2月上旬、ボストンとデトロイトに、伝統木版画の版元である高橋由貴子氏と摺師(すりし)の平井恭子氏の御二人が国際交流基金の事業の一環として派遣された。デトロイトでは日本国総領事館の協力のもと、2月7日にミシガン大学ディアボーン校、2月9日にはデトロイト美術館に於いて実演及びレクチャーが一般公開形式で行われ、多くの人が浮世絵や木版画の世界に触れる機会に恵まれた。
レクチャーと解説付きの実演は前述2か所でほぼ同じ内容で行われ、冒頭にまず高橋由貴子氏が、自分は研究者ではなく職人であると前置きした上で今回は実演を観たり、持参した作品を手に取り楽しんで欲しいと述べた。
実演に先がけ、伝統版画の歴史と工程について多数の実物版画作品とスライドを使い解説。自分のデザインで彫りと摺りまで手掛ける創作版画とは異なり、伝統版画は絵師、彫師、摺師の分業であり、それを統括するのが版元。江戸時代から続く摺師の家に生まれ育ち、摺る技術を身につけ、現在は版元として版画作品のプロデュースをしており、全ての工程に精通する高橋氏ならではの説明は聴講者を魅了した。日本国内であれば展示会で名立たる浮世絵を目にする機会はあっても、通常作品に触れることなど御法度であるが、ここでは参加者が実際に作品に触れることを許された、貴重な体験の場となった。ガラス付きの額に収められているものでも、「和紙の感触、特にレースのように浮き上がらせる技法や、透かしたり傾けることで浮かび上がる仕掛けを、当時の人の気分になって楽しんで頂きたい」と奨励した。
当時の浮世絵はアートではなく情報。風景画は近代のガイドブックにあたり、美人画や武者絵は現在のブロマイドのような存在。当時の値段はかけそば一杯程度で、庶民にも手軽に入手できていたという。
木版画や浮世絵の知識が、多少なりとも伴う当地の在留邦人や日系人にとっても新鮮な話であったのは、「北斎や広重など当時の絵師の原画は存在しない」という事実。紛失したためでは無い。絵師がまずラインのみを薄い紙に描き、それを彫師は糊で木に貼りそのまま彫ってしまう。彫った後に絵師が色を決め再び彫師が版を刷る。この独特の工程ゆえに原画は存在しないのである。浮世絵の復刻には、持ち主に写真を撮らせてもらうなどして過去に出版された版画を版(板)から彫り、摺るという。高橋氏の工房では、復刻版ばかりではなく、有名な西洋の油絵や現代画の木版画による再現の作製注文、というものもあるそうで、伝統の技を用いると百色にも及ぶという。かつて注文を受けた、セザンヌの作品の再現にはおよそ三百色を使い手がけたとのこと。さらには現代彫刻家や建築家とのコラボレーションも行われている。今回のレクチャーには、貴重な百年以上前の武者絵も持参した。
実演では、摺師である平井氏が、葛飾北斎の『冨嶽三十六景、神奈川沖浪裏』の摺りを披露した。この作品は、当時の浮世絵として比較的色数が少ない9色刷りで、板は5枚。着々と手際よく摺り進める様子を見ると一見、簡単な作業であるかと錯覚するが、実は絵の具や糊の薄め具合、和紙の湿らせ方、摺りの力加減などなど、長い(最低7~10年の)修業が求められ、また、工程を覚えたからといって技が伴うかは別という非常に難しいものであることが伝えられた。実演中には摺りの工程の説明の他、かつての徒弟制度の下での厳しい修行、女性の摺師はまずいなかった逸話などが織り込まれ、飽くことのないレクチャーとなった。
材料や用具に関しては、バレンは八女の竹から取れるもののみ、またブラシには馬の毛が利用され、和紙は42枚重ねの美濃紙を使用するとのこと。価格も高価となれば、たやすく入手できないことが頷ける。伝統版画に使っている和紙は無形文化財に指定されており、「手作りで、百年以上途絶えることなく、材料も技法も続いていること」というその条件をクリアしている。希少であり作業そのものにも緻密で並外れた才能と努力が要される浮世絵に、江戸時代には庶民の手に容易に届いたというのは、何より‘手間’が安かったからに他ならない。
ミシガン大学ディアボーン校では講義の後、美術専攻の学生などを対象にアートスタジオにて‘摺りの体験ワークショップ’がもたれ、参加者は3色刷りの小作品に挑み、面白さと難しさを体感した。スタジオには華やかかつ雅な絵巻が繰り広げられ、皆を楽しませた。また、歌川広重の「名所江戸百景―千駄木団子坂花屋敷」の版木にはルーペが添えられ展示され、その微細な技を確かめる機会も与えられた。版木とルーペはデトロイト美術館でのレクチャーに於いても展示され、同じく広重の「愛宕愛宕下藪小路」の20色に及ぶ作品の‘順序摺り’や他の広重の作品とともに、多くの来訪者の関心をよんだ。順序摺りとは、仕上がるまでの全ての色段階を並べたもので、工程の多さと色重ねの効果がより良く理解できるようになっており、子ども達も感嘆の声をあげていた。
高橋氏は、「興味をもって見ていただき、話にも高い関心を寄せていいただいて、嬉しい」との感想を寄せた。氏によれば、復刻版を購入する外国の人は少ないということで、日本国内のコレクターによる購入が大半であるとのこと。因みに当時のオリジナルは非常に数が少なく、売買そのものが非常に稀なことであるという。
また、美術館や展覧会で公開されている浮世絵の中には、特に海外では、「こんなものが・・・」という作品が含まれていることもあるという。何百、何千と摺れば、版木が劣化し出来栄えが劣る物も出てくるのは然りで、摺り状態がどうであれ、当時の物であれば十分に価値はあるという。また、レクチャーでも話題として取り上げられたが、浮世絵は色合いにもかなり違いがあるのだそうだ。それが手摺りの味ともいわれよう。ゴッホが好み模写さえしたという浮世絵。世界の人々が認める技と美に思いを馳せ、愛でる心を大切に持ち続けたいものである。
2月上旬、ボストンとデトロイトに、伝統木版画の版元である高橋由貴子氏と摺師(すりし)の平井恭子氏の御二人が国際交流基金の事業の一環として派遣された。デトロイトでは日本国総領事館の協力のもと、2月7日にミシガン大学ディアボーン校、2月9日にはデトロイト美術館に於いて実演及びレクチャーが一般公開形式で行われ、多くの人が浮世絵や木版画の世界に触れる機会に恵まれた。
レクチャーと解説付きの実演は前述2か所でほぼ同じ内容で行われ、冒頭にまず高橋由貴子氏が、自分は研究者ではなく職人であると前置きした上で今回は実演を観たり、持参した作品を手に取り楽しんで欲しいと述べた。
実演に先がけ、伝統版画の歴史と工程について多数の実物版画作品とスライドを使い解説。自分のデザインで彫りと摺りまで手掛ける創作版画とは異なり、伝統版画は絵師、彫師、摺師の分業であり、それを統括するのが版元。江戸時代から続く摺師の家に生まれ育ち、摺る技術を身につけ、現在は版元として版画作品のプロデュースをしており、全ての工程に精通する高橋氏ならではの説明は聴講者を魅了した。日本国内であれば展示会で名立たる浮世絵を目にする機会はあっても、通常作品に触れることなど御法度であるが、ここでは参加者が実際に作品に触れることを許された、貴重な体験の場となった。ガラス付きの額に収められているものでも、「和紙の感触、特にレースのように浮き上がらせる技法や、透かしたり傾けることで浮かび上がる仕掛けを、当時の人の気分になって楽しんで頂きたい」と奨励した。
当時の浮世絵はアートではなく情報。風景画は近代のガイドブックにあたり、美人画や武者絵は現在のブロマイドのような存在。当時の値段はかけそば一杯程度で、庶民にも手軽に入手できていたという。
木版画や浮世絵の知識が、多少なりとも伴う当地の在留邦人や日系人にとっても新鮮な話であったのは、「北斎や広重など当時の絵師の原画は存在しない」という事実。紛失したためでは無い。絵師がまずラインのみを薄い紙に描き、それを彫師は糊で木に貼りそのまま彫ってしまう。彫った後に絵師が色を決め再び彫師が版を刷る。この独特の工程ゆえに原画は存在しないのである。浮世絵の復刻には、持ち主に写真を撮らせてもらうなどして過去に出版された版画を版(板)から彫り、摺るという。高橋氏の工房では、復刻版ばかりではなく、有名な西洋の油絵や現代画の木版画による再現の作製注文、というものもあるそうで、伝統の技を用いると百色にも及ぶという。かつて注文を受けた、セザンヌの作品の再現にはおよそ三百色を使い手がけたとのこと。さらには現代彫刻家や建築家とのコラボレーションも行われている。今回のレクチャーには、貴重な百年以上前の武者絵も持参した。
実演では、摺師である平井氏が、葛飾北斎の『冨嶽三十六景、神奈川沖浪裏』の摺りを披露した。この作品は、当時の浮世絵として比較的色数が少ない9色刷りで、板は5枚。着々と手際よく摺り進める様子を見ると一見、簡単な作業であるかと錯覚するが、実は絵の具や糊の薄め具合、和紙の湿らせ方、摺りの力加減などなど、長い(最低7~10年の)修業が求められ、また、工程を覚えたからといって技が伴うかは別という非常に難しいものであることが伝えられた。実演中には摺りの工程の説明の他、かつての徒弟制度の下での厳しい修行、女性の摺師はまずいなかった逸話などが織り込まれ、飽くことのないレクチャーとなった。
材料や用具に関しては、バレンは八女の竹から取れるもののみ、またブラシには馬の毛が利用され、和紙は42枚重ねの美濃紙を使用するとのこと。価格も高価となれば、たやすく入手できないことが頷ける。伝統版画に使っている和紙は無形文化財に指定されており、「手作りで、百年以上途絶えることなく、材料も技法も続いていること」というその条件をクリアしている。希少であり作業そのものにも緻密で並外れた才能と努力が要される浮世絵に、江戸時代には庶民の手に容易に届いたというのは、何より‘手間’が安かったからに他ならない。
ミシガン大学ディアボーン校では講義の後、美術専攻の学生などを対象にアートスタジオにて‘摺りの体験ワークショップ’がもたれ、参加者は3色刷りの小作品に挑み、面白さと難しさを体感した。スタジオには華やかかつ雅な絵巻が繰り広げられ、皆を楽しませた。また、歌川広重の「名所江戸百景―千駄木団子坂花屋敷」の版木にはルーペが添えられ展示され、その微細な技を確かめる機会も与えられた。版木とルーペはデトロイト美術館でのレクチャーに於いても展示され、同じく広重の「愛宕愛宕下藪小路」の20色に及ぶ作品の‘順序摺り’や他の広重の作品とともに、多くの来訪者の関心をよんだ。順序摺りとは、仕上がるまでの全ての色段階を並べたもので、工程の多さと色重ねの効果がより良く理解できるようになっており、子ども達も感嘆の声をあげていた。
高橋氏は、「興味をもって見ていただき、話にも高い関心を寄せていいただいて、嬉しい」との感想を寄せた。氏によれば、復刻版を購入する外国の人は少ないということで、日本国内のコレクターによる購入が大半であるとのこと。因みに当時のオリジナルは非常に数が少なく、売買そのものが非常に稀なことであるという。
また、美術館や展覧会で公開されている浮世絵の中には、特に海外では、「こんなものが・・・」という作品が含まれていることもあるという。何百、何千と摺れば、版木が劣化し出来栄えが劣る物も出てくるのは然りで、摺り状態がどうであれ、当時の物であれば十分に価値はあるという。また、レクチャーでも話題として取り上げられたが、浮世絵は色合いにもかなり違いがあるのだそうだ。それが手摺りの味ともいわれよう。ゴッホが好み模写さえしたという浮世絵。世界の人々が認める技と美に思いを馳せ、愛でる心を大切に持ち続けたいものである。