東日本大震災記念行事 EMU(イースタンミシガン大学)で開催
“LIVE YOUR DREAM: The Taylor Anderson Story”
3月4日、イースタンミシガン大学の学生会館で“夢を生きる:テイラー・アンダーソン物語”の上映会が催された。上映会は同大学とJETAA(JETアラムナイ:同窓会)により実現した。JETは「語学指導等を行う外国青年招致事業」(The Japan Exchange and Teaching Programme)の略称で、東日本大震災の犠牲になったテイラー・アンダーソンさん(当時24歳) は、このJETプログラムの英語指導助手として、2008年8月から2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波で亡くなるまで、宮城県石巻市に赴任していた。地震発生時には小学校で勤務しており、彼女は校庭に避難した子どもたちを保護者に引き渡した後、自転車で帰宅。その後津波に巻き込まれ、還らぬ人となった。
映画“夢を生きる”は、テイラー・アンダーソンという人物とその生涯、そして日本とアメリカの架け橋となったことが描かれたドキュメンタリー映画で、監督とアンダーソン一家によってこの作品は、世界中の数々の上映会で発表されてきた。
この日の上映会には、監督のライフ氏、テイラー・アンダーソンさんの父親、そしてもう一人のJET教師で陸前高田にて犠牲者となったモンティ・ディクソンさんの家族が招かれ、上映後には追悼の公開談話が行われた。
同大学の人文科学学部長の学長は開会の辞で、「大事なメッセージが伝わることだろう。」「我々の責任は東北で起きたことを決して忘れないこと。今夜視聴した後、少なくとも一人に話をして欲しい。」と話した。
映画の冒頭はテイラーさんの幼少期からの写真、そして家族や友人のインタビューを通して、彼女が前向きで明るく、人々に元気を与える性格で、子どもの頃から日本への強い興味があり、JETでの日本行は長年の夢であったことが分かるものであった。中盤は日本の勤務地でのJETの仲間たちや日本人教師がいかにテイラーさんが日本での暮らしを謳歌し、熱心に指導にあたっていたかを語り伝えた。そして3月11日の震災。津波が町を襲う映像が映し出される。早朝ヴァージニア州の両親に津波のニュースは届いた。「日本で大地震発生」。テイラーさんの携帯電話には何度かけても通じず安否確認が掴めない。 10 日あまりが過ぎ、駐日米国大使館から訃報が届いた。父親とテイラーさんの恋人が日本に渡り、遺体を確認した。
石巻での生活を愛していたテイラーさんは、2011年8月にはアメリカへ帰国を予定していたが、その後も日本と関わり続けたいと願っていた。遺族は彼女の夢であったアメリカと日本の架け橋になるという想いを引継ぎ、石巻と東北地方の学生や学校、その家族の復興援助を目的として『テーラー・アンダーソンメモリアル基金』を立ち上げた。その一つである
『テイラー文庫』は、テイラーさんが愛読していた本を、本棚と一緒に寄贈するというもので、贈与が実現した折には家族揃って石巻を訪れた。母親は語る、「娘は他人を優先する子だった。その夢を叶えなくては。」と。
上映後、片岡総領事が壇上で、心を動かされると同時に勇気を与えられる映画であると感想を述べた。また、両親の強さに感銘し、この場で会えたことが嬉しいと伝えた。遺志は生き続け、文庫と寄付は二国の絆を強固なものにしていると語った。加えて、東日本大震災後のミシガンの人々からの寄付や励ましに対する感謝の意も伝えられた。
談話と質問応答では、まずテイラーさんの父親が「皆さんの心の中に留まってくれれば嬉しい。」「JETで日本へ行くことは娘がしたかったこと。人の役に立ちたいという娘の想いを引き継いで活動していきたい。」と話した。観客からは映画の内容についての称賛と、家族が制作に協力し、さらに当地を訪れてくれたことへの感謝の言葉が続いた。「ストーリーを分かち合ってくれただけでなく、強い生き方を示してくれた。」という声もあり、「やりたいことを選ぶ。」と心を定め、JETプラグラム参加の気持ちを強くした学生もいた。
イベントに参加した誰もが、夢に生きたテイラーさんのストーリーに心を動かされ、そして娘の愛した日本のために活動しているご両親と家族に対して敬服の念で一杯になったことであろう。
テイラー・アンダーソン記念基金のホームページ(日米両国語)
www.taylorandersonmemorialfund.org
