<!--:en-->Japanese School of Detroit First President Visits Michigan<!--:--><!--:ja-->デトロイト補習授業校初代派遣教員、広島常隆校長先生より話を伺う<!--:--> 2

現在ノバイ市に事務所を置き、同校舎で授業を行っているデトロイトりんご会補習授業校は昨年2013年に4 0周年を迎えた。その歴史を紐解けば、1973年に子弟の日本語教育の場を設けることを主な目的としてデトロイト日本人会(Japanese Society of Detroit)を設立し、駐在員及びデトロイト在住日本人子弟2 3名を対象とした、デトロイト日本語補習教室を開校したのが始まりであった。20年後の1993年には現在の名称である学校法人デトロイトりんご会(Japanese School of Detroit)としてデトロイト日本人会と分離されることになったが(デトロイト日本人会はデトロイト日本商工会として発足)歴史の中で特記すべき一つの節目と言えるのが、1981年の“補習授業校”への改名である。1980年に日本語補習教室の生徒数が文部省より教員派遣を受けられるボーダーラインである百名を超え、翌年1981年に学校名をデトロイト補習授業校と改名した。その初の派遣教員であり、初代校長を務められた広島常隆校長先生が今年7月に28年ぶりにミシガンを再訪された。7月7日の広島先生ご夫妻歓迎ピクニックで当時のお話を伺う機会を得た。

補習授業校の規模と初代校長の業務

広島校長先生が着任した1981年には、ご自身のお子さん3 人を含めて1 23名の児童生徒が在籍しており、Cranbrook Brookside School (Bloomfield Hills, MI)の教室を借りて小学1年から中学3年まで各学年1学級の体制で授業を行っていた。補習授業校としての自前の機材はテープレコーダー1台のみしか無く、広島校長先生が日本から送った和文タイプが届くまでの3週間は、ガリ版で学校通信「デトロイト」を刷った。ガリ版とは正式名称を謄写版(とうしゃばん)といい、30年位前まで活躍した印刷方法の一つで、特殊な原紙を専用のやすりの上に載せ、‘鉄筆’で書くというより、傷をつけて原版を作るもの。ペン書きとは段違いの労力であり、インクを付けたローラーを転がして1枚1枚するという手間と時間のかかる作業であった。当初は事務職員もおらず、日本で中学の国語教師であった奥様も教壇に立ちつつ、在籍管理や授業料の処理、給与計算などの事務を二人三脚でこなす日々だった。校長先生は日本で専門であった中学の社会科の他、希望を認められて在籍していた高校生の社会も担当していた。

直に届いた和文タイプライターも、活字体で作成できる点はレベルアップだが、手間は膨大だったそうだ。日本語は欧文のアルファベットの何十倍という膨大な文字で構成されているため、タイプライターでも千を優に超す文字を探して一文字ずつ打ち込んでいかなくてはならない。これで原稿を作成した後、購入したコピー機で印刷していた。その後ワードプロセッサーが手に入った時には便利さに驚いた、と奥様は談笑した。

授業は土曜日だけの百人強の補習授業校とはいえ、それに伴う事務も一手に任された多忙さは想像に難い。しかも、ご夫妻にとっても慣れない海外生活であり、学齢期の子ども達が通う学校環境も今とは大差があったに違いないが、企業の海外進出のパイオニアである人々からみれば「日本人コミュニティーもできて、整った環境になってから派遣されるのが教員」と言われもし、自身もそう思っていたとの話。ちなみに、当時は日本の食料品は、地元にいくらか扱う店はあったが、シカゴまで行って調達していたと言うことである。

Kensington Academy (BloomfieldHills, MI) に校舎移転、学校生活・学習内容も膨らんでいった

赴任して1学期が終わる頃に移転が決まり、年度途中の10月3日から新校舎での授業が行われた。それまでは学年によって終業時刻がまちまちであったが、送り迎えの都合による父母のニーズに応えて、全学年の下校時間を揃えるために1日6時間授業になった。

今のような日本語放送サービスもなく、インターネットも無い時代で、日本語の本やビデオの入手が困難であった。企業からのテレビの寄贈を受け、授業として理科番組を観る時間を設けるなど、当時ならではの工夫もあった。当時の同校の小学部では通常は国語と算数のみを履修していたが、7月の第2週までで一旦1学期を終了した後、残りの7月中にはサマースクールとして、お話や社会科のビデオを映して感想を発表させる活動を提供した。 また、毎週土曜日は、全校揃って音楽朝礼で始まり、ラジオ体操をしたり、父母のボランティアによる本の読み聞かせが行われていたということ。日本語や日本の文化を学ぶ機会を提供したいという関係者の願いの強さが窺われる。

運動会はそれ以前(日本語補習教室当時)から実施されていた。競技は、現在のりんご会授業補習授業校でも変わらず行われている玉入れや綱引き、騎馬戦などが行われていたが、児童生徒だけでは人数が少ないため、親も競技に動員され、児童生徒達の出場回数も多かったそうだ。「親も混じっての楽しい手作りの運動会でした」と広島校長先生は懐かしそうに語った。

当時ならではの逸話 当時はデトロイトには総領事館が無く、ミシガン州はシカゴ総領事館の管轄であった。日本からシカゴ領事館を通して届くはずの教科書の‘下巻’が、10月に届くべきところ、郵便と検閲のためか11月下旬まで到着しなかったことがあったが、何とかやり繰りしたとのこと。「無いことだらけでも、工夫することに慣れていたのでしょうな」と広島校長先生は述懐する。

無いと言えば、日本の書籍を扱う店も無かったため、年に一度、シカゴより本屋の出張販売が授業日に合わせて屋外で行われ、移動販売の大きなワゴン車がダンボールに沢山の各種の本を積んで来て広げ、大人も含めて大人気であったとの事。

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広島元校長先生は7月13日に、りんご会補習授業校を訪問。広島先生の在職中(派遣4年目)の1984年に同校事務職と小6の学級担任に就き、後に事務長として2006年まで務めていたジョーンズみえ子氏が同伴して、校舎や園児・児童生徒たちの様子を見て回った。10年ほど前には千人規模であったことや、3つの校舎に分かれて授業を行っていた時期もあったこと、今は高等部も幼稚園部もあることなど、変革の歴史は耳にしていたが、実際に授業日の様子を見て、「いやあ、大きいですねえ」と驚きの声を漏らした。そして、規模は変わっても、「昔も今も子ども達の素敵な笑顔は変わっていません」と感想を話してくださった。その変わらない笑顔をつくってきたのが、他ならぬ初代校長先生である。そしてその後、多くの関係者や保護者が子ども達の幸せを願ってたゆまぬ支援を届けてきた。

物も人の数も少なかった頃の話を広島校長先生より伺って、現在の恵まれている面を認識し、また逆に何が欠けてしまったかを考えることがより良い未来への鍵ではないかと感じた。