善造さんや後続の故佐藤次郎さん達と日本の硬式テニス発展の礎を築いたレジェンドですね。

清水さんは、全英ベスト4、全米ベスト8、世界ランク4位というテニスの実績に加えて、その礼儀正しさとにこやかな笑顔から海外でもミスター・シミー、スマイリー・シミーと呼ばれ英王室でも人気のジェントルマンであった由。特筆すべきは『やわらかなボール』の美談です。軟式テニスのボールの話ではありません。(笑)そう言えば私が多分小学生だった頃、国語の教科書にも載っていたような覚えがありますが、1920年

全英大会の挑戦者決定戦(今の準決勝に相当)で米国のチルデン選手との試合で同選手がコートでころんだ際に強いボールを打ち込まず、相手が立ち上がって打ち返せるようなゆるいボールを打ったという話ですね。そのポイントは立ち上がって打ち返したチルデン選手が取り、「どうだ!」と言わんばかりのポーズを取ったのに対して、観客は見向きもせず反対側のコートに居た清水選手に立ち上がって大きな拍手を送り続けたそうです。最終的に試合もチルデン選手が勝つ結果になりましたが、

二人がコートを去った後も拍手が続いていたとか。また、試合後のインタビューで

「わざとゆるいボールを打ったのか?」と訊かれた清水選手が「私のボールはゆっくりなので、そういう風に見えたかもしれませんね」と答えたそうで、彼の礼儀正しさ、気遣いと奥ゆかしさが伺えて真のジェントルマン、ミスター・シミー!涙腺が刺激され、泣きそうになってしまいます。孫の清水善三さんの話では、70歳を過ぎても毎朝壁打ち2,000回!それもほとんど打ち損じなしだったとか。熱い情熱の炎は内に秘め、外に対しては紳士であり続けた。天晴れ、ニッポン男子!同時に自己反省(笑)

錦織選手の活躍により「そんな凄い日本人プレーヤーがそんな昔にいたのか!?」と日本の硬式テニスの歴史を開拓した先人達の努力と功績にも新たな光が当たった事は嬉しい限りです。彼らやその後の停滞期にもめげずに粛々と歴史を引き継いで来た多くの人達が居たからこそ、今の日本テニス界と錦織選手がある訳ですね。テニスの技術面や成績、ランキングだけでなく、テニスが紳士・淑女のスポーツと呼ばれる理由も合わせて考える機会を与えてくれた錦織選手に再び感謝です。

『温故知新』-テニス編、如何でしたか?皆さんもご興味あれば、日本のテニス史を紐解いて見ては如何でしょうか?きっと時間が経つのを忘れますよ。

執筆者紹介:小久保陽三

Premia Partners, LLC (プレミア・パートナーズ・エルエルシー) パートナー。主に北米進出の日系企業向け経営・人事関連コンサルタント業務に従事。慶応義塾大学経済学部卒。愛知県の自動車関連部品・工業用品メーカーに入社後、化成品営業、社長室、総合開発室、米国ニューヨークの子会社、経営企画室、製品開発部、海外事業室、デトロイトの北米事業統括会社、中西部の合弁会社、WIN Advisory Group, Inc.勤務を経て現在に至る。外国企業との合弁契約、技術導入・援助契約、海外現地法人設立・立ち上げ・運営、人事問題取扱い経験豊富。06年7月より本紙に寄稿中。JBSD個人会員。

暦の上では秋のお彼岸と共に涼しかった夏が終わり、ミシガンにも足早な秋の訪れを感じる今日この頃ですが、皆さん、夏の思い出の整理と秋冬に向けての準備はお済でしょうか?私事ながら、自分の今夏一番の思い出は、8月半ばの週末にシンシナティーで開催されたプロのテニス・トーナメントに出掛け、久し振りにプロのテニス・プレーヤーの試合を生で観戦した事です。車で往復した1泊2日の短い滞在でしたが、現地で合流した長女と一緒に訪問初日に最終的に優勝したロジャー・フェデラー選手とアンディー・マレー選手の男子シングルスの試合、翌日はクルム伊達公子選手ペアの女子ダブルスの試合、更にブライアン兄弟の男子ダブルスの試合を観る事が出来ました。

伊達選手と言えば、彼女がまだ20代独身で活躍していた頃、家族4人で出掛けた

1994年のU.S.オープンでシングルスの試合を観戦して以来、実に丁度20年ぶりの出来事でした。勝利後のコートサイドで当時小学生だった娘二人が運良くサインをもらえたのが記憶に残っています。そのわずか数年後24歳の若さで引退してしまうとは思いも寄りませんでしたが、何と更にそれから12年後36歳でプロツアーに復帰し、現在も現役として活躍しているのはご承知の如くです。20年前と今の彼女を見比べて一番の違いは、今の彼女が楽しそうにテニスをしている事です。独身の頃は試合中はもちろん、勝敗に関係なくコートの内外でメディアへの対応も含めていつも苦しそう、辛そうな感じがありました。今は、本人も口にしていますが「テニスが楽しい」そうです。恐らく、引退前の独身・現役当時は言葉では尽くせない苦労や悩みがあり、今ようやく過剰な欲や義務感、期待感から来るプレッシャーから解放されて、本当にのびのびとテニスを楽しんでいるのではないでしょうか?まだまだ頑張って、ではなく楽しんで欲しいですね。

男子ダブルスのブライアン兄弟も我家がミシガン州南西部のバトル・クリーク市に住んでいた頃隣町のカラマズー市で今も毎夏開催されている18歳以下並びに16歳以下の全米男子ジュニア・テニス選手権大会で最初に見て以来、プロに転向した後もずっと表舞台で活躍を続けています。今回コートサイドの大型ディスプレーに映った試合前の選手紹介プロフィールで彼らの年齢が36歳と表示され、初めて彼らの試合を観たのがやはり20年前だったのだと思い出しました。自分の歳を感じるのも無理からぬ事ですね。(笑)

と、ここまでを読み直して見るとテニスの話ばかりでした。さて、本題は?

開き直る訳ではありませんが、今回は『温故知新』-テニス編と題してテニス尽くしと参りましょう。

皆さんも既にご存知のように、8月末から9月初めの2週間にわたってニューヨークで開催された今年のU.S.オープン男子シングルスで錦織圭選手が準優勝しました。普段テニスに関心のない方でも日本の新聞、テレビ、インターネットのニュース、ブログなどで関連記事を一度ならずご覧になったと思います。敗れた決勝戦だけは残念でしたが、それまでの快進撃、特に4回戦、準々決勝、準決勝の3試合は自分より格上のシード選手を次々と撃破。先の2試合はどちらも4時間を超える大熱戦。準決勝はNo.1ランクのノバク・ジョコビッチ選手を破る大殊勲と胸のすくような大躍進であれよあれよと言う間に歴史的なメジャー大会初の決勝進出を成し遂げました。今まで何度も跳ね返され、越えられなかった大きな壁をついに越えた!錦織選手、歴史に残る快挙、感動をありがとう!!

前号で「個人的には男子シングルスはロジャー・フェデラーに勝たせてあげたいですね」などと書いて、錦織選手には一言も触れず仕舞いでしたので、全くの想定外でした。これもご存知と思いますが、大会開催直前の記者会見でも錦織選手本人が3週間前に右足親指の嚢胞(のうほう)除去手術をした影響で術後の患部治癒が完全か確信が持てず、大会に出場出来るかどうかさえも分からない状態で、その上練習不足、実戦不足のため仮に出場出来てもどんなプレーが出来るか予想がつかず、不安だらけで本人すら結果は全く期待していないのが実情でした。

ところが、蓋を開ければ試合毎に調子を上げ、日本の、いやアジアの男子テニスの歴史に名前を刻む結果となりました。皆さん同様に、私もこの事件(と言っても過言ではないですね)に遭遇して改めて日本のテニス史を振り返る機会を得ました。メディア報道やご自身のネット・サーフィンなどでこれまた既にご存知かもしれませんが、日本の男子選手でテニス4大大会の準決勝に初めて進出したのは96年前の故熊谷一弥さんでした。約1世紀も前ですから、今回偉業を達成した錦織選手が更に決勝まで進んだ偉業を見れば、日本では100年に一人の逸材と呼ばれても不思議はないですね。

熊谷さんは、それまで軟式テニスしかなかった日本で初めて硬式テニスを開拓した先発グループの一員で私の大々先輩でもあり、左利きで当時硬式では見掛けなかった軟式テニスの厚いグリップ(ウェスタン・グリップ)から産み出す癖のあるスピンで相手を悩ませ、注目を浴びていたそうです。当時全米ランク3位、世界ランク7位まで上がり、1920年のアントワープ五輪の男子テニスで日本人初の単複ともに銀メダルを獲得し、同じ時期に活躍した故清水善造さんや後続の故佐藤次郎さん達と日本の硬式テニス発展の礎を築いたレジェンドですね。

清水さんは、全英ベスト4、全米ベスト8、世界ランク4位というテニスの実績に加えて、その礼儀正しさとにこやかな笑顔から海外でもミスター・シミー、スマイリー・シミーと呼ばれ英王室でも人気のジェントルマンであった由。特筆すべきは『やわらかなボール』の美談です。軟式テニスのボールの話ではありません。(笑)そう言えば私が多分小学生だった頃、国語の教科書にも載っていたような覚えがありますが、1920年

全英大会の挑戦者決定戦(今の準決勝に相当)で米国のチルデン選手との試合で同選手がコートでころんだ際に強いボールを打ち込まず、相手が立ち上がって打ち返せるようなゆるいボールを打ったという話ですね。そのポイントは立ち上がって打ち返したチルデン選手が取り、「どうだ!」と言わんばかりのポーズを取ったのに対して、観客は見向きもせず反対側のコートに居た清水選手に立ち上がって大きな拍手を送り続けたそうです。最終的に試合もチルデン選手が勝つ結果になりましたが、

二人がコートを去った後も拍手が続いていたとか。また、試合後のインタビューで

「わざとゆるいボールを打ったのか?」と訊かれた清水選手が「私のボールはゆっくりなので、そういう風に見えたかもしれませんね」と答えたそうで、彼の礼儀正しさ、気遣いと奥ゆかしさが伺えて真のジェントルマン、ミスター・シミー!涙腺が刺激され、泣きそうになってしまいます。孫の清水善三さんの話では、70歳を過ぎても毎朝壁打ち2,000回!それもほとんど打ち損じなしだったとか。熱い情熱の炎は内に秘め、外に対しては紳士であり続けた。天晴れ、ニッポン男子!同時に自己反省(笑)

錦織選手の活躍により「そんな凄い日本人プレーヤーがそんな昔にいたのか!?」と日本の硬式テニスの歴史を開拓した先人達の努力と功績にも新たな光が当たった事は嬉しい限りです。彼らやその後の停滞期にもめげずに粛々と歴史を引き継いで来た多くの人達が居たからこそ、今の日本テニス界と錦織選手がある訳ですね。テニスの技術面や成績、ランキングだけでなく、テニスが紳士・淑女のスポーツと呼ばれる理由も合わせて考える機会を与えてくれた錦織選手に再び感謝です。

『温故知新』-テニス編、如何でしたか?皆さんもご興味あれば、日本のテニス史を紐解いて見ては如何でしょうか?きっと時間が経つのを忘れますよ。

執筆者紹介:小久保陽三

Premia Partners, LLC (プレミア・パートナーズ・エルエルシー) パートナー。主に北米進出の日系企業向け経営・人事関連コンサルタント業務に従事。慶応義塾大学経済学部卒。愛知県の自動車関連部品・工業用品メーカーに入社後、化成品営業、社長室、総合開発室、米国ニューヨークの子会社、経営企画室、製品開発部、海外事業室、デトロイトの北米事業統括会社、中西部の合弁会社、WIN Advisory Group, Inc.勤務を経て現在に至る。外国企業との合弁契約、技術導入・援助契約、海外現地法人設立・立ち上げ・運営、人事問題取扱い経験豊富。06年7月より本紙に寄稿中。JBSD個人会員。

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