東日本大震災記念行事 EMU(イースタンミシガン大学)で開催
“LIVE YOUR DREAM: The Taylor Anderson Story”
3月4日、イースタンミシガン大学の学生会館で“夢を生きる:テイラー・アンダーソン物語”の上映会が催された。上映会は同大学とJETAA(JETアラムナイ:同窓会)により実現した。JETは「語学指導等を行う外国青年招致事業」(The Japan Exchange and Teaching Programme)の略称で、東日本大震災の犠牲になったテイラー・アンダーソンさん(当時24歳) は、このJETプログラムの英語指導助手として、2008年8月から2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波で亡くなるまで、宮城県石巻市に赴任していた。地震発生時には小学校で勤務しており、彼女は校庭に避難した子どもたちを保護者に引き渡した後、自転車で帰宅。その後津波に巻き込まれ、還らぬ人となった。
映画“夢を生きる”は、テイラー・アンダーソンという人物とその生涯、そして日本とアメリカの架け橋となったことが描かれたドキュメンタリー映画で、監督とアンダーソン一家によってこの作品は、世界中の数々の上映会で発表されてきた。
この日の上映会には、監督のライフ氏、テイラー・アンダーソンさんの父親、そしてもう一人のJET教師で陸前高田にて犠牲者となったモンティ・ディクソンさんの家族が招かれ、上映後には追悼の公開談話が行われた。
同大学の人文科学学部長の学長は開会の辞で、「大事なメッセージが伝わることだろう。」「我々の責任は東北で起きたことを決して忘れないこと。今夜視聴した後、少なくとも一人に話をして欲しい。」と話した。
映画の冒頭はテイラーさんの幼少期からの写真、そして家族や友人のインタビューを通して、彼女が前向きで明るく、人々に元気を与える性格で、子どもの頃から日本への強い興味があり、JETでの日本行は長年の夢であったことが分かるものであった。中盤は日本の勤務地でのJETの仲間たちや日本人教師がいかにテイラーさんが日本での暮らしを謳歌し、熱心に指導にあたっていたかを語り伝えた。そして3月11日の震災。津波が町を襲う映像が映し出される。早朝ヴァージニア州の両親に津波のニュースは届いた。「日本で大地震発生」。テイラーさんの携帯電話には何度かけても通じず安否確認が掴めない。 10 日あまりが過ぎ、駐日米国大使館から訃報が届いた。父親とテイラーさんの恋人が日本に渡り、遺体を確認した。
石巻での生活を愛していたテイラーさんは、2011年8月にはアメリカへ帰国を予定していたが、その後も日本と関わり続けたいと願っていた。遺族は彼女の夢であったアメリカと日本の架け橋になるという想いを引継ぎ、石巻と東北地方の学生や学校、その家族の復興援助を目的として『テーラー・アンダーソンメモリアル基金』を立ち上げた。その一つである
『テイラー文庫』は、テイラーさんが愛読していた本を、本棚と一緒に寄贈するというもので、贈与が実現した折には家族揃って石巻を訪れた。母親は語る、「娘は他人を優先する子だった。その夢を叶えなくては。」と。
上映後、片岡総領事が壇上で、心を動かされると同時に勇気を与えられる映画であると感想を述べた。また、両親の強さに感銘し、この場で会えたことが嬉しいと伝えた。遺志は生き続け、文庫と寄付は二国の絆を強固なものにしていると語った。加えて、東日本大震災後のミシガンの人々からの寄付や励ましに対する感謝の意も伝えられた。
談話と質問応答では、まずテイラーさんの父親が「皆さんの心の中に留まってくれれば嬉しい。」「JETで日本へ行くことは娘がしたかったこと。人の役に立ちたいという娘の想いを引き継いで活動していきたい。」と話した。観客からは映画の内容についての称賛と、家族が制作に協力し、さらに当地を訪れてくれたことへの感謝の言葉が続いた。「ストーリーを分かち合ってくれただけでなく、強い生き方を示してくれた。」という声もあり、「やりたいことを選ぶ。」と心を定め、JETプラグラム参加の気持ちを強くした学生もいた。
イベントに参加した誰もが、夢に生きたテイラーさんのストーリーに心を動かされ、そして娘の愛した日本のために活動しているご両親と家族に対して敬服の念で一杯になったことであろう。
テイラー・アンダーソン記念基金のホームページ(日米両国語)
www.taylorandersonmemorialfund.org