
東日本大震災から3年経過した3月11日、ミシガン大学アジア言語・文化学部の日本語課の教師および学生によるイベントが催された。昨年も同日に追悼イベントが行われたが、今年も昨年同様、大勢の日本語クラスの学生を中心に、外部からも人が訪れ、2時間半にわたって支援に関するプレゼンテーションやトークが(英語で)行われた。
プログラムには「東日本大震災は、2万人の犠牲者が出た1件の震災ではありません。悲しい1件1件の事件が2万件も起きたのです。(スコップ団 平了)」という言葉が記され、人々の声や状況に焦点をあてた追悼イベントになっていた。
進行役の学生(アイ チョウンさん)からの「ともに何ができるか考えよう。」との呼びかけでスタート。まず“フォトボイス・プロジェクト”に関する翻訳コースでの取り組みについて、2年にわたって携わっている大学生(ロデリックさん)と指導担当の望月先生より説明があった。
“フォトボイスプロジェクト”はミシガン大学(社会福祉学)吉浜教授が、復興支援を模索するための調査として被災者の声を収集するために選んだ方法で、被災地の女性達が地震や津波、原発事故に関する自分自身の経験を撮影した写真に、撮影者の自身のつぶやきのような言葉が添えられている。言葉だけ、あるいは写真だけでは伝わりにくいことを社会に発信する手法である。大震災1周年に同学内で写真展が開催されたが、今回の会場には日本語翻訳コースの学生達が手がけた英文を添えた20あまりの作品が展示されていた。崩れた橋や瓦礫の写真もあれば、立入禁止区域の家の台所(冷蔵庫の中身が腐っているだろうからとテープでぐるぐると封印)やがらんとした保育園舎を写したものもあり、今も手つかずな地域があることを再認識させられる。それを撮っているのは避難生活が終わらない被災者たちだと思うと胸が塞がる。英訳は共同的に何十ものプロセスを経て多くの時間をかけて行われ、原文の声を発した被災者の思いをより反映した翻訳をするために、学生達は被災や避難の状況を学び気持ちを推し測ったという。フォトボイスの写真と文は、今までに東京やパリでも展示され、今後も継続していくとのこと。
ゲストスピーカー(学生のエルズベリーさんが紹介)として、震災時に気仙沼市でJETプログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業)の英語指導助手をしていたポール・フェレズ氏が体験を語った。震災後、2013年夏にミシガンに帰還するまで気仙沼に留まり、復興をその目で見てきたポールさんは「震災時に起きたことや自身の経験、その後の状況について共有することで復興支援の役にたてれば幸いです」と切り出し、まず被災経験を語り始めた。3月11日には離島で勤務していた時に地震が発生し、島自体は津波被害は無かったが、アパートがある本土に戻る連絡船が不通になり、電気・通信が途絶えた状態で学校の体育館での避難生活を余儀なくされた。5日後に本土に戻り、被害の甚大さにショックを受けた。アパートは残っていたが住める状態では無く、別の学校での避難生活や仮住まいが数カ月続いた。
ポール・フェレズ氏による講演の後には、同大学院生(ブラッドリーさん)がインタビュアを務めて、公開インタビューの時間が設けられ、心境やその後の状況についてより深く明かされた。日本を離れたJETプログラム参加者が少なくない中で、ポールさんは勇敢にも留まった理由を「皆が何かしらしているように、自分にできることをしたかった。するべき務めを果たしただけ」と淡々と話す。そして、3年経ったが、すさまじい光景は記憶に突き刺さり忘れることが無いと胸の内を吐露する。一方で、ポールさん用の救援物資をきちんと確保してくれたことなど、人々の態度や温情も忘れない。復興するための労力や金銭の支援は今も必要で、「もう遅いということはない」「まだまだすることが沢山ある」と強調し、また、「忘れていないことを示すことにも意義があり、応援になるであろう。」と示唆した。近い将来、東北に戻ってボランティアをしたいという。
プログラムの最後に、3年後の復興状況を伝えるビデオが流され、家屋の復興が農地や漁港に比べて桁外れに遅れている現状が示された。
日本語プログラムのディレクターを務める岡先生より、震災の次の年は一人の留学生も日本へ行かなかったが、今年と来年は約20人が交換留学を決めているとの明るい報告があった。岡先生は「今日は震災3周年で日本について取り上げたが、世界中の災害に目を向けるきっかけとなれば」と言葉を加えた。榊原先生は「日本に行くと、(当地との)温度差を感じる。私たちがミシガンでできることは、今の日本を伝え、忘れないこと」と伝え、追悼イベントに幕を下ろした。
東日本大震災から3年経過した3月11日、ミシガン大学アジア言語・文化学部の日本語課の教師および学生によるイベントが催された。昨年も同日に追悼イベントが行われたが、今年も昨年同様、大勢の日本語クラスの学生を中心に、外部からも人が訪れ、2時間半にわたって支援に関するプレゼンテーションやトークが(英語で)行われた。
プログラムには「東日本大震災は、2万人の犠牲者が出た1件の震災ではありません。悲しい1件1件の事件が2万件も起きたのです。(スコップ団 平了)」という言葉が記され、人々の声や状況に焦点をあてた追悼イベントになっていた。
進行役の学生(アイ チョウンさん)からの「ともに何ができるか考えよう。」との呼びかけでスタート。まず“フォトボイス・プロジェクト”に関する翻訳コースでの取り組みについて、2年にわたって携わっている大学生(ロデリックさん)と指導担当の望月先生より説明があった。
“フォトボイスプロジェクト”はミシガン大学(社会福祉学)吉浜教授が、復興支援を模索するための調査として被災者の声を収集するために選んだ方法で、被災地の女性達が地震や津波、原発事故に関する自分自身の経験を撮影した写真に、撮影者の自身のつぶやきのような言葉が添えられている。言葉だけ、あるいは写真だけでは伝わりにくいことを社会に発信する手法である。大震災1周年に同学内で写真展が開催されたが、今回の会場には日本語翻訳コースの学生達が手がけた英文を添えた20あまりの作品が展示されていた。崩れた橋や瓦礫の写真もあれば、立入禁止区域の家の台所(冷蔵庫の中身が腐っているだろうからとテープでぐるぐると封印)やがらんとした保育園舎を写したものもあり、今も手つかずな地域があることを再認識させられる。それを撮っているのは避難生活が終わらない被災者たちだと思うと胸が塞がる。英訳は共同的に何十ものプロセスを経て多くの時間をかけて行われ、原文の声を発した被災者の思いをより反映した翻訳をするために、学生達は被災や避難の状況を学び気持ちを推し測ったという。フォトボイスの写真と文は、今までに東京やパリでも展示され、今後も継続していくとのこと。
ゲストスピーカー(学生のエルズベリーさんが紹介)として、震災時に気仙沼市でJETプログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業)の英語指導助手をしていたポール・フェレズ氏が体験を語った。震災後、2013年夏にミシガンに帰還するまで気仙沼に留まり、復興をその目で見てきたポールさんは「震災時に起きたことや自身の経験、その後の状況について共有することで復興支援の役にたてれば幸いです」と切り出し、まず被災経験を語り始めた。3月11日には離島で勤務していた時に地震が発生し、島自体は津波被害は無かったが、アパートがある本土に戻る連絡船が不通になり、電気・通信が途絶えた状態で学校の体育館での避難生活を余儀なくされた。5日後に本土に戻り、被害の甚大さにショックを受けた。アパートは残っていたが住める状態では無く、別の学校での避難生活や仮住まいが数カ月続いた。
ポール・フェレズ氏による講演の後には、同大学院生(ブラッドリーさん)がインタビュアを務めて、公開インタビューの時間が設けられ、心境やその後の状況についてより深く明かされた。日本を離れたJETプログラム参加者が少なくない中で、ポールさんは勇敢にも留まった理由を「皆が何かしらしているように、自分にできることをしたかった。するべき務めを果たしただけ」と淡々と話す。そして、3年経ったが、すさまじい光景は記憶に突き刺さり忘れることが無いと胸の内を吐露する。一方で、ポールさん用の救援物資をきちんと確保してくれたことなど、人々の態度や温情も忘れない。復興するための労力や金銭の支援は今も必要で、「もう遅いということはない」「まだまだすることが沢山ある」と強調し、また、「忘れていないことを示すことにも意義があり、応援になるであろう。」と示唆した。近い将来、東北に戻ってボランティアをしたいという。
プログラムの最後に、3年後の復興状況を伝えるビデオが流され、家屋の復興が農地や漁港に比べて桁外れに遅れている現状が示された。
日本語プログラムのディレクターを務める岡先生より、震災の次の年は一人の留学生も日本へ行かなかったが、今年と来年は約20人が交換留学を決めているとの明るい報告があった。岡先生は「今日は震災3周年で日本について取り上げたが、世界中の災害に目を向けるきっかけとなれば」と言葉を加えた。榊原先生は「日本に行くと、(当地との)温度差を感じる。私たちがミシガンでできることは、今の日本を伝え、忘れないこと」と伝え、追悼イベントに幕を下ろした